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2014.12.08 Monday

工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた(その1)

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     お知り合いのO先生から誘われた研究会で、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた。個人的には、「あめんどう」さんの『トゥルニエを読む(上)』で工藤先生のご著書に触れ、そして、できる限りの図書は集めてきた。しかし、この『トゥルニエを読む(上)』が版元在庫切れなのは残念な限り。

     余談はさておき、当日の先生がお話になられた。印象に残った言葉とそれを聞きながら思ったことを記載してみたい。

    誤解を生みやすい用語の使用
    内部用語の問題

     日本のキリスト教界は、業界用語を使いすぎる。内部だけで通用する符牒を使いすぎではないか。
     まぁ、これはキリスト教界に限らない。学会でも似たようなものだ。ただ、一応、学会は、専門家同士が情報交換する場であるからこれでも構わないのだが、教会の場合、一般の方も来られるので、内部だけで通用する符牒(未信者、求道者、お交わり、お証しなどなど)を多用するのはまずいだろう。まぁ、これは、「もっとキリスト教界に生きやすくする本」にも書いてあった。

     この前、ナウエン研究会で、来会者の方で「祈り」とか「救い」っていうイメージが通常の日本語とあまりにかけ離れているので、困惑することが多い、というコメントを直後にもらってしまったので、このあたりのことを、丁寧に語る努力をしないといけない、と思った次第。選挙の名前連呼もそうだが、説明もなしに「祈り」とか「救い」とかを連呼だけしないようにしないとね。

     講演者に対する礼儀がプロテスタントでは十分なされてない。
     耳が痛いが事実だと思う。外部から講演者としてお招きするのに、その人の書いたものを読んでないとか、聞く気がない参加者ばかりの講演会だと、確かに講演のパワーが落ちる。退屈そうにされたら、嫌気がさす。大学の非常勤だと、学生になめられて、そういうケースが多いから、もう慣れたけど。明らかに動員されているのがわかるのはね。こっちは真剣勝負でやってんだからさ。

     禁書になりかねないタイトル「信仰による人間阻害」という挑戦的なタイトルの本を出したが、禁書になるような本は価値がある。大きなものにはならないけれども、水面下で生き続ける。そして、人を励まし続ける。


     まぁ、ミーちゃんはーちゃんのブログも、結構、乱暴な記事は多い。そんなこと言ったら、教会の恥、とかいう部分ギリギリ一歩手前(超えている場合があることも認めよう)のことまでやることがある。まぁ、「品は南鳥島沖でどっかの漁船が地引網で持って行ってしまったので、もちあわせてはいない。」からしょうがない。しかし、かえって、石を投げたような
    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
    あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた
    などは、結構ロングテールで読まれているし。

    人間を扱う割に
    臨床という発想のない教会


     人を理解することにかけていたキリスト教があるのではないか。人の魂の問題を扱うという臨床しているにもかかわらずケースがない。


     おっしゃる通り。まぁ、これまで、結構信徒数が多いので、個別のことまでやってられなかったという側面と、医療の場合は、守秘義務ということをきちんと頭ん中に叩き込まれた医師・看護師・ケースワーカーを含めたチームで医療行為を通して、クライアント(患者)を支援するという体制がとられているけれども、これまで、牧師一人が対応ってケースも少なくなかったんだろうから、ケースの積み重ねもないように思うし、信徒に至っては万民祭司だといいながら、祭司職の義務である守秘義務について、分かってない人多すぎるし。祈り会で個人情報ダダ漏れというのは、どう考えてもあかんやろう。

     このあたりのことは、以下で紹介する「牧会相談の実際」が非常に良い、と思う。

    達成・拡大志向のキリスト教
    キャシャーン牧師?
     これまでのキリスト教は、クリスチャンになったら問題が解決するなど特殊な祝福論に影響されすぎではないか。繁栄することをよしとする聖書理解、達成・拡大志向を含む聖書理解が見られたのではないか。
     ミーちゃんはーちゃんは繁栄の神学とそもそも、そりが合わないので、こういうのを持ってないが、こういうことを臆面もなく語られる方々に結構出くわす。それは違うのではないか、と申し上げるのだが、なかなか理解していただけないことが多い。特に、このタイプの方は、「自分がやらなければ、だれがやる」というキャシャーン型の暑苦しい信者さんが多いので、かなわない。キャシャーン牧師もいそうな気がするけど(しかし、キャシャーンを知っているということで年がばれそう)。



    キャシャーンの挿入歌 冒頭で有名なせりふ 「キャシャーンがやらねば…」が出てくる。

    奇妙な熱心さ?
    他人に熱心さを強いる非常識

     キリスト教会特融の奇妙な熱心さがあるのではないか。キリスト教界のでは当たり前でも、世間では非常識なことがある。
     あるなぁ、と思う。例えば、「伝道するため」という大義名分があると、結構無茶な依頼が飛ばされてくることがある。あるいは、「それはあかんやろう」というような依頼を飛ばしている場面に出会うことがある。
     例えば、ある信者さん(Aさん)に、「伝道のため、Aさんがよく知らない人(Bさん)のところに行って伝道してあげてください。」とか、「教会に誘ってあげてください。」とか、「Cさんというある教会の信徒さんの息子さんがお近くにいるので、訪ねてあげてください。」とかである。依頼する本人は悪気なく頼むのであるが、頼まれた方はどうしたもんだか、と思ってしまう。「Cさんは、日中訪問したがおられなかったようですよ。」とご回答すると、今度は、「深夜か早朝に行ってあげてください。」と言われたこともある。

