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2014.12.29 Monday

イノベーション・パラダイムシフト・ネットワーク外部性・聖書理解(その2)

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     前回の記事では、「信仰義認」が一種のパラダイムシフトであり、イノベーションとも呼ぶべきものではないか、ということをご紹介されている「のらくら者の日記」の投稿をご紹介し、その上で、学術研究が所謂『最新の研究』に集中する傾向があること、技術標準のうちどの技術が生き延びるかは、基本最大多数の利用者が最大であるということが多く、技術の優劣に関係ない、あるいは、ネットワークの利用者が最大であることでネットワーク外部性が発生し、ネットワーク運営企業とネットワーク利用者に利益(地代)が発生する、ということとその実例をいくつか紹介した。こういうネットワーク外部性は、最近のミクロ経済学の基本的なテキストにも乗っているので、そちらを参考されたい。

    神学または聖書理解に
    流行り廃りがあるワケ

     神学も学問であるとするならば、流行り廃りはあるはずであるし、深井先生の本やフスト・ゴンザレスのキリスト教史関係の本を読んでいただければ、神学の変遷がある程度つかんでいただける。

     ある方はおっしゃるだろう。「聖書が真理の書であるなら、なぜ、聖書理解としての神学と神学的思惟に変遷があるのか」と。

     当たり前である。聖書は変わらないが、人間を取り巻く環境と人間と環境との関係が変わるからである。人間が時代のいきものであるから、その時代に生きる人々に語るためには、使う用語から、アプローチの仕方まで変わるからである。保守的であろうとすればするほど、その表現は変えていく必要があるのかもしれない。同時代人がシニフェをシニフィアンを通して指し示すものとして受け取るために、シニフィアンを変えていく必要があるからこそ、シニフェをきちんと表現しようとする理解の体系、つまり、シニフィアンの体系としての神学は変わらざるを得ないのは理の当然ではないか、と思う。

    神学あるいは聖書理解の多様性

     ある神学理解である国、ないし、ある時代のキリスト教が全て覆われるか、というとどうもそうではないことは、マクグラス先生の「総説キリスト教」をお読みになられればすぐわかる。キリスト教とはそもそも多様な存在だと思う。もちろんベース部分は共通でありながらも、そこから派生した様々な理解や儀式の様式論、考え方は実に多様なのであり、それがすべて「キリストのからだ」をなしていると思うのだが、中には自分たちとその仲間の教会だけが「キリストのからだ」であり、他のキリスト者集団が不純なものが混じっているといったり、ひどい人になると、悪魔の手先扱いする人々が時におられる。個人的にはかなわないなぁ、と思っている。

    マジョリティ・ルールズ?
    それって、赤信号みんなで渡れば怖くない?

     神学者の先生方の世界は知らないが、平信徒レベルであれば、基本的にマジョリティ・ルールズの世界が広がっているように思う。自分たちや、マジョリティの言っていることをうのみにして、自分で考えずに、みんなが行っているから正しいと思う、というような主張が結構見られる。それって、いいのか?と思う。それこそ、

     赤信号、みんなで渡れば怖くない。
     

    の世界ではないか。

    赤信号みんなで渡れば怖くない (1分辺りから数秒後)

     神学にだって、ネットワーク外部性は発生していると思う。あるキリスト教集団で生きるためには、このネットワーク外部性は大きい。程度問題はあるにせよ、神学の世界で生きるのならば、流行りの神学を一定程度おっておけば、渤海の現場ではどうか走らないが、神学の世界では神学が学である以上、批判や避難されることもないだろう。バルトや社会派の一時期の隆盛はそれだったのだと思う。とはいえ、信徒と大きく違う神学的思惟や背景を持つ牧師先生は長続きしない。教会に不協和音が必ず起きる、と思う。

    パラダイムシフトが起きるわけ

     他の学問がそうであるように、神学も似たようなところがあるのではないか、と思う。ある神学が社会の中において幅を利かせ、それで多くのことを解決した(あるいはわかりやすく説明できた)ように見えた時に、世間というか、キリスト者とキリスト者を取り巻く環境が変わるので、多くのことを説明したとする聖書理解や神学に破綻が生じて、齟齬が発生する。必ず齟齬はでてきてしまうのだ。あるいは、疑問に思う人々が出てくるのではないか。もちろんそれがすべてだとは言わないが。

     疑問に思う人が出てきたときに、その疑問を持つ人々がそもそも少ないし、疑問をもったとしてその人々の大半は、「まぁ、みんなが言うのだから」あるいは、「それが主流だから」ということで、それに疑問を持つのをやめてしまうことが多いように思われる。

     その中で、あえて疑問を持つ人は、非常に少ないし、他者から理解されない中で、疑問を持ち、それを言い続けられる人は少ない。ミーちゃんはーちゃんは、基本コドモなので、これをやれる。

     この突拍子もない考えが、あれ、案外そうかも、ということが広く一般に受け止められると、パラダイムシフトは一気に起きる(これは次回以降の連載でもう少し詳述つする予定)。

    相手の論理と言語で説明する必要性

     ただ、ミーちゃんはーちゃんのように、いいたいことだけを言っているようではダメなようだ。相手の論理と、相手の論理を構成する用語を理解し、それを使いこなしたうえで、自分の論理や理解を相手の土俵で、相手の用語で自説を相手に届くように話す必要があるのだ。それができて初めて、対話となる。しかし、ここまでできる人は少ないと思うのだなぁ。

