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2014.11.10 Monday

深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その7

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     これまで、中世、英国とピューリタンのルーツ、ドイツ、フランスと思うことを書いてきたが、今回からはアメリカにうつりたい。

     なお、これまでの連載記事は以下の通り。


     過去記事は以下の通り。


    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その1 
      神学と科学の原型としての自然神学

    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その2
      ドイツ神学とナショナリズム

    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その3

      英国国教会とピューリタンの出発点、革命思想と千年王国理解

    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その4

      フランス革命と啓蒙思想と共同体性の喪失、暦法の持つ意味

    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その5
      神と個人の問題となったキリスト教・宗教道徳と理解されたキリスト教

    深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その6

      大学、神学とキリスト教の不幸な分離・批判の道具と化した聖書学



    ピューリタン国家として
    建国しようとしたアメリカ

     最初にだれがアメリカにユーラシア大陸から渡りついたか、ということは、現在のネイティブアメリカンのご先祖様や、バイキングの北欧人だ等と諸説あるが、現在のアメリカ合衆国という国家の建国に当たっては、プリマス植民地に居付いた元イングランド人ピューリタンが、大きな役割を果たしたことは論を待たない。そのことについて、深井先生は次のようにお書きである。

     ピューリタンはこのようなイングランドでの不徹底な改革に満足できずに、新しいキリスト教的アメリカを再建するために新大陸を目指した。もちろんアメリカを建国したのはピューリタンだけではない。ピューリタンの国アメリカというイメージもあるが、ピューリタンはアメリカのグランドデザインにかかわった一つの重要な勢力にすぎない。しかしいくつかの要素の一つであっても、決定的な影響力であった(中略)そこ(アメリカ憲法修正第1条)に記されたように国営の教会、公認教会を認めないという考え方はピューリタン神学のアメリカでの社会化といってよいと思う(もちろんすべてのピューリタンがそのように考えていたわけではないが)。 (p.183)
     シンプソンズでも、Mayflower盟約などに関するエピソードをThanks Givingに合わせてする。下記は、その時のワンシーンである。


    Thanks Giving DayとMayflowerをテーマにしたシンプソンズのシーン

     下記の動画は、Bowling for Columbineというマイケル・ムーア監督作品中に挿入された、アメリカの略史(特に銃関連)をかなりかりカルチュア化したアニメーションである。最初に自宅でこの映画見た時は、コーヒー吹きそうになった。


    ピューリタンから現代アメリカに至る略史を銃を鍵にカリカルチュア化して描いた
    Bowling for  Columbineに挿入されているアニメ


     ちなみに、この映画及びアニメでは明確に触れられていないが、アメリカでは、19世紀くらいまで、ネイティブアメリカンや、アフリカ系アメリカ人の始祖に当たるアフリカ人奴隷は動物とされていたことだけは付言しておく(従って、当時殺すことに抵抗感はなかった模様)。


    フランス革命の結果、個人化した信仰と
    アメリカの神学の傾向

     フランスは革命の結果、市民的自由が市民に与えられ、王制からの脱却すると同時に、教会の神学からも解放された。そして、理性信仰、啓蒙主義の世界における脱教会化した宗教世界が繰り広げられ、その前後に生まれたアメリカ合衆国は、ピューリタンの自治権確立という意味では市民的自由と市民による自治権を獲得したし、英国から遠いこともあり、ある程度の自由を獲得していたものの、つまり、国教会にうじゃうじゃ言われずにを聖書理解を樹立するくらいの自由を確保していたのだが、最終的に英国が戦争するための税負担問題に端を発して、武力による独立戦争の結果、確立した国家でもある。その意味で、非常に市民の自主性を重んじる文化が生まれ、個人主義的な文化へとつながり、宗教的思惟に対しても個人の考え方に対する寛容(それが憲法修正第1条に書かれている)が先に立つことになる。そして、自分(と自分たち)にとって役立つか、合うかどうかが、価値基準になる。

     「よい神学」は、いまの自分にぴったりの答えをくれる、「使える神学」なのである。そして、多くの人々がそれに賛同すると、市場もマスコミもそれを取り上げ、それがこの市場原理の中では正義になったり真理になったりしてしまう。神学の良しあし、真理性などを決定するのは、もちろん教会や教会ではないし、神学部でもなく、あるいはもちろん国家のような機関でもなく、大衆の声が市場を支配することになってしまう。
     そこに、神学にとっての一つの誘惑が生まれる。元来規範的な性格が強かった神学が、いつのまにかマーケティングを経て、人々に賛同を得られるような、時代のニーズにこたえた、時代精神に呼応する神学を生産するようになる。神学は、批判性を失い、マーケットを支配する匿名の大衆のニーズにこたえるような言葉や思想を節操もなく書き始めるようになる。(p.196)
    と、深井先生はお書きである。そして、お金持ちでインテリ層に向いたリベラル神学があり、中西部の農民層に受けた原理主義(Bible Fundamentalism)があり、そして、西部のカリフォルニアあたりの高学歴層では、聖書の霊性(スピリチュアリティ)と結びついた、ニューエイジ風のキリスト教界なども生まれるようになってくるし、被差別対象であったアフリカン・アメリカンやヒスパニック、アジア系移民の中では、ペンテコステ運動が広がることになったという歴史的経緯がある。

