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2015.01.01 Thursday

経済学・ゲーム理論・意思決定論・心理学 その1

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     敬愛するのらくら者の日記この記事にお応えして、というか、突き動かされて連載してたら、昨年末には、ご丁寧に、拙ブログ記事をご紹介いただき、誠に恐縮しております。

     あの、のらくら者の日記のブログ主様、「先生」は、ご辞退申し上げます。できたら、○○さんでお願いできたら、と。

     恐れ多くって。このブログ、与太話として書いているブログでもあるんで。

     で、今日はお正月特集ということで。次回からは、イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)の続きに戻るってことで。

     のらくら者の日記の記事で、

    物理学を突き詰めると「宗教(学)」に行き着き、経済学を突き詰めると「心理学」に行き着く・・。これが私の印象です。経済学と心理学の関係、「ゲーム理論」で感じてみて下さい。併せて(しつこいですが)、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(邦訳 上巻・下巻)もお薦めしておきます。
    ということで、経済学を突き詰めると、どうなったか話があったので、何で、経済学と心理学が接近してしまったのか、というあたりの与太話のきっかけのあたりのお話をしてみようかと。

     正月のひまつぶしに、お節もいいけど、カレーもね。の感覚でお読みいただけたら、と思います。


    キャンディースの出ていたククレカレーのCF


    経済学ってどんな学問だっけ?

     経済学ってのは、基本的に、モノの値段がどう決まるかとか、国家としてのお金のめぐりがどうなるかとか、資本ってなんだ、働き方がどうなっているのか、人が幸福にするには、えらい人は何をしない解けないのか、人が飢えないために偉い人がどうお金と付き合うのか、ということを考える学問なんですね。

    学問の世界での若輩者としての経済学
     昔は、こういう分野のことをPolitical Economyといい、アメリカの大学などでは、神学部の最終学年で、神学の一単元として、神学部長先生が教える科目を出自にしております。その意味で、経済学部っていうのは、神学なんかに比べたら、ぽっと出の新参者の学問で、大きな顔を大学ではできない学問なのです。ヨーロッパでの経済学の起こりは、不勉強で分かりませんが、神学、法学、医学と比べると、まぁ、若輩者もいいとこ若輩者の学問なのです。その意味で、ひよっこの学問ですし、西洋の学の体系から見れば神学、法学などから比べると、はなたれ小僧の学問なのです(経済学部関係者の皆様には申し訳ないですが)。なお、情報工学などは、もっともっとはなたれ小僧なので…。高々この70年ほどの学問です。

    神の家としてのこの地上を運営する学
    だったはずの経済学

     このEconomyという言葉は、経済学部でちゃんと習った人なら、ご存じのことと思いますが、ギリシア語のoikos(家)という言葉から生まれており、恐らくですが、神様から人間がこの地球を家として与えらているものを、どのように人々と一緒に生きる場所として美しく保つか、ということを考える学問として設定されていたはずなのです。

     しかし、現実の経済の発展に伴って、人間は神様から家として与えられたこの地(神が人と共に生きる場としての神殿、として神と人が共に生きるべき場)を強盗の巣にしてしまった、ってイエス様から怒られてしまってもしょうがないほど、神殿であるべきこの地に関して誤用された状況について考えるような学問になってしまったのです。

     「経済学が悪いから、ろくでもない資本主義経済が生まれた」のではなく、「資本主義経済のような残忍なというか貪欲な人間の姿を解析しようとした結果、経済学が指し示す分析対象としては、ろくでもない結果が出てくる」というのが、経済学に関してミーちゃんはーちゃんとしては、ちょっぴり擁護しておきたいです。この辺、誤解されていることも多いので。

     資本主義のカウンターパートである共産主義も、今の中国の官僚の不正やスターリン政権下でのロシアというかソビエト連邦にみられるように、ろくでもないことは同じだ、と思っております。資本主義も、共産主義も、人間が神から離れた結果の不幸な現実の表れだと思っております。

