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2014.10.22 Wednesday

教会やめたい?(その8) 伝統を守りながら変えていく教会(後篇)

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     これまでの7回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第7回)で、議論の参考になるマクグラス先生のご本の記述を紹介したが、今回は、時代に伴って変化していく社会に対して、教会がその時代ごとに解釈を変えてきた伝統の上に乗っていることについて、触れていきたい。

    教会のグループごとの特性

     教会は、それぞれ個別のキリスト教集団ごとに、さらに、個別教会ごとにある種の癖がある。それはその教会が成立し、存続していく過程の中でうまれた必要悪ともいうべき伝統というものが影響するからである。聖書理解にしてもそうである。ルター派にはルター派の特殊性があり、改革派には改革派の特殊性があり、カトリックにはカトリックの特性があり、東方教会には東方教会の特性があり、それぞれのグループの中でも、その教会ごとに微妙な文化というか伝統があるように思う。特に、儀式などやプログラム、細かな行動様式とその細部などにその影響が表れる。とはいいつつも、一つのグループの中の個別教会の比較をしようとすると、一つのグループの中では、その教会の司牧の考え方やその境界の過去の歴史的経緯の結果、それぞれがかなり個性的であり、かなり多様性がみられることもまた事実ではある。

    組織文化と伝統

     ところで、それぞれの儀式やプログラムが繰り返されていく中で、伝統がつくられ、習慣が生み出される。このことは教会に限らない。最近、ある方が、ツイッターで、どこぞの銀行から出向で赴任して来た人の例として、
     ●●銀行(当時)から出向していた人の「何々致度」にはびっくりした覚えがある。
    という表現があったのであるが、こういう文書表現などは、一種のその銀行の伝統をそのまま継承してしまったことだと思う。まぁ、日本のビジネス慣行は、藩政時代のお武家さまの習慣というか慣行を日本の企業文化にそのまま横滑りさせているので、こういうことがまま起こる。例えば、商談をしに行く際に日本では二人していくのは、戦国時代から江戸時代に他所を訪問した際にそこで攻撃を受けた際に、一人が攻撃を一手に引き受け、もう一人の足の速い方を逃す伝統に依拠している、と思う。戦国時代や江戸末期の殺伐とした環境での習俗を延々、明治維新後も続けているところがねぇ。

    継承すべき伝統

     では、残すべき伝統というのか、継承すべき事柄とは何であるか、というと、これまでその教会が行ってきたことすべてを継承するのではなく、明確に聖書に記載されていることはそれを継承し残し、そして聖書にキリスト者が立脚するというところは残すべきだと思う。その意味で、基本聖書を中心にしていきたい、とミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。

     ところで、個々人、そして、教会の構成員が共同体として残すべきだと、聖書に基づいて考えてきたことはある程度残すべき候補には上がるが、聖書に基づいて考えたから、いわゆる「聖書的だから」と表現されることだから、残すのではなく、それに対しての不断の検証をしながら、どうするのか、変えていくのか、変えていかないのかは考える余地があるのではないか。ある時期には、それが聖書的であると考えられたことでも、ある時期では、聖書的でなくなることは結構あるからである。

    アフリカ系アメリカ人奴隷問題を
    例とした聖書理解の変容

     わかりやすい例を挙げると、アフリカ系アメリカ人奴隷のご先祖様と聖書理解に関することである。詳細は、参考文献であげた西岡(2014)をご覧いただきたい。

     ある段階まで、アフリカ系アメリカ人を奴隷とすることは是とされていた。というのは、所有者がヨーロッパ系移民ばかりであったからである。キリスト者が、キリストを知らないアフリカから連れてきた人々を働かせながら伝道対象にもできるから、奴隷制度は聖書的だとか、聖書に奴隷が出てくるから、聖書的だとか訳わからない論理もあったようだ。

     しかし、アメリカのキリスト教会が奴隷廃止に向かっていく議論のきっかけは、実は、人道的な理由というよりは、ネィティブ・アメリカン(アメリカ原住民)の酋長クラスが奴隷をもったまま、キリスト教会に入信することができるかどうかが発端になって、アメリカの奴隷制度とキリスト教の相克が起きたことが、今年の日本基督教学会の報告であった。

     まぁ、その報告をお聞きする限りは議論がいろいろあったらしいが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」が焦点化するまでは(ヨーロッパ系移民が管理、監督、所有する限り)奴隷の所有は、あまり深く考えられたり、議論されたりすることなく聖書的であると一応判定されていたが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」を出発点とする議論がなされた以降では、奴隷所有は聖書的でないという判断がされるになったらしい。私の研究ではないので、よくしらないが、詳しいことをお知りになりたい方は、西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』の論文を著者の西岡氏にご依頼して、お受取りいただいて、ご検討いただきたい。