     「はぁ?」である。

     そんな、マスコミの記者や芸能ジャーナリスト(これはジャーナリストという言葉に対して、かなり失礼だと思うが)が、話題の人をオッカケするような、夜討ち朝駆け(赤穂浪士や戦国武将ではあるまいし)を普通の人にお願いするって、「どやさ」である。

     今なら、ストーカーまがいで警察沙汰になりかねない。しかし、そういうことを言っても、伝道を依頼する相手が望んでいるかどうか(実際には、関わり合いになりたくないと思っておられることが多い模様)も確認しないまま、自分では手を下さない割に、若者にこの種の面倒な伝道活動を簡単にお願いしてくださる方の言動を見るたびに、次の聖句を思い出すことが多い。
     しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。(口語訳聖書 マタイ23:3-5)
     どうぞ、ご自分がまずおやりになってください。遠隔地で行けなくても、郵便やメール便を出すことくらいできるでしょう。Amazonや楽天から本を頼んで受け取ってもらうこともできるでしょう。不要なら、BookOffにもっていって、現金化することもできるのだから(買いたたかれることは確実だけど)、そっちの方がよほどメリットがあるではないか。苦境のキリスト教書業界も売り上げが上がるし。

    『信仰』のためなら何でもOk?

     言うべきことを言うことは重要ではないか。信仰のため、伝道のためだから、という理由であれ、なんであれ、無料はよくないのではないか。要するに、話し手にも聞き手にも一種の適切な緊張感が生じる。


     まぁ、言うべきことを言うために、コンサルタントは金もらっているのであるから、コンサルタント料金をもらっているのにふさわしいことを言った方がよいと思う。医師なんかは健康に関するコンサルタントである。ミーちゃんはーちゃんもプロボノ(無料、ボランティア)で技術コンサルテーション頼まれることがあり、することもあるけど、プロボノだと、ずるずる引きずる、クライアントが甘えが出る、どんどん要求がエスカレートする、など、いろんな不都合が出ることもある。特に、共依存関係になってしまうことがあり、本質が見えなくなることもある。その意味で、少額でもいいから、有償というのは大事かもしれないなぁ、と思った。

     間違った理由で苦しまないように、という理由でこれまで本を書いてきた。


     これは大事だと思う。意外と善意とか、親切心から出ることが、非常に悪意に満ちた結果を生み出すことが多い。典型的には、借款型のODA(海外援助)などが典型である。このことはキリスト教界でも多々見られるように思う。キリスト教の信徒の方は、超がつくほど脳天気で、純粋で、無垢な方が多い。ミーちゃんはーちゃんはそうではないので、アザゼルか羊さんの中の黒ヤギさんになった気分になることが多い。善意なら、えられる結果がよいはずと思い込んでいる方があまりに多く、唖然とすることも多い。

     聖書の内容は神のことばとしての権威がある、と思っている。しかし、それが誤用(間違った理由の根拠として適用)されると、ろくでもないことが起きることは何度も見てきた。本来泣くべき葬儀の場で、「いつも喜んでいなさい」という言葉を根拠に、無理やり「故人は神のみ元に参りました」とにっこりすることを強いられるという、無理ゲーさせられるとか、聖書は大切だから、という理由で、あまり文字を理解する能力が十分でない方に「聖書は読まないといけない」と迫るとか、もう論外である。

     本当に間違った理由で人を苦しめるのを、特に、弱い人々、若者、知識のない人、気の弱い人々、キリスト者2世…を苦しめるつもりもなく、ご自分の思う、善や善意の押しつけの結果、他者を苦しめるのをいい加減やめてほしいと思う。自分がしていることがどういうことかをまず考えてほしい。そして、神とか聖書を持ち出すのを、まずやめてほしい。

    Barbara Brown Taylorの名言をご紹介しておく。

    "...Human beings never behave more badly toward one another than when they believe they are protecting God.” ― Barbara Brown Taylor



    "人間は、自分自身が神のため、と思っているとき以上に、相互に対してろくでもないことすることはない"

     これに関してはキリスト者としてこころしなければならない。なぜならば、神は我らの手をそもそも必要としないからである。パウロ君も言っているではないか。


     また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。( 使徒 17:25)

     「神のために、神のためにと、人間ができること、人間がしたいことを、人間がしたいと思う方法で必死になって努力する」というクリスチャンほど、「神のために人間が何かをしなければならないのだ」ということは、「神は人の手によって、人間が適切だと考える方法で仕えられる必要がある」と主張することになるのではないかなぁ。その聖書理解って、大丈夫なのだろうか。

     次回へと続く。




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