     学問の世界でパラダイム・シフトやイノベーションが起きるためには、こういうことができる人の存在が必要だと思う。だから、学問の世界はちまちまとしたイノベーションが起きているのだと思う。拾楽の枠を大幅に超えるジャンプのような研究は少ないことは素朴に認めたいと思う。

    パラダイムシフトが起きるためには

     そのためには、現在のパラダイムに違和感を持っている側が、相手の土俵で、相手の論理を使いながら、相手のことばを使って、説明する必要があるのはもちろん、批判された側も、批判する側を理解しようとする精神をもって、対話をする姿勢があって初めて、パラダイムシフトは起きるのだと思う。つまりオープンな精神性を、その社会が持っているかどうか、ということが問われているようだ。

     それをどこかの組織のように、「そんなことは聞いたことがない」といい、「ある理解とそれを保持している人のみが受け入れ可能で、それ以外はあかんのちゃうか」と言って切り捨てるようでは、あかんのちゃうかと思う。こういうある種の理解のみが支配する世界は、結構アメリカの福音派で多いらしいし、日本の福音派系の教会でも多いかもしれない。

     アメリカの福音派での新しい理解への対応について、アメリカの福音派の神学者が書いた記事のご紹介はコチラ。


    福音派と聖書 米国の場合 その1


     日本の福音派は米国の福音派に大きく依拠していることは歴史的にほぼ間違いない、と思っている。1月に、大阪の大学で、このことを英語で話すことになってしまった。行きがかり上しかたがない。クリスマスも正月も返上でいま必死でプレゼン資料作っている。

     ところで、パラダイム・シフトや革新的なことがなかなか受け入れられないことは、学問の世界や信仰理解の世界でマジョリティ・ルールズが働いているだけではない。ほかでもあるようである。知り合いのコメの育種家が開発して、非常に良い特性を持つコメの品種が固定種となったらしいのだが、様々な大人の理由で、それの普及をさせないということになった。こういう事例というのは結構あるらしい。実に残念なことである。


    「レヴィナスと愛の現象学」から考えた
     最近、内田樹氏の「レヴィナスと愛の現象学」(文春文庫)を読んでいて、こういう記述に出会った。

     レヴィナスはほとんど障害をかけてハイデガーを批判したが、それはハイデガーを哲学史から抹消するために出派にあ。レヴィナスはハイデガーの存在と時間を読んだ時の衝撃を【一読して、ただちに彼が歴史上最大の哲学者の一人であることを知った。(…)どのような仕方で哲学史を編纂しようと、ハイデガーの名がそこから漏れることはない」という最大級の賛辞とともに回想している(EL., p87)。その一方で、レヴィナスはハイデガーとナチズムのかかわりには手厳しい非難を向けている。

        赦すことのできるドイツ人は多くいます。けれども許すことの
        できないドイツ人もいます。ハイデガーを赦すことは困難です。         QLT, p.56)

     しかし、この評価の揺れはレヴィナスがハイデガーからその「最良の部分」を受け継ぐこと、ハイデガーとの「対話」することを、少しも妨げなかった。なぜなら、「条理途上リトの堂々たる戦い、怒りもねたみもない戦闘、そこにこそ正統なる思考は存立しそれこそが地に平和をも足り式すのである」(DL, p.48)という言葉こそレヴィナスの揺るがぬ信条だからである。レヴィナスの批判は誰に対するものであれ、敬意の表現であり、哲学史上の位置にふさわしい信を送るためのものである。レヴィナスにとって「批判すること」は「対話する」ことと同義である。「パリサイ人」レヴィナスが求めているのは終わりなき対話なのである。(pp.104-105)


     こういう「人格や人物、引き起こした出来事」と「哲学なり、理解」の切り分けが大事なんだと思う。人格と哲学や聖書理解を混同している人、どの世界でも多すぎなんで、困っている。誠意と信実、あるいは中身のある「パリサイ人」でない、なんちゃって「パリサイ人」が多すぎて困る。

    キリスト教界と異論

     以前、これらの記事でも紹介したが、


    枠を出ることの重要性を示す名著 預言者の想像力

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(10)

    本来キリスト教会自身、また、キリスト者自身、預言者としての性格をもつものであろうと思う。常に自分たち自身のあり方を見つめ直し、神の御思いが何であるかを探るのがキリスト教会が置かれている役割ではないだろうか。それを思う。そして、他人への尊敬と愛をもって、神の愛の世界に新しい他者を受け入れていくのがキリスト者としてすることではないか。自分や自分たちと意見が違うから、と言って切り捨てするのではなく。

     以上で一応、この連載は終わりです。とは言いながら、次回はこの連載の派生記事を少なくとも3回、継続する予定です。お楽しみに。






    評価:
    フスト ゴンサレス
    新教出版社
    ¥ 5,400
    (2010-05-25)
    コメント:このシリーズ、高いけどいいよ。

    評価:
    アリスター E.マクグラス
    ---
    (2008-07)
    コメント:いい本なのになぁ、翻訳はちょっと(かなり)問題があるけど。

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