     この例はかなり極端な例であるが、聖書的とされるものが、時間の経過とともに変化した例である。つまり、奴隷を持つネイティブアメリカンの酋長がキリスト教に改宗するという新しい現実が発生して初めて、それがきっかけとなって聖書理解や「聖書的」が指し示す内容がはじめて検討され、変わっていった事例である。

    ある聖書理解が生まれた背景と
    その時代背景

     この事例に示されるように、聖書的であると判断されたら、未来永劫まで、それは聖書的でないかもしれないのである。時間とともに聖書をもとに、個人であれ、信徒個人からなる教会であれ、教会群からなる教派であれ、それぞれが置かれた状況の中で、不完全ながらも、聖書に基づいて考え、行為を行っていくということが伝統を守る、伝統を残すという意味であり、伝統とその理由を考えず、また、その意義も考えずに、単純な行為や思索、理解の継承とその墨守をすることが保守的だというわけでもないし、伝統の重視ということでもないと思うのだが。我々も年を取っていくし、社会も変化していくし、教会も構成員が変わっていくし、我々の言葉の使い方も変わっていくし、聖書の言葉の奥にある神の御思いの原則は変わらないにしても、聖書のことば自体も、翻訳聖書だけではなく、翻訳の底本になるべきものもわずかではあるけれども、微妙に変わっていくからである。

     だって、神様だって、あんまり納得できない事柄に対しても渋々ながら、応じてやれ、と言っている事例だってあるからである。

    Iサムエル
    8:5 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
     8:6 しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、
     8:7 主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
     8:8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
     8:9 今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
     8:10 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、
     8:11 言った、

    (中略)

     8:19 ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。
     8:20 われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
     8:21 サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。
     8:22 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
     こういうことを思いめぐらしながら、守るべきものが何か、ということを定期的に点検しながら、変えるべきものは何か、ということを考えることは重要なのではないかなぁ。

    過ぎ越しの祭りの継承と説明

     過越しの祭りに関しても、次のようにおっしゃっておられる。

    出エジプト記
     12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
     12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
     12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
     12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。
     ここで、過ぎ越しの犠牲をささげる理由を子供たちが問うた時、問答無用で守れとは言わず、その理由をきちんと説明し、自分たちが何者であり、なぜ、それをするのかを子供たちに説明してやれ、そして、子供たちにそのことの意味と意義を解き明かしてやれ、とおっしゃっておられる。子どもたちに説明する前に、自分たちで思いめぐらすこともあるであろう。儀式とその根源に繰り返し繰り返し触れ、そして、考え、そして伝える(Traditio)ということは案外大事なのではないか。そういうことをしないと、キリスト者から教えられたことを守った結果、キリスト教徒は知らないまま、儀式だけを継承した、(子なる神である)フィリオに「肥料」を当て、ユーカリスト(聖餐)を「八日の七夜」という文字を当てた日本のキリシタンと同じことになってしまうのではないか。


     個人的にはそう思う。ちょうど下のネスカフェ・ゴールドブレンドのちょっと前のCFにあるように。

    まもりならがも変えていく が印象的なネスカフェ・ゴールドブレンドのCF

     次回、最終回に続く。

    参考文献

    西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』 日本基督教学会第62回学術大会 発表 2014年9月9日

    http://nc-gakkai-kg.webdeki-blog.com/data/nc-gakkai-kg/file/file20140802014720_7cdce.pdf
     


    コメント
     分野違いの院生の論文まで目を通されているとは、随分丹念にアンテナ広げられているのですね。
     公刊は当然、マイクロ化もなされていない書簡等まで丹念に集められての研究のようですから、機会が有れば読んでみたいですね。
    • ひかる
    • 2014.10.23 Thursday 01:42
    いえいえ、そこまで余裕は御座いません。

    ただ、たまたま、友人に誘われて近くの関学であった日本基督教学会に行ったら、面白そうな発表だったので、つい引き込まれて拝聴してしまいました。

    アメリカのキリスト教史を丹念に追った労作で、若干記述が粗い点があり、わかりにくかったので、当日質問させていただきましたが、もうちょっと幅を広げ、いくつかの要素を入れたら、D論、として十分なものに仕上がるだろうなぁ、という感じの論文でした。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.10.23 Thursday 23:14
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