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2015.01.31 Saturday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

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     これまでの記事で、

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

    小山先生の立ち位置とそれに影響を与えたヘッシェル、富士山への信仰とシナイ山への臨在を介して示される神への信仰の違い、そして、天国観・あるいは死生観というのか、天国理解の問題を触れた。今回は、もう少し日本の文化に関する記述を見ながら、考えてみたい。

    佛教とキリスト教

     まず、佛教とキリスト教との違いについて、小山先生は

     神はわれらの歴史に深く関与している。神は我々の世界を見捨てはしない。神は我々の世界に何度も何度も立ち帰ってくる。これは仏教でいう般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)、即ち人間性の限界を超えた究極の智恵である。聖書に照らせば、この神の知恵は人間の創造や機体のかなたにまで達することを意味 する。とはいえ、神の知恵を「この世を超脱した」あるいは「この世のしがらみを超えた」彼岸の知恵と介してはならない。世界を救済するためにこの世に深く関与している知恵である。大乗仏教の般若波羅蜜の教えは、この世を超越して「彼岸の」世界に赴くべしと説く。しかし聖書の神は二度も罪深い人々のもとに来る神である。神は胸騒ぎを知る神である。(前掲書 p.26)
    と小山先生は、佛教(大乗仏教)と キリスト教との共通性、人間的な限界を超えたメタ概念としての超越性に関する智恵(般若波羅蜜と表象しておられる、と思う)を求める点は、確かに仏教とキリスト教は共通であるが、佛教側が「あちらに行く側」「行っちゃう」ということとかかわっていることと比べ、聖書の神が「こっちに来る」「来ちゃう」ということが 大きく違う、とおっしゃっておられるようなのだ。

     日本では、信仰心を持つと、現実の世界から離れるという意味で、信仰者を「あっち側へ行っちゃった人」ととらえ がちであるが、キリスト教の信仰者は、その地にどどまる人でもあると理解した方がいいのかもしれない。聖書の神は「あっち側からこの地上に来ちゃった神」 なのであり、辺境にいる偏狭な我らのところに来られるところにその特徴があることをきちんとここで述べておられる。

    東南アジア的な視座と聖書の視座

     日本文化の視座は、腐敗と死が広く見られる現象であるにもかかわらず、自然の連続性に対する信頼によって性格づけられている。自然によって魅惑されている民族はいわば連続性志向の民族である。神と人類が連続している。生きとし生けるものはすべて同じ生命原理(サンスクリット語で「ジーヴァ」)を共有している。連続性は非連続性と比較すると神秘的かつ創造的に経験される。こうした観察は日本についてばかりではなく、基本的にアジア文化全体についてなされている。シナイ山の伝統は言う、神と人類は連続していないと。救済は単に世代交代を通して我々の生命が永続化されるようなことではない。他方、アジア的霊性は連続性を背景にして非連続性を肯定的に認識する。ここには、連続性が非連続性に意味を付与しているという微妙な強調がある。聖書的霊性からすれば逆である。連続性に意味を付与しているのは非連続性なのだ。(富士山とシナイ山 p.27-28)

     この部分をもう少しミーちゃんはーちゃん風に解説してみたい。オリジナルの『富士山とシナイ山』の本文を見ていただいたら、わかるのだが、本来、腐敗と死によって、断絶があるはずなのに、日本および東南アジアという方が正確なアジア(あるいはアジアから西アジアを除いたアジア)では、神と人とが連続的に生きている社会だ、という指摘、あるいはそういう視座から、比較宗教的な視点で考えてみるのは、面白いかもしれない。日本は死ですら、川に流されることで清浄化されるという概念があるような気がしてならない。流しびな(そういえばもうすぐ「ひな祭り」)の伝統なんかもそれに関係しているような気がする。


    鳥取県智頭観光協会による「流しびな」の写真
    智頭町には、姫路から列車(智頭急行)でどうぞ。

    アジア的な霊性の理解

     たとえば、水木しげる著の『のんのんばぁとオレ』等では、人間と自然は非常に連続性に満ちている世界が生き生きと示されているし、お墓参りなどの祖霊信仰、儒教的な祖霊崇拝などは、いわば連続性志向であるし、人間が悟りを開いて仏になるという仏教的な世界観(多分間違ってないと思う)から考えれば、一種の連続性をもったものといえるだろう。インドネシアでの精霊理解等も、この種の連続性で理解されると思う。

     あるいは、輪廻転生というようなインド的な世界観はまさしく断絶ではなく、永遠の連続性を指向しているともいえる。その意味で、繰り返されるエンドレスなものがたりでよく、それを繰り返すことに何の異議も、疑義も唱えられず、「まぁまぁ、水に流そうや、そんなことを行ってもしょうがないじゃないか。まぁまぁまぁ。」となるので、トンチャン様の言うように、「健忘症以前!」と批判されてもしょうがないほど、忘れ去る、あるいは意図的に忘れ去ることができるのだと思う。

    どの神様も同じじゃないと拒否する聖書

     さらに言えば、日本人の方からよく言われる「結局、どの神様でも同じなんじゃないですか。信仰することはよいことなのだから。」というご意見は、まさに、アジア的霊性が持っている連続性の中に断絶(非連続性)を取り込む動きであると言える。連続性が非連続を巻き込もうとする動きであると言えるかもしれない。
     これを非寛容であるとし、日本的、あるいはアジア的信仰を寛容とする誤解が多くの場合見られる。それは、寛容の定義がまずいのだと思う。結局この種の背景にあるのは、日本的アジア的信仰は連続的なとらえ方で、非連続(生と死)をとらえるのに対し、聖書を基礎とする信仰は、非連続(生と死)を前提にして、非連続というか、時空間的な枠外の存在をとらえているところが違うのだと思う。

     そのことを、本書の後半で小山先生は具体歴な例を挙げつつ、論述していき説明しておられた。次回は、日本的、アジア的な神が連続的にとらえようとするものの、実は、寛容ではなく、偏狭な神であることを小山先生が論述しておられるところを御紹介する。

    旧約聖書と新約聖書における不連続性

     しかし、旧約聖書の世界は、エデンの園の門に燃える炎を置き人と神が断絶し、モーセに対して、燃える芝のところで「ここは聖なる地である。靴を脱げ」と命じ、断絶を示し、新約聖書でも、がちょうどラザロの金持ちの話に象徴されるように、断絶あるいは非連続を前提にしているような気がするのである。旧約聖書の冒頭からして、非連続であるような気がする。「そもそも」あるいは「天地の始まりに」という断絶から始まっている。断絶(始まりがあること)が前提になっている。連続は、この世の始まりの段階で否定されているように思われるのだ。そこを、案外、ミーちゃんはーちゃんは、これまでうまく語ってこなかったと思う。

     聖書の言う「永遠」と「連続」はどうも違うようなのだ。その意味で、その理解がずれてしまうと、完結あるいは完結(テレイオス 終末とこれまで約されてきた)がきちんと理解できず、その結果としての神の国理解、神とともに生きるや、神の義と神の愛の関係に狂いが生じ、そして、聖書理解とその結果としての信仰生活でおかしげなことが起きるのではないか、と思うのだ。


    Thomas Coleによる失楽園の挿絵

     次回へと続く





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