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2014.10.20 Monday

教会やめたい?(その7) 伝統を守りながら変えていく教会(前篇)

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     これまでの6回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)について触れきた。今回は、伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方を触れていきたい。

    マクグラス先生のお書きになられたものから

     この辺りのことに関しては、何度か触れてきたが、今回は、マクグラスの講演とマクグラスが引用している文章を手がかりに考えてみたい。  

    ミーちゃんはーちゃん自身は、過去この記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」で示したように、かなりクラッシックな聖書無誤論に立っている。超保守的と言ってもいいほどである、とは思う。個人的に伝統を割と重視している、というか保守的な人間だと思っている。能天気に何でも変えればいい、新しければ、新奇であればそれでいい、とは思っているわけではない。それは、「伝統について、地に手をつけて考えた」の記事でふれたとおりである。

    マクグラス先生の経歴の面白さ

     まず、アリスター・E・マクグラス先生は、もともとマルクス主義者、唯物主義の分子生物学を学ばれ、大学期にキリスト教の伝統を知らずに過ごすのはまずいかな、相手のことも批判する以上はよく知っておくべきだ、ということからキリスト教の歴史をおっかけ始め、結果的に信仰を持ち、神学者になってしまったというミイラ取りがミイラになっちゃったような経緯をお持ちの方であったと記憶する。(違ってたらすみません)

    マクグラス先生の伝統観

     A・E・マクグラス(2004)「ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割」(稲垣久和監訳・教文館)の中から伝統の部分を少し長くなりますが引用してみたいとおもいます。元は、英語の講演内容を稲垣先生のグループが翻訳されているものなので、多少言語依存の部分があるとは思います。

    「伝統」という語は、「譲り渡す」「残す」「伝える」といった意味を持つラテン語traditioという言葉からきています。ある意味では、それは完全に聖書的な考え方です。パウロも、彼が他の人から受けたキリスト教信仰の確信を彼らに伝えているのだ、ということを、読者に思い起こさせているのですから(Iコリント15・1−4)。この言葉は、他の人に教えをつたえるという行為と−それは教会内でなされなければならないとパウロが主張したことですがー、このようにして伝えられた教え自体を意味しています。このように伝統は教え自体と考えることもそれを伝える過程と考えることもできます。特に牧会書簡は「あなたにゆだねられたよいものを守る」ことの大切さを強調します。(IIテモテ1・14)。しかし新約聖書は、「伝統」という概念を否定的な意味においても用いています。それは「聖書に基礎をおいていない人間の考えや実践」といったことを意味します。そういったわけで私たちは、主が、神のことばと相反する、ユダヤ教の人間的な伝統を公然と批判されているのを見出します(例えば、マタイ15・1−6、マルコ7・13参照)
     一見したところでは、福音主義の人たちは、少なくとも新約聖書が肯定的に用いている意味では、伝統と言う概念に異議を唱えるとは思えません。しかし、福音主義の中ではこの問題に関しての懸念があり、これらを識別し、考慮することが重要です。二つのことが特に重要です。

    1 神のことばに対比して、伝統は人間が作ったものとみなされることができます。新約聖書は、確かにこのタイプの伝統について記しており、そのような伝統とそれがもたらす結果の両方を強く批判しています。この考えをさらに発展させて、トレント公会議は人間の伝統と聖書に同じだけの重きを置いているようだと注意を促す福音主義者もいますが、そうであるならこれは聖書を優先するという宗教改革の強調とは相容れません。これは重大な問題であり極めて真剣に扱う必要があります。このため、あとからわたしたちは、宗教改革で論じられたこの聖書と伝統に関する論争を注意深く考察します。

    2 伝統には伝統主義者と言う意味も含まれています。それは以前の世代のプレッシャーであり、私たちが以前の世代の人たちとまったく同じように考え行動し続けることを要求します。そのようにして福音主義を16,18,19世紀の世界観に閉じ込めてしまうのです。「伝統」にどのような形であれ、権威を与えることは、福音主義が死者と夢中歩行することを強要することであり、それは現代のサンフランシスコで18世紀の服装をするのと同じほど滑稽なことです。キリスト教が人々からどのように見られているかに非常に敏感な時代に―「求道者に配慮した」礼拝が増えているのを見てください―、伝統への関心は全く場違いであるように思えます。伝統は同時代性に真っ向から対立するのです。

     J・I・パッカーにとって「伝統」とは、聖書が過去どのように読まれてきたかを考慮しながら聖書を読む意欲です。それは長期にわたって存続するキリスト教信仰の共同体的側面に気づくということであり、多くの福音主義者たちの浅薄な個人主義に疑問を投げかけます。聖書の解釈には、一個人が識別可能なものを超えたものがあります。伝統とは、信仰における私たちの先人がどのように聖書を理解してきたかに積極的に十分な重きを置こうとすることです。それは、聖書解釈を含み、キリスト教信仰の共同的性質を強く思い起こさせることになります。 (pp.81-83 太字はