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2015.01.28 Wednesday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

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    前回

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

    小山さんが影響を受けたヘッシェルとこの本の基本的視座のご紹介に引き続き、小山さんの「富士山とシナイ山」を紹介しながら、自分自身を含め、日本におけるキリスト者としての反省を進める意味で、このことを考えることをじっくりと取り組んでいきたい。

    広がる問題意識の輪

    こういう企画ものを

      トンちゃん様のブログ

    の記事から触発されて「富士山とシナイ山」を読んで思ったことに関するシリーズ化を決定していたら、敬愛してやまない

      山崎ランサム和彦さまもブログで、
       「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」の考察を公開中

      伊那谷牧師様もブログで、
       「日本基督教団の歴史資料」の公開中でいらっしゃる。

     素朴な感想として、おねだりしてみるものであるのだなぁ、と思っている。また、この場をお借りして、お二人の碩学の方には、こころからの御礼申し上げたい。  

     それぞれの皆様が独自の視点での連載と考察のご講解やら、史料のご提供を始めていただいて、実にうれしい限り、ウハウハ状態になっている。いやぁ、こういうのが、それぞれ読め、そして考え、反省できるようになったのは、実に味わひ深い。あくまで、考えるための素材であり、批判のためではないのはお三方とも共通していると思う。

    さて、本題に。

    シナイ山と富士山の比較

     出エジプト記19章17-22節の引用があった後、小山先生は富士山とシナイ山を比較しながら、次のようにお書きである。

     日本人としての私の心は長年の間、この山(引用者註 シナイ山)について当惑を覚えて来た。「…全山が激震し…神は炎の中を頂に降り…神は雷鳴をもって応えた…」この山は一体何だというのだろう。これはまた何という神であろう。騒々しいニューヨークの地下鉄の車内で会話をするさえ困難なのに。雷鳴轟く雰囲気の中で神の声を聞き分けなければならなかったモーセの方に同情した。(中略)私としては、むしろ静寂で平穏な雰囲気の中でモーセが語り、神が応えるというような展開の方が好ましい。シナイ山は「神学的な」山である。それが特別な山になるのはそれ自体の特性(引用者註 遠目に見える、見た目に均整が取れている)の故ではなく、そこに神が顕現したが故である。この山において、およびその山の周辺で起きたことは、神の性格を象徴的に表現している。全山が「降臨する」神の象徴なのである。(中略)富士山はこの山への畏敬が米作以前の縄文時代にさかのぼりうる古代の山岳新礼拝の伝統に根ざすという学説があるほどの「霊」山である。(中略)谷間は地獄と呼ばれ、陽光まぶしい山頂には「楽園」と仰がれた。本書において私が富士山に言及するときは、日本における古来の山岳宗教の伝統を指している。
       (『富士山とシナイ山』 p.23)

    山上は楽園(ドリームランド)

     山上が楽園といえば、富士山のふもとには、富士急ハイランドがあるし、神戸市須磨区の鉢伏山には、山陽電車が運営する遊園地と言えない遊園地があるし、生駒山山上遊園地(B29対策のための防空監視部隊が駐屯)や姫路には手柄山遊園、比叡山山頂遊園等があった。



    須磨浦山上遊園


    生駒山上遊園地


    姫路市にある手柄山遊園(ここはふもと)


    比叡山遊園地(現在廃園)にある展望台(展望台は稼働中)

     「まさに山頂はドリームランドである」とふざけている場合ではない。とは言いつつ、資本主義が進み、近代化が進んだ現在においても、非効率性があるにもかかわらず設置されているのはおもしろい。なお、ケーブルカーなどの運営会社にとってみて、こういう遊園地を山上に設置するのは、利用客を山上に誘致しやすくするためであり、遊園地を山上に設置する意味はあるのである。

     なお、ミーちゃんはーちゃんは、バカなのと、空中写真がある時代でもライブで一望できる利点があるので、山の上とか、高いところに行って、全体像を見るのは好きである。

    モーセに同情?

     しかし、小山先生はおしゃれな方である。

    騒々しいニューヨークの地下鉄の車内で会話をするさえ困難なのに。雷鳴轟く雰囲気の中で神の声を聞き分けなければならなかったモーセの方に同情した。

    って、モーセに同情しておられるし。

    騒々しさの中でも語られる全能者

     実は、大事なのは、この富士山という日本の神学のカギとなる山とシナイ山という聖書の神学のカギとなる山の比較というか、違いなのである。

    私としては、むしろ静寂で平穏な雰囲気の中でモーセが語り、神が応えるというような展開の方が好ましい。


     日本の神社は、その静謐をもって神社の雰囲気と神と人との対話を醸し出す。しかし、旧約聖書の神は、ニューヨークの地下鉄の騒音顔負けの中で人に語られる(というよりは人を招かれる)神であることが違う。だからと言って、教会堂でやかましくしましょう、してよい、というのではない。どのような状況の中でも神は語られる、という点がどうも根本的に違うのであるし、次回以降後述するように「神が人間の側に近づく。それも、空を裂いて、ひねまげて地に来られる」という点がそもそも違うのだ。騒音の中でも、人と語り合いたくて仕方がない神、ということがあるのではないかなぁ、と思う。

    降臨される全能者の重要性

     その意味で、

    シナイ山は「神学的な」山である。それが特別な山になるのはそれ自体の特性の故ではなく、そこに神が顕現したが故である。この山において、およびその山の周辺で起きたことは、神の性格を象徴的に表現している。全山が「降臨する」神の象徴なのである。(中略)富士山はこの山への畏敬が米作以前の縄文時代にさかのぼりうる古代の山岳新礼拝の伝統に根ざすという学説があるほどの「霊」山である。


    の中の、シナイ山は神が顕現したが故神学的な山であるということ、とりわけ『「降臨する」神の象徴』ということになっていることは重要だと思うのだなぁ。つまり、われわれが行くのではなくて、『神が降りてくる』ということは、非常に旧約聖書的にも重要なテーマであることを主張しているように思うのだなぁ。

    現代日本における天国意識
     いわゆる天の国理解(あるいは天国理解)や死生観理解、世界の完成の理解(終末理解)において、この『神が(この地に)降りてくる あるいは やってくる』理解ということは最近案外重要ではないかと思っている。

     というのは、ミーちゃんはーちゃんの周りでも、「天国は行くところ」「天国は登っていくところ」ということの強調が強すぎて、案外、地上に降りてきた神(シナイ山が典型、神殿が典型、ナザレのイエスの降誕が典型)としての理解が、なさすぎるのではないか、と思うのだなぁ。

     この件に関して、小山先生は修験道の山(富士山)とシナイ山の比較をしながら次のように述べておられる。

     シナイ山に関する決定的な言葉は「主は…炎の中を…降った」という部分である。対照的に富士山の伝承においては、人間が彼ら自身の霊的修行のために山に「登った」というのが基本的方向性である。(中略)山は霊的および身体的修行を積むための宗教的な空間を表象している。日本民族における山岳修験道の世界は、その情動的および哲学的内容において、主なる神が炎の中をシナイ山の頂に降臨するというイメージからはほど遠い。
     「主が炎の中を降った」という象徴は、神が人間の霊や手によって飼いならされることはあり得ないということを、人間に告げている。火はあえて近付くものを焼き尽くすであろうから。シナイ山のこうした宗教的及び文化的世界において語られるのは危機と断絶の言語である。(前掲書 pp.23-24)
     こう考えると、実は、「神が降った。」ということが重要であり、そこは目指すものではなく、それが人間に近付くしか、神と人間の間を埋めないのではないのか、ということが小山先生のご主張のようである。

     しかし、われらは山に登る民族であり、そして、神に近づきうると考え、最終的に天国に昇ると漠然と考えているのだ。そして、天国から人間の生活を見下ろしていると考えている民族のようだ。なお、これは日本人だけの発想ではなさそうだ。実は、アメリカ人の天国意識も存外よく似ているらしいのだ。

     この概念を極めていくと、シュワちゃんの元奥さんのMaria Shriverさんが書いた、こんな本になるのではないかなぁ。



    What's Heaven? シュワちゃんの元夫人
    マリア・シュライバー氏著


    NTライトの本での天の国

     『富士山とシナイ山』のこの部分を読みながら、NTライト読書会でSurpised by Hopeを去年読んでいたときに、同署の中で取り上げられていたこのマリア・シュライバー的聖書理解の妥当性、という話を思い出した。

     一応、その部分は、ミーちゃんはーちゃんが要約を担当したので、ここにその部分の要約を再掲しておきたい。

    Exploring the Options から
     死に関して、二つの極点の周りをぐるぐる回るような軌跡が見られる。

    ■第1極

     ある人々は、死は、獲物を狙うかのようなものであるとみているものの、通常、それと同時に、将来的に死は打ち勝つことができるものであるとも考えていることが多い。18世紀末ごろまでは、墓碑銘にはラテン語で、resurgam (私は起き上がる)と書かれたものが多く、これは、死後は寝ているだけ、という認識があったことを示している。この眠りの概念に関しては、10章で詳細に検討する。