    昔々の経済学

     アダム・スミスあたりの国富論(この本の英文原典が大学院のミクロ経済学のテキストだった)でも、基本的なミクロ経済学の基礎概念が数学をあまり使わずに説明されておりましたが、この時代の想定は、同じような中小零細企業や農家などの生産者がやたらとたくさんあって、また、その中小零細企業や農家の生産物を欲しがる消費者もやたらとたくさんあったとき、同質的なものがたくさん提供される中(以上の同質的な多数の生産者同質的な多数の消費者同質的な取引対象(財)の取引が、全員が一堂に会して、相互にそれぞれの動きを監視しているような状態 これを完全市場といいます)で、提供される商品や農産物と価格の関係がどうなるのか、その時に、だれがどんな風に利益を得て、だれがどれだけの費用を払うことになるのか、それは公正と言えるのか、ということを議論する学問がそもそも経済学の起こり頃の学問(古典派)でした。ある面で言うと、記録メディアのDVD-Rなどのようなありふれたもの(コモディティ)がネット販売されている状態だったといってもよいでしょう。

    派遣労働者の経済学と制度

     あるいは、派遣労働法が改正されたのちの現在のように、単純労働に関する作業者が派遣されるようになり、その個人の能力や特性があまり大きく影響しない単純労働作業に短期雇用者が導入されるようになると、企業の仕事の具合によって人を増やしたり、減らしたりすることができるようになります。人手が余る状況では、安い賃金でも人は何もないよりましですから、賃金は減ります。人手が不足の状況では、賃金は高くなります。自分自身の努力や能力や才能に関係ないコモディティ化した働き方の世界では、どれだけ似たような作業をしたい人がいるのか、によって賃金が決まってしまうのです。これが以前の派遣労働法制で、単純労働の派遣雇用の禁止が定められていた理由です。昔は、単純労働者を雇いたい場合、特別の例(建設業など)を除いて原則社員として雇わなければならなかったのです。

    日本の大学1年生の経済学
     基本的に、大学の入門クラスでやる経済学(英国では、高校生がこれ以上のことを高校生でしている。もちろん受講科目数が少ないからできる話であのですが)ってのは、こういう一般的な財(特に特徴がなく、市場で取引される量だけが問題になるもの)についての価格と供給量の議論と、なぜ、違うコモディティ(ミカンやリンゴ)を持っている人同士で交換すると社会全体がハッピーになるのか(市場を介した交換により豊かな社会になるのか)の議論などをして、あと国全体の経済の動きとして、不況って何か、不況から脱出するためにどうすればいいのか、なぜ、国全体の貯金額が増えると経済が拡大しやすいのか、といったことを考えるマクロ経済学をやって終わりになる感じですかねぇ。半期週1コマだとここまでいかない。時間数にもよるけれども、教えている感覚で言うと、通年で週1コマだと、もうちょっと行ける感覚はあるのですけれども。

    経済学におけるメタ思考

     こういう入門クラスの経済学理解だと、問題があるのですね。

     なぜかっていうと、世の中数量だけじゃあないんです。味とか、手触りとか、色とか、品質ってのが大事なんです。お米でも、コシヒカリもあれば、ササニシキ、キヌヒカリ、ヒノヒカリ、ミズカガミ、ドマンナカ、モリノクマサン、ミルキーウェイ・・・と非常にたくさんの品種があり、それぞれに食味が違います。もうお米でも数で勝負の時代ではなくなっているようです。いわゆる経済学者と呼ばれる方々には、この辺の事情があまりお分かりでない方もおられ、農地のなんたら、とか言っておられますが、どこでも、モリノクマサンやらミルキーウェイ、ニコマルなんかはできないのです。稲の生育に関する気象特性があるのです。品種改良すればいいではないか、と言いますが、品種改良は数十年の年月を要する気の遠くなるような作業が必要なのです。

     数量だけが大事であれば、皆さん、国民服や人民服を着ていればよろしい。しかし、今の日本で、よほど変わっている人以外、国民服も人民服も着てないでしょう。まぁ、ユニクロは、「現代日本の人民服説」はそうかもしれないけど。でも、ユニクロだって、服の色は一色ではないですよね。赤もあれば、黄色もあるし、グレーもあれば…の状態なわけですよ。


    赤い人民服をお召のYMOの皆さん(左)と1970年代ごろの人民服をお召の毛主席(右)


    勅令(天皇陛下直々の思し召し)による国民服だそうで

    「奸臣による偽勅じゃね?」などと言ったら非国民だったそうだ。

     大体、国民服であれ、人民服であれ、素材も、デザインも同じな服を着て面白いはずがない。中学生や高校生の不良が言うことは正しいといえましょう。みんな同じじゃ、人間は基本的につまらないのだろうと思います。

     したがって、不良の女子学生はスカートの丈やソックスの設定、髪の毛の色やパーマ、不良の男子学生は、ズボンのタックの数、詰襟のカラーの長さや、上着の丈の長さ、ズボンのはき方、靴のはき方、服地の裏の刺繍などで実に微妙な差異をもたらそうと必死で努力するような一種の職人技をしてくれるので、文化的に観察している分には面白い。今は、男子学生は、ズボンをできるだけ、腰から低い位置に下着が見えるように、下げてはくのがおしゃれらしい。なお、これは、アメリカの刑務所や少年施設(ジュビーって呼ぶ)で、自殺防止のためにベルト着用が禁じられているため、パンツ(ズボン)がずり下がらざるを得ないことに由来しているらしい。こういうパンツ(ズボンは古いらしい)のはき方をすることで、「オイラは少年施設に入るような不良だから」って見せているようです(いらない無駄知識w)。

    コモディティ化を脱することが重要

     話をもとに戻すと、人はコモディティ化(みんなと同じようなもの)した商品ではすでに満足しない社会になってしまったようです。社会自体の豊かさが出てくると、人間は他人と同じもので満足しないのである。ミーちゃんはーちゃんは、寒さ熱さがしのげればいい人なので、服にあんまりこだわりがないから、女性の方が同じ服を被って慌てるシーンなんかを見ても、何で?と思ってしまうが、それはどうもおしゃれな人にとっては、「あってはならない」ことらしく、モーセの十戒なみに重視しないといけない規則らしい。

     最近の小学生は、妖怪ウォッチでほかの人が持ってない妖怪を持たないといけないらしいので、小学生ですらすでに、コモディティとしての財では不満足になっているという何とも贅沢な社会に今住んでいることになる。個人的には、チロルチョコやベビースターラーメンのようなB級グルメをこよなく愛している。

    品質が重要になる豊かな社会で

     ところで、社会が豊かになって、品質が重要になってくれなってくるほど、価格での競争は意味を持たなくなるわけです。そして、企業は品質で競争しようとするようになります。少々高かろうが、他人と違うものを持っていることに価値が生まれてくるわけですから。そうして、高級品は記号として消費されることになります。どこかの国では、大きな教会の牧師さんは、アメリカではメルゥシィーディースと呼ばれるいかついドイツ車に乗ることがお約束のようですが、そういうお約束は記号としての消費ではないかと思うのです。

     関西では新地(通路として通過したことはある)のおねぇさん方や、関東での銀座(教文館に行ったことはある)のおねぇさん方だけではなくて、いろんなところのおねぇさん方がグ●チ(昔はっちぽっちステーションに出ていた料理と歌がうまいオジサンではない)やプ●ダ(これを切ると悪魔になるという伝承があるのかもしれない)やシ○ネル(黒塗りをして、R&Bを歌う人たちではない)を持つことが流行っているらしいが、これも、ある意味で、富の象徴としての消費なのだろうと思うのです。



    エリックかけブトンとして歌うグ●チさん(こういうの大好き)


    悪魔が着る服だという噂のもとになった映画のTrailer


    シ○ネルズという似た名前の服屋と関係のあまりないR&Bバンド

     実は、この脱コモディテイ化社会というのが、経済学の発展を大きく変えました。そして、経済の構造も変えているわけですから、経済学としては、これを探求の対象にします。その結果として、次第に、心理学とかの学問分野に近づいていきます。なぜ、神の家であるこの地を運営するための学であったはずの経済学が心理学に近づくのか、ということはわかりにくいと思います。それに関しては、次回触れてみたいと思います。



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