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2014.12.10 Wednesday

工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた(その2)

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    さて、今回も、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきたお話の続きをば。太字は工藤先生のお話のポイント。

    教会は信徒を自由にしてるかな?

     真理はあなた方を自由にするのではなく、教会は信徒を不自由にする傾向があるのではないか。


     まぁ、今の教会見ているとそうですよね。これは、日本でもそうだし、アメリカでもそうだと思う。こう思ったから、「福音の再発見」を日本でも翻訳して出そうと思ったのだなぁ。

     出版の再発見に至る経緯は、こちらを 福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙

     本来、ナザレのイエスは、神の愛の中に我らを招くために、この地上に来られ、我らを閉じ込められた檻の中から、解き放つために、その御手を我らに伸べられたのだと思う。しかるに、別の檻を作って信徒をその中に閉じ込めている側面もないようなあるような。


    意外と重要な繊細さ(バルナラビリティ)

     ナウエンはカトリックの司祭であるが、彼の本が大きく影響をしたのはプロテスタント教会群である。そして、彼の書いたものはプロテスタント教界の限界を示したから読まれたのだろう。

     それまでのアメリカの福音派の教会は、傷を恐れないキリスト教であったり、傷を大事にしないキリスト教で、ちょっとなんか、不都合があると、不信仰じゃないか。と言っちゃうところがあったであろう。ある面、キズの受けやすさ(バルナラビリティ)を認めてないキリスト教であったであろう。

     これはあるなぁ、と思う。必死のパッチできつくてもはくいしばっているキリスト教の美学みたいな儒教もどきのキリスト教はあったように思う。人間が弱さを持った存在であるがゆえに神を必要とするのに完璧でなければキリスト者にあらず、みたいなところはあったよね。鉄人28号は、鉄でできているから大丈夫か知らんけど、人間は鉄ではできてないし、鉄人でもないし、石でできた人でもない。その柔らかさを十分に評価していないといわれたら、そうかもしれないよね、と思う。


    ファンタスティック・フォーのザ・シング(石男 この方は石でできているかも)

    ちなみに、パウロの言葉を書いておこう。

    IIコリント
     3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
     3:4 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
     この講演会全体でそうであったが、出版社 あめんどう さんと、そこの社主兼CFO兼CIO兼編集者兼倉庫係兼お茶くみのOBCさんの話が繰り返し出てきていたのが、非常に印象的であった。個人的に、あめんどうさんは一押しの出版社である。お買い物は是非あめんどうさんの直販サイト http://amendo.ocnk.net/product-list/1で。

    キリスト教あるある 
    祝福主義
     祝福主義に毒されたキリスト教になっているのではないか。
     これはあるかもしれない。病気になると喜びを失い、悲しみに合うと、自分が不信仰ではないかとオロオロする。人間とは所詮その程度のモノなのに、それにもかかわらず、祝福を求め、ちょっとのことで揺れ動くそんな信仰者が量産されているかもしれない。

     しかし、まぁ、ミーちゃんはーちゃんが好き勝手ほざいていても、ミーちゃんはーちゃんはキリスト教徒であるとは思っている。リベラルとお呼びになりたければ、リベラルとお呼び。そんな人にラベルはって遊ぶ人よりも、我の父は、すべての被造物をつくり給いし方なれば、我を無限の愛を持って愛されることを確信しておるので、気にしてもしょうがないとは思っている。


     闇よりも光、失敗よりも成功を現在の日本の教会は、求めてばかりいるのではないか。

     残念ながら、わがキリスト者集団でも、この手の方は多いので、困ってしまうのだが、ひかりばかりいるピーカン脳天気なキリスト者も深みがなくて困るような気がするのだが。もちろん光は尊いものであるが、闇があってこその光である。特に今、アドベントの時期であるので、そう思うのかもしれないが。

     カリフォルニア州でもないから、いつも光の当たる方にいるのは不可能ではないかと思うのだが。


    Keep on the sunny sideを歌うカーターシスターズの皆さん
    南部訛りがブルーグラス風でよい

    教会に巣食う妖怪?
    みんな妖怪のせいなのね?そうなのね?


     現在の教会は、レンブラントの放蕩息子の絵の背景に溶け込んだ厳しい顔をした放蕩息子の兄のような人物がいっぱいいる教会となっているのではないか、新しい出発したらどうか。

    レンブラントの放蕩息子の帰郷
     
     上記の絵のぼろぼろの服を着ているのが放蕩息子、それを抱くのが父、そして、その父の後ろの暗がりの中に何人か化け物と見まごうような人物がおり、その右に黒い帽子を被った執事様の人物がおり、その右側に放蕩息子の兄がいると解されている。なおこのレンブラントの放蕩息子の帰郷は、あめんどうさんから出ているヘンリー・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』のカバーに使われている。

     工藤先生は、教会には、このおっかない顔をした放蕩息子のような兄がやたらといっぱいいるという話をしておられた。また、背景の中にもぐりこんでいる亡霊のような人物、もう、地上やその教会にいなくなった過去の牧師や宣教師の影響が満ち満ちていたりはしてないだろうか、と結構厳しいことをおっしゃっておられた。

     教会の揉め事は、過去のやり方や過去教えられたことだけが事実だと思い込んでいるこういう亡霊や古狸(フルダヌキ って、工藤先生)のような人がいっぱいいるんじゃないか、そして、新来会者を遠ざけているんじゃないか、って、まぁ、強烈なことをおっしゃっておられた。

