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2014.12.14 Sunday

こころの時代視聴記 「“小さきたね”をまく」 坂岡隆司さん

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      今朝も、ここの時代を視聴していた。非常に面白かったので、ご紹介する次第。メモを取らずに拝見したので、おおむねご主張の主要部分はある程度の精度を以て記録、記憶していると思うが、足りない部分は再放送をご覧あそばされたい。

     NHK Eテレ三のサイトこころの時代〜宗教・人生〜「“小さきたね”をまく」を張っておきます。

    「人生は神と自分のコラボレーション」と語る坂岡隆司さん
    お話しされている坂岡隆司さん


    「小さな心のたねをまき続けている」という京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん。「聖書のことば」に支えられ「神と自分がコラボレーションしている人生」を聞く。

    「街頭で配られた1枚のビラからクリスチャンになった」という、京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん(60歳)。「弱きひとたち」に寄り添う毎 日を送る。その取り組みは「小さな心のたねを、まき続けること」だと考えている。「世の中は、神が準備していることに、たまたま出会うことの連続。神と自 分のコラボレーション」と語る坂岡さんに、「聖書のことばで歩んできた人生」を聞く。

    【出演】社会福祉法人理事長…坂岡隆司,【きき手】杉浦圭子



     上に示すように今朝の放送は、京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さんのインタビューが放送であった。以下、ミーちゃんはーちゃんが気になった表現を拾ってみる。

    小さいということを認識していることの大事さ

     小さいということに対する認識、自分自身の小ささを受け止めていることが重要ではないか。

     これは案外重要な話だと思う。キリスト者は信仰をもったぐらいで、すぐ自分は何者か、重大な人物になった気がする人も少なくないと思う。それは本来、トラの威を借りるキツネどころか、トラの威を借りる飼いネコ状態であり、神の威を借りるクリスチャン状態であるのにすぎないのに、すぐ上から目線になる。そんなんあかんやろ、と思う。

     ミーちゃんはーちゃんこそ、「神の威を借りるクリスチャン」状態ではないかって?そうですよ、でも、個人的には、自分自身の至らなさくらいは何とはなく認識しているつもりではある。

    第2コリント12:9
    主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
    (新改訳第3版)
    くらいは知っているキリスト者であるからである。

     ミーちゃんはーちゃんのお友達のブログが面白い。この方のブログを見ていると、大して内容のあることは書いてない。日常の雑事のみが書いてある。神学論文を書いたり、必ずしも神学論争をしているわけではない、日常に起きた瑣末事の連続がだらだらと記載されているだけなのだが、この人は神とともに生きているのだなぁ、と思うので、ちょっと紹介しておく。こちらからどうぞ。

    全ては一枚の小さなトラクトから

     面白かったのは、この坂岡さんという方が神と出会ったのは日本聖書協会の薄っぺらい実に1960年代的なデザインの印刷物である「聖書を読みましょう」のトラクトを中学生時分にもらったことだという。そのなかに「聖書は変革する書です」(ここは記憶が定かでない)という表現があり、そこに引かれて教会に行き、お受洗(じゅせん)へと導かれたということであった。どうも、坂岡さんは当時お父様との確執(詳細不明)があり、それを何とか変えたいということで聖書に出会われたようである。

     個人的には、「もうトラクトの時代ではないかなぁ」と思っているが、キリスト者が何らかの形で、神が存在する、聖書を通して神が神との愛の相互関係の中に招いておられるということをその人なりの方法で示すことは大事だと思う。それが幼稚園で働くこと、保育園で働くこと、トラクトを蒔くこと、障害者施設で働くこと、ネットで発言すること、牧師をすること、信徒であること、日曜日に教会に行くこと、論文を書くこと、出版事業にかかわること、電書を出すこと、讃美歌をうたうこと、何であろうと。

    荒野を放浪するキリスト者

     その後、大学受験となるが、入学試験に不合格となり、その後日本のあちこちを放浪することになり、そこで悶々とした時期をお過ごしになられたようだ。そこで当時阿蘇で活動されていた宣教師の方のところにたびたび訪れられたようだ。

     この放浪というのが案外重要だと思った。それは、ある面で、静まるためであり、鎮めるためでもあった、と思うのだ。イスラエルも、静まりのために荒野を40年間も放浪することになっている。国民として静まるためには、40年が必要だったのかもしれない。ナザレのイエスも公生涯をはじめるにあたり、40日間の静まりの時期をもっておられる。また、公生涯の途中でも、弟子たちを離れ、時々、静まりの時をもっておられる。それをデヴォーションという人もいるかもしれないが、今風のデヴォーションとは、ちょっと違うように思う。そのあたりを知りたい方には、最下部に示したナウエンの「静まりから生まれるもの」を紹介したい。

     旧約聖書に戻れば、たくさん事例がある。ヨナも、ヨブも、モーセも、エレミヤだってそんな節はある。

     神は時々、人に荒野に行かせると思うのだなぁ。神との関係を深めるための愛の招きではないか、と個人的には思っている。まぁ、荒れ野にいるときの現実は結構めんどいんだけどね。

     統合失調症患者の方の詩が紹介されて、その中に、非常に印象的な表現があった。趣旨としては、

    現代の社会で、人は無言堪えかねてモバイルツールにしがみついている

    ということであった(と思う)。ある面あたっていなくもない。この趣旨のことばを聞きながら、ナウエンが面白いことを書いていたこととがつながった。

     ナウエンが生きていた当時の若者は野原にピクニックに行くにも、そこで流れている神の自然の音楽を聞くのではなく、ウォークマンを持っていって、それを聞こうとする。自分自身を神との空白にさらすことに耐えられないのではないか、というナウエンの指摘である。我々は、現代人として、自分の意思を実現する傾向がありすぎ、神の意志を聞くことにどれだけ熱心なのかを問われたように思う。この記述が、どの本だったかは記憶にない。