    ■第2極

      もう一つの方は、聖フランチェスカの讃美歌(多分、ものみなこぞりて)に示された信仰で、我々の最後の瞬間を鎮めるようなものである。多くの讃美歌や祈りや説教は、この地上での死を和らげるようなもので、このため、死を友としてとらえ、その友がよい良い場所に連れていくものと、とらえるのである。この傾向は、19世紀によく見られるテーマであり、自ら安楽死を迎えるような近代的な世俗の考え方の中に見られるものである。


    Mr.Bean版での ものみなこぞりて


     伝統的にキリスト教は、信仰をもち、主に祝福された人々は上方にある天国に生き、悪辣な生き方をしたものは地獄に行くと教えてきた。これは現代でも多くの人に共有されている。

     この例で代表的なのが、ケネディの姪で、シュワルツネガー・カリフォルニア元州知事の元妻のマリア・シュライバーのベストセラー本で、「天国って何?」というタイトルの絵本である。
    http://www.amazon.com/Whats-Heaven-Maria-Shriver/dp/0312382413/

    (↑ ちら見ができます)

      シュライバー本によると、天国は、ふわふわの雲の上にのって話したりすることができる場所で、夜には、宇宙で一番キラキラに光るお星の隣に座ったり、生きている間、いい子ちゃんにしていれば神様が連れて行ってくれるところで、死んだときには、神様が天国から天使を遣わせて、引き上げてくれるとこで、自分に 自信をもつことを教えてくれたおばあちゃんは星や神様や、天使たちと一緒にいて、私たちを高いところから見ていてくれるの。
     そして、おばあちゃんが地上にいなくても、おばあちゃんの霊は、私の中にいるの。

    こういう概念が、西側世界の人々の多くの人々が大なり小なりもっているものであり、それを次第に信じるようになるとともに、真実として受け入れはじめ、そして、子供たちに教えてきた。この内容は、このジャンルの理解において典型的なものであるが、いくつかのレベルにおいて聖書の主張とは大きく異なるものである。

     聖書は、死後天国に行くことや地獄に行くことをほとんど語っていない。西側で育ったクリスチャンの多くは、新約聖書で、天が言及される時には、天を死後クリスチャンが行くところとして言及されているものだ、と思い込んでいる。


     マタイの福音書で、イエスは天の国について語っているが、これは実は神の国について語っているものの、一般には、天国に行くことをイエスが実は語っているものと多くの人々は思いこんでいる。


     新約聖書における天という語は、死後に行くところや地上を抜けていく場所のような概念を語っているのではなく、天での神の支配があるのと同様に、この地上における神の支配を語っている。この誤解の根は非常に深く、単にプラトン主義の残滓というよりはキリスト教の概念全体に感染しており、多くの人々は現代の世界や現代の身体は、非常にくだらないもので、恥ずべきものだと思い込んでいる。


     黙示録そのものが誤解されており、黙示録4-5章の出来事は、現在起きていることでもあるのである。天国は、将来の終着点ではなく、現在も別次元で起きていることなのである。黙示録21-22章についても、贖われた霊が天国に道をなしていくのではなくて、新しいエルサレムが地に降りてきて天と地を一体化とするのである。

     多くのクリスチャンたちが、偉大な聖書理解があるにもかかわらず、歪んだカスカスの聖書理解で満足してしまっているのではないか。そして、これが、よく見る絵や讃美歌、祈りや神学や歴史の中で強化されているものと思われる。

     今日の教会の中では、複数のものがこんがらがっているのだろう。現在多くの人々は、地獄というものを信じていない。これは前世紀(20世紀)以来この傾向が強化されており、それと同時に皮肉ではあるが天の約束が先細りになっているのである。天への死後の旅は非常に頻繁に見られるものであるが、聖書にも初代教会時代の思想にもほとんど見られないものである。この天への死後の旅は、古い煉獄理論の近代化・衛生的加工(おどろおどろしい部分が取り除かれた)されたバージョンである。

     多くの人々は、神が際限なく神の愛によって言い寄よるように、悔い改めていないものに信じる機会を与えているという、万人救済論をもっている。

     この結果、ある人たちは、天は我慢ならないほどの退屈さであると主張したり、そこで、神は、人々にほめたたえられることだけを望んでおられる、と解釈したり、地上でのろくでもない、貪欲な生活が投影されて、神から怒られる、というようなイメージが語られることもある。


     まぁ、NTライトさんによると現在のいわゆる「天国理解」というか、神の国(天の国)理解がかなりひずんだものとなっているらしい。Facebookのアカウントをお持ちの方で、この種のことに興味がある方は、こちら https://www.facebook.com/groups/288504731222965/ をご覧ください。来週から、Simply Christian(邦訳が間もなく出る模様)の読書会が始まります。 

     次回、東アジア型宗教における連続性と聖書の非連続性の議論へと続く。


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