     そういえば、敬愛する藤掛先生も、現代日本社会と妖怪の話を書いておられたのでご紹介しておきますね。

    「妖怪ウォッチ」から学ぶ心の世界(配布レジメ)

    「妖怪ウォッチ」シンポでの質問に答えて

     この記事への、尊敬する鹿児島の久保木先生(南の国のブログ王子)の応答はこちら。こちらは教会とそこに巣食う妖怪とその対応がちょっこし出てくるよぉ。

    妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 前編
    妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 後編

    カトリックに学ぶ教会のありよう


     森 一弘先生の「これからの教会のありようを考える」は参考になるかもしれない。

     この本は読んでないので、今度読んでみようと思う。これまでのカトリック教会の闇の部分にも踏み込んで、書かれているらしい。

    プロテスタントは潔くない。自己正当化が多すぎる。


     はい。これはミーちゃんはーちゃんもそう思います。まぁ、プロテスタント(プロテスタティオ : しぇからしく異議申し立てをするもの)ですから、理屈っぽくって、自己の聖書理解を正当化しようとするあまりに結構、やいやいいうことに力入りすぎかもしれません。もうちょっと、肩の力を抜いていもいいのかもしれません。

    「小さいこといいことだ」への転換


     人から話を聞くときには、小さいことは大事かもしれないし、本当に話が分かる人は少ない。

     このことは、非常に大事だと思う。教会や自治体で、なんか講演会とかやると、理解力のある人もない人も、関心のある人もない人も、とりあえずネームバリューで呼ぶことが多い。外部の人にとって見ると、如何に業界内で有名でも、「あのオジサン、だれ?」という名言で、うちのキリスト者集団の大物説教者について大声で尋ね、会堂内をアナ雪状態に凍り付かせた来会者の言うのと同様だと思う。

     それを、講演者に申し訳ないから、と動員掛けると、興味ない人まで来てしまって、話が拡散する。それよりも、真剣に聞いてくれる人とひざ突き詰めて話す方が面白いというのはある。カッティングエッジな話は、確かにそういう小さなグループで起きることは確かである。ビジネスとしては、少人数ではビジネスにはなりにくいのではあるけれども。

     類例については、いつも拝読しているミーちゃんはーちゃんに負けず劣らず捨て身のブロガーさんのブログ、I don't know who I amのブログで、この記事 教会とクリスマス で紹介されていた。

     まだ、プロテスタントは、産業社会の思考法である、規模の経済追及主義・規模拡大志向の陥穽(落とし穴)に陥っているのかもしれない。もう、山本直純さんもお隠れあそばらっしゃったので、なんかの一つ覚えみたいに「大きいことはいいことだ」を繰り返すのはやめたらどうかと思う。シヴィックなんかの名車を生み出した国民として。


    森永エールチョコレートのCF 実に1960年代的である。


    ガンバリズムからの脱却


    これまでのキリスト教はガンバリズムが支配しており、脱皮することが必要ではないか。


     まぁ、日本はこれまで宣教地であった。宣教が先に立ち、信徒の充実という側面が見られなかったように思う。西洋型クリステンドムというのか、ヨーダーの言葉を借りれば、コンスタンティヌス型キリスト教が存在しておらず、そういうクリステンドムを経験したい、というその焦りがプロテスタント諸派にあると思う。それが、勘違いで出ると、ひょっとすると、某「日本を●するキリスト者の会」などの、日本の伝統宗教と習合したキリスト教につながるのかもしれない。それは、誤った伝道方法だと思うし、ヨーダー先生がおっしゃるように、キリスト教会とキリスト者は、国家に対して預言者の役割を果たすべきなのに、手段と目的が混乱し、日本にキリスト教を広める目的のために、手段として日本の伝統文化を正当に評価するはずだったのが、日本の伝統文化を高唱することが目的となってしまって、手段であったものが目的化してしまった例であろう。

    老いの問題とキリスト教 これからの課題
     質疑応答で面白かったことをふれたい。

     如何に老いるか、を力説する必要があるだろう。老いの問題を信徒への聖書理解を示す中で伝える必要があるだろう。パウロの晩年のピレモンの手紙などが参考になるであろう。晩年のパウロが、老人としてのあわれみで育てる姿を見ることができるのではないか。
     その意味で、教会が人を信徒を生み出す力が衰えているのではないか。キリスト者のパッションとして、育てているのだろうかを再検討した方がよくはないか。素敵な老人がいる教会が増えるといい。


     日本は諸賢御存じの通り、高齢化が急速に進む社会である。日本のキリスト教界も急速に高齢化が進んでいる。その中で従来通り、若い人、若い人と求めることはいかがなものであろうか。現在のテレビCMでは、コエンザイムQ10だの、プラセンタだの若く見えることを売り物にするCMばかりである。元気な老人は、いいのかもしれないが、無理に若作りしたおばちゃんは痛いのである。


     また、小姑みたいな人がいっぱいいて、いちいち箸の上げ下ろしをご指導を受けるような社会って息がつまりそうではないか。そういう意味で、もっとのびのびと人を息をつかせる人間力に富んだ、素敵な老人がいる教会が日本でもちょっと増えるといいなぁ、と思う。その意味で、老人パワーに満ち溢れた、痛くない教会が増えたらいいと思うのだが。

    あと工藤先生からの告知

     今度の日曜日の午前5時から、来週土曜日の午後1時から 工藤先生も関与されていた「からしだね」がNHK E-テレのこころの時代 http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-12-14/31/28104/で放送されるそうです。ご清覧をお勧めいたします。

     以上おしまい。

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