     それぞれがおかしいといっているのではない。それぞれを構成する方々は、ミーちゃんはーちゃんの聖書理解には合わないところがあるものの、ミーちゃんはーちゃんにとってキリストのからだ(Corps Christi)をなす方々ではある。そして、エスニシティごとに異なるキリスト教会を形成していたりする。中国系の方々は、中華系教会に集まり、ハングルを話される方々は、韓国系教会に、スラヴィック系の方々はスラヴィック系教会にお集まりになる。また、ギリシア人は、ギリシア正教教会に、ロシア系の方々は、ロシア系教会にお集まりになる。場所がない時は、時間帯を変えて、それぞれの宗教集団が他のキリスト教界から会堂をレンタルする形での非常に多様の宗教シーンが繰り広げられているのがアメリカの都市におけるキリスト教界のシーンである。

    アメリカの地方部で
    近年成立しなくなった教会
     とはいえ、ちょっと田舎に行くと、いける教会はそこしか教会がない、というところもないわけではない。田舎町では、1980年代から教会が運営できなくなったことも映画の一部にある。「この森で天使はバスを降りた」などには出てくる。下記の動画の1時間31分ごろからそのシーンが出てくる。
     この映画に描かれたアメリカの地方が非常に美しい。この映画に描かれた人間関係は結構えげつないけど。


    「この森で天使はバスを降りた」の全篇 
    1時間30分ごろからが人が集まらなくなった教会のシーン

    ファースト神学?使い捨て神学?

     そして、多様化したキリスト教界では、教会の会員数の多さが、宗教市場でより受け入れられている妥当性を示すことになり、数が正義となる傾向を持ってしまう傾向もあるように思われる。そして、それが進むと、繁栄の神学の概念で止まるならまだしも、繁栄を求めて、繁栄を神の座につけようとし始めると、それは問題ではないか、と思う。そして、それは以下の指摘につながるかもしれない。

     匿名化した大衆のニーズにこたえる使い捨て可能で賞味期限の短い神学を生み出すことになってしまう可能性が高い。(p.197)
     このことに関して、北の百姓トンちゃん様ある記事の中で、日本の福音派のキリスト教がアメリカから影響について、次のようにご指摘である。少し長くなるが引用しておきたい。

     私は高校生の時代に、アメリカ人と知り合いになりたくて宣教師の集会に行ってクリスチャンになりました。アメリカは遠い遠い夢の国でした。私たち団塊の世代にとって、新しく格好のいいものはすべてアメリカから来ました。テレビ番組や映画も、雑誌も、「コーク」も「マック」も、カレッジフォークやジャズやロックのような音楽も、アパレル(そんな言葉はありませんでしたが)や車や生活様式も、みんなひっくるめてメイド・イン・USAのファッションでした(そのすべてが私の青春です)。

     キリスト教の世界もあまり変わらないかもしれません。私が上京した1967年に2度目の「ビリー・グラハム国際大会」が行われ、英国の歌手クリフ・リチャードが歌い、引退したNYヤンキースの野球選手が証しをしました。戦後民主主義のように、福音派においては神学の世界もアメリカでの学びによって導かれて来たように思います(どちらも決して軽視したり否定したりして言うのではありません。私たちのその子です)。宣教や教会形成に関わる分野では、新しい波は、私が牧師になった70年代から80年代にかけて西海岸の神学校から来ました。日本のバブルに乗ったような右肩上がりの教会成長論や(予算計画を含んだ5年計画や10年計画が教会や牧師のビジョンと呼ばれました)、いわゆる聖霊の第3の波と呼ばれたような、その後のカリスマ運動やリバイバル運動に繋がる動きです。そういう一つひとつが、「あれはいったい何だったのか」という思いの中で自省されることもなく時代の流行のように消えて行き、ただその形跡として崩れたもの、何か大切なものを失った痕跡が残り、そこにまた彼の国の現実や文化の中で生まれたより健やかで洗練された新しい波が太平洋の向こうから来ます。成功例はあるでしょうが、生活や歴史文化に根がないアイディアなので受けとめる側にとっては新しい方法論にならざるを得ません。それらは聖書的な教会論の装いをしてはいても本質はいつも牧師がCEOであるような実利主義的な教会運営論・管理論のように私には思えます。南米や韓国に生まれた運動や人間力学の影響も少なくありませんでしたが、私の印象では基本的にはケチャップとマスタードの味をベースに、より刺激の強いチリペッパーやコチュジャンの味を加えたようなものです。実際、韓国の福音派キリスト教は、儒教的人倫体系を基盤にしていますが、非常にアメリカ的です(ある有名教会に属していた私の友人は、植民地下を生き抜き、教会活動の陰で熱心に祈っていた高齢の婦人たちが天に召されて、教会にはイベントだけが残った、と言っていました)。

     これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から――いや戦後の焼け跡の時代から――何も変わっていないのではないかと思わされます。時代とともに変わったものがあるとすれば、もしかしたら、(これもある種のアメリカの福音派の影響で)かつての敬虔主義的福音派が大切にして来た聖書の福音そのものの理解かもしれません。「いのちのことば社」の古い本を読んでいると(たとえば、オズワルド・チェンバーズの『いと高き方のもとに』のような)、そこに語られているような信仰と教理の言葉は、もう私たちの宣教や証しの言葉、そして賛美の歌の言葉にはなくなっていることに気づき愕然とします。時代精神ともに失われたものは、時代や流行とともに変わってはならない、十字架と復活の福音にとって大切な本質的なもののように思えますが、何をいつどう失ったのかも分からなくなっている中で、悪貨が良貨を駆逐している感じがします(たとえば、信仰生活の同じ主題についての本でも、昔書かれたものの方がずっといいのですがもう読まれず、あるいは読む信仰的資質や体力が失われ、今のものは新しい時代感覚で同じ真理が言われているというよりも、新しい感覚から出る言葉がナルシシズムの文化の中で福音の大切な本質からずれてしまっています)。

     その意味で、深井先生のお書きになったことを合わせると、日本のキリスト教も、やはり、アメリカから来る使い捨ての神学を次々と取り込み、福音の大切な本質をどっかこっかに置き忘れてきたのかもしれません。その結果、それぞれが自分自身こそ正統だといい、そして他社を一段低いものに見たり、同じキリストのからだであるものに対する否定的な意見が出てくるのではないか、と思います。

     なお、韓国のキリスト教が非常に儒教的であることに関しては、2014年ころからの「福音と世界」の連載「市民K,教会を出る」に詳しい。その紹介はこちらから。

     最近トンちゃん様がお出会いになられた、お隣の国のちょっと困ったキリスト教に関しては、こちらから。

    神学あるいは聖書理解という営為と
    プラグマティズム
     深井先生は、神学、その言葉がだめだというのなら、聖書理解とは何かを概観しながら、プラグマティズムと比較することで、聖書理解という営為について、このようにまとめておられます。

     従来、神学という学問は既に措定されている真理を解明し、時代状況の中でどのように解釈し、言語化するかということを考えてきたので、論理的整合性と普遍性、そしてそれを操れる哲学や体系、言語を探求してきた。しかし、プラグマティズムはまず実践的にやってみるのである。(p.199)
     この中で、状況の中で、解釈し言語化するというのは、重要だと、ミーちゃんはーちゃんは思っているのだが、しかるに、わがキリスト者集団は、それは学問的だ、ということで、そのような取り組みを相当否定してきた。その意味で、よく言えば、現場立脚型であるが、半面、非常にプラグマティズム的である側面を持っている。そして、それぞれの教会の置かれた文脈とか環境とか無視して、ほかで成功した事例を安易にやってみたり、有名な巡回説教者の真似してみたりということがまま起こる。その結果、環境に合わせるのではなく、過去の説教スタイルがそのまま残ったり、時代の変化に合わせるのではない化石化が始まる教会もあるように思う。

     なお、アメリカのキリスト教史をもう少し知りたい方には、以下リンクで紹介する2冊の本を紹介する。

     森本あんり著 アメリカキリスト教史
     ジェイムズ.P.バード著 森本あんり訳 初めてのジョナサン・エドワーズ 

    全体のまとめ

     ご紹介した『神学の起源』という書籍には、もう1章ありますので、そこは是非ご自身でお読みくださり度お願い申し上げます。大事なので。ここまで、ヨーロッパに始まり、ドイツ、英国、フランス、アメリカと降れてきたが、こうやって、キリスト教のヨーロッパやアメリカにおける全体像を見せられると、やはり、キリスト教は、時代とともに、時代にある人々とともに、如何に普遍的な聖書理解を維持しつつ、時代の必要と時代の言葉に合わせて、語ってきた結果であることがわかる。だからと言って、神のことばの真実性が変わっているということを主張するつもりはない。神のことばが変わったから、教会で語られる内容や方法が変わったのではなく、教会を構成する人々とそれを取り巻く環境が変わったから、真理をもとにそれを伝えるために教会で語られる内容が変わったにすぎないと思うのだが、違うだろうか。

     またぞろ、長々とした連載になりました。お付き合いいただき、感謝いたします。次回、軽めの話題を挟んで、次々回、またややこしめのお話を。






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    コメント:良いのだけれども、アメリカ史におけるキリスト教は弱いかな。本書だけでは不十分かも。別に紹介する本をご参照いただきたい。

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    コメント:アメリカキリスト教史を概観するために絶対に欠かせない本

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    コメント:アメリカキリスト教史を語る上では欠かせない、ニューイングランドのピューリタンの伝統を引き継ぎ、今なおアメリカ人に影響を与え続ける人物の評伝。

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