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2014.10.25 Saturday

教会やめたい?(その9) 最終回 教会やめてもいいけど、やめる前に変わろうよ。変えようよ。

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      これまで、教会をやめたい、という方々について、教会が信仰の付帯事項について説明不足かもしれないこと、教会はやめられること、なぜ、教会の伝統が生まれるのか、伝統とは何か、伝統を作り出していくこと、守るべきものと変えるべきものを考えながら、何を自分たちの価値をしていくのか、ということを説明してきた。これまでの記事は、以下の通り。

    教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)
    でも、教会はやめても、
    キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)
    教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)
    一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)
    私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)
    伝統についてのマクグラス先生の所論(第7回)
    を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第8回)


    最後の最終回として、今日は今回のシリーズを振り返りながら、本シリーズを軽くまとめていきたい。

    他人がどうこう言おうが
    キリスト者でいられるよ
     教会は、やめれるし、やめたければ、やめればいい。転会の方法というのもあるし、無教会という方法もある。しかし、あなたが神に愛されていることを知っている以上、キリスト者はやめられないだろうし、おやめになりたいとも思われないだろう。あなたが神と共に生き続けたい、キリスト共に生き続けたいと心の片隅でもいいから思っていて、神の元に戻り続ける限り、あなたは他人がどういおうと、キリスト者であり続けると思うし、神はご自身の民として受け入れたもうと思う。牧師や教会の人や、教会役員が何と言いつのろうとも。

    教会のいう「聖書的」はある時代には
    「聖書的」と考えられただけだっただけかも?

     教会の側は、無意識に過去の歴史的経緯でできてきたことを、自分たちのしていることは聖書的だと思い込んでいて、無批判に過去から継承してきたことをそのまま続けている場合が多いことも紹介した。しかし、教会の前提条件としている社会や個人、個人の生き方が聖書的であると思ったことが成立した時期のものと異なったり、変わったりしている以上、制度自体も見直しが必要であり、変更が必要なのではないか、と思う。

    大体普通の人が聖書が読めるようになって、
    200年前後じゃないですか?
     そもそも聖書が読める人(というよりは文字が読めて、ある程度正確に意図が理解できる人)が普遍的に存在するまでは、聖書は聖職者にお願いして、説明してもらう方がよかったわけではあるが、印刷術が西洋に流入し、社会の基幹技術の一つとして普遍化し、商工業の隆盛や、初等中等教育の普及が進み、実用の学として読み書きが普及したからこそ、普通の人が聖書を読むという習慣が生まれたし、また、聖書が各国語に翻訳され、翻訳聖書が普及したからこそ、様々なキリスト教の理解の多様性が広がってきたといえよう。

     その意味で、一般人が聖書を読む、読まなければならない、読む特権にあずかれる、という伝統は比較的最近に生まれた伝統であることがわかる。西洋でも、普通教育が始まる19世紀以降の伝統なのである。

    絶えざる変化を続けてきた教会

     つまり、こうやって見たならば、キリスト教の伝統とは、社会の現実の変化に対して、内部からさまざまの問題意識を持った人々が陸続と生まれ、従来の考え方にチャレンジし、そして、それらのチャレンジを受けながら、柔軟に対応したり、しなかったりしながら、残すべきもの、あるいは、共有すべき共通性は維持しつつも、たえざる変化を遂げてきたといえるのではないか。

     であるとすれば、まぁ、教会での魔女狩りにあっているとか、隅っこにおかれたとか、迫害を受けたとか、いじめられたとか、いびられたとか、そういうことが起きていたとしても、我らがキリストにあって、あるいはキリストを通して、キリストにおいて、神に立ち戻ろうとする以上は、キリスト者であることには変わりがないといえるのではないかなぁ、と思うのだなぁ。教会を流浪の民のようにふらふらと動いていたとしても。

    「分派だ!」といいたがる教会も
    もとはどこかからの分派だったりして

     ところで、これまでのあり方を変えようとか、変えたいとかいうと、すぐ、「分派だ」とか「分裂を生ぜしめる」とか「教会を軽く見ている」とか、既存教会の方はおっしゃるかもしれない。ところがちょっと待ってほしい。そうおっしゃる教会ですら、どの程度以前かは別として、どこかのグループからの分派の結果生まれたものであるのではないだろうか。今、このキリスト教界の戦国時代状況に近い群雄割拠状態のために、キリスト教会は、特に日本のキリスト教界は、尊敬するAさんによれば、

    日本の教会は、
    神学的ごった煮状態。やみ鍋状態

    らしいですから。教会から離れたい皆さん、残念だけど、教会から離れちゃった皆さん、どこかに、あなたに合う教会は意外と近くにあるんじゃないか、と思います
    。あなたがご存じないだけで。トラウマから解放されたら、ちょっとだけ覗いてみるのも悪くないかもよ。

    最初に出会った教会だけが教会じゃないよ

     最初に出会った教会だけが、教会のすべてではありません。世の中にはいろんな教会が、同じ神をキリストにおいて or キリストを通して or キリストによって、近づこうとしているだけで、その方法論が、その教会のグループの設立時期やその設立時期の環境、その後の歴史的経緯とその教会が通ってきた歴史によって、違っているだけだと思いますよ。一つでつまずいたから、ほかでもそうなるとは必ずしも限らないんじゃないですか?

    他の教会を紹介してほしいかなぁ?

     そして、牧師先生方や神学者の方々には、もう少し他派の方々の動きや、聖書理解にも目配りいただいて、君には、こっちの方が合うかもね、みたいな他の教会を推薦するような、教会運営があってもいいかなぁ、と思いますし、そういうところをお願いしたいところです。自分のところだけで考えないで。

    教会内
    霊的バイオレンス?
     個人の特性によって、合う、合わないというのはあると思いますので。あわない教会で、躾と称する信徒が新入会員に対する嫁イビリまがいの対応や、旧大日本帝国陸軍も真っ青のいじめに近い初年兵ならぬ初年信徒教育(さすがにビンタはないと思うが、カルト化した教会では罵声を浴びせる、くらいはあるかもしれない)をしてみたり、ヒソヒソ話で他人を変えてみたり、説教で変えようとしてみたり、というのは、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV:In-Church Spiritual Violence )ではないかなぁ、と思うのです。これは、かなり言い過ぎかもしれませんが。

     最初に出会った教会がそこの教会だからその教会から抜けられないと主張するのは、DVでも何でもいいから、暴力で死ぬまでその夫婦が分かれられなくするというのと同じであり、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV)の温床になるかもしれません。こういう話は、こちらでも日本語変換をしたときにちょろっと書いた

    未熟なキリスト者が未熟なキリスト者を世話する
    のが教会かも

     そして、牧師先生、教会員、神学者を含めたすべてのキリスト者の方にお願いしたいことは、よくわけのわからないような整理されてない未熟なキリスト者を圧力や力や躾、無言の威圧、あるいは、「これは伝統だから」、「(私が信じる)聖書的なことだから」という理由でその行為に至った自らの背景や歴史的経過を考えることなく押し切るのではなく、未熟なキリスト者の皆様を同じ未熟なキリスト者として(どうせ、経験があるといっても、高々70年程度でしょ。神様の人間の世話してる期間は少なくとも数千年単位じゃないですか)温かく見つめ、見守りながら、お互いに聖書に照らしながら、どう考えるのか、教会の現状で何が変えられないもので、何が変えられることなのか、現在行っている様々な教会運営をめぐるその伝統や方法論が生まれてきた背景がなんであったのかということを考え、その歴史的経緯を照らしながら、聖書という共通の土台にあって、整理しながら、考え、そして、新しい伝統を作ることに、これまでの宗教改革者(あるいは前々回ご紹介したマクグラス先生の用語によれば、たぶん福音主義者)のように、勇気をもって向かっていただきたいなぁ、ということでございます。

    最後にニーバーの祈りを、変わること、かえること、ということで、覚えたい。

        God, give us grace to accept with serenity
        the things that cannot be changed,
        Courage to change the things
        which should be changed,
        and the Wisdom to distinguish
        the one from the other.

        Living one day at a time,
        Enjoying one moment at a time,
        Accepting hardship as a pathway to peace,
        Taking, as Jesus did,
        This sinful world as it is,
        Not as I would have it,
        Trusting that You will make all things right,
        If I surrender to Your will,
        So that I may be reasonably happy in this life,
        And supremely happy with You forever in the next.

        Amen.

      神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
      静穏のうちに変えられないものを受け入れ
      変えるべきものを変える勇気を
      そして、変えられないものと変えるべきものを
      峻別する知恵を私に与えて下さい

      一日を瞬間瞬間生き、
      一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
      平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
      ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
      この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
      私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
      あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
      あなたの御思いに身を委ねることで、
      私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
      そして、あなたの隣に私をおらせ、
      これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。



     あー長かったですが、思う存分書いてみました。

     お付き合いいただき、ありがとうございました。


    次回は、本稿の記事をうまくまとめた本が見つかったので、それを紹介したい。


    評価:
    アーサー・ミラー
    20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
    ¥ 3,300
    (2006-02-10)
    コメント:社会的熱狂のもたらす悲劇を開拓時代のニューイングランドの魔女裁判を事例に描いた名作。批判の対象は反共主義時代のマッカーシズムの模様。

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    • 2019.03.20 Wednesday 02:36
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