     また、ナウエンは「両手を開いて」という祈りに関する本の中で、人間は銀貨を握りしめている状態であると言っている。本来神の前に手を開くべきであるにもかかわらずということを言っている。現代人は、神の前に両手を開く前に、モバイルツールを握りしめているのかもしれない。

     まさしく、荒野とは、この空白の中で、両手を神の前に開き、神と出会うということであり、その空白を埋めてはならんのではないか、ということに関するナウエンの指摘だったと思う。

     時々ミーちゃんはーちゃんがやる「レクティオディヴィナ」という方法がある。なかなか良いと思うが、そこでは空白、何もないということのようである。やり方を詳しく知りたい向きには、最下部の目からうろこシリーズの司祭の参考書をお奨めする。

    たましいの自立

     個人的に重要だと思ったのは、坂岡さんが「たましいの自立」ということを考えながらケアされているということであった。坂岡さんがおっしゃっている意味をもう少し、ミーちゃんはーちゃんふうに言うと、「たましいの完成(Teleios)」というか、「神を受け入れ、神に受け入れられ、神と一体となった神の愛の関係性」あるいは、「神によって義とされた」ということだと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんの終末というか最終的な神の計画の完成形の理解は、人が、神に愛され、神を愛し、神によって義とされることが完全になることである。

     本日、この後、午後の集まりで、クリスマスに関するお話しをするが、その焦点は、次の聖書に記載されている天使が語ったとされる次のことばである。

    ルカ2章14節
    「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(口語訳聖書)


     これこそ、聖書の言う完成(あるいは終末)であり、坂岡さんのおっしゃる「たましいの自立」の姿だと思う。その意味で、通常日本語にいう「自立」というイメージが持つ、一人で頑張って生きられる意味ではなく、神と共に人が共に並立して、神に愛されたものとしての存在の尊厳を喜ぶような姿をお目指しなのではないか、と思った。それこそ、聖書にいう完成であり、Teleios なのだと思う。それを終末や携挙(ミーちゃんはーちゃんが使っている日本語聖書にこの語は一切出てきた記憶がないがそれは、ミーちゃんはーちゃんが聖書を十分読んでいないからであろう)という言葉から発想される地球崩壊話にすり替えたがる皆様がたが結構、ミーちゃんはーちゃんの回りに多いのが困りものだが。

    たまたまと召命

     最後のあたりで、インタビュアーの方が、坂岡さんに「たまたま人生の転機にあってそれで選んでこられた」という趣旨のことを投げかけておられたが、ミーちゃんはーちゃんも齢50を過ぎて思うのは、「たまたま」こそ召命ではないか、と思うのだ。「たまたま」を偶然と取ることも可能であるが、「たまたま」は偶然というよりも神の介在を認識する場だと思うのだ。日常生活は、日が昇り、日が沈んでいく。世の中に多くの「たまたま」が起きていてもその大半は自分には関係がない。必然性もない。モーセやエレミヤ、ダビデをはじめとする旧約聖書の預言者たちも、平平凡凡と生きていただけである。しかし、それがあるときに「たまたま」というかある瞬間に神の地上への進出のような形で介在を見るのだと思う。英語で、Out of the Blueという表現があるが、まさしく青い空から突然降ってわいたような感じで、あとで見れば、あああれは神の地上への介在だったかな、と思える瞬間があるように思うのだ。それは、こちらの意図によらない。神の意図だと思うのだ。大体、そんな降ってわいた様なことの連続に耐えられるほど大半の人間は頑丈にできていない。まぁ、そういう降ってわいた様な事を求めることも本来はよくないと思う。それは神の支配というか神の領空にかかわることだから。神の領空に対する領空侵犯は、ろくでもないことだ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

    拝見しての感想
     この番組は、あるところで開催された工藤信夫先生からのご紹介もあったので拝見したのだが、大変印象的であった。我々は、つい、大規模化、寮の追求、各町思考を目指すが、小さいものが小さいままでいることに案外重要な要素が隠されているのかもしれない、と思った。題を目指すのではなく、小ささとその限界を見極めながら、小さいものが小さいものとしてすることの重要性を改めてして考えさせられた気がする。

     昔読んだワインバーグというシステム思考の本に、白パン工場のたとえが出てくる。なんかその話を思い出した。噺の概要はこんな感じである。

     あるご婦人が、スーパーで買ってくるパンがあまりにまずいので、自分で家族のためにパンを焼くことにした。それをパーティとかで友人や近所にふるまったところ、あまりにおいしいので、お金を出して買いたいという人が出てきた。彼女はパン焼き窯を買い、家族に手伝ってもらいそして、どんどんパンを焼いた。そして、工場を建て、もっとパンを焼いた。また、配達の人を雇い、遠隔地にまで届けるようにした。長期保存に耐えられるよう添加物を入れて販売した。そして、さらに各地に工場を建てた。そうして、彼女の焼くパンもいつの間にか、彼女がそのまずさに腹を立てていたそのパンと同じような味になっていた。


     キリスト教も同じではないだろうか。数を頼み、コンスタンティヌス型のキリスト教を目指すような拡大志向でいるキリスト教って、どっかこの白パンの話と同じような感じもするのだが。昨日の記事で指摘したように。

     教会が少数者であり続けるべきだ、とは言わないが、預言者的性質を失ったキリスト教って、ヨーダー先生がいうようにナンセンスかもしれない。








    評価:
    価格: ¥810
    ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
    コメント:薄い、わかりやすい、読みやすい。が本質は外してないと思う。お勧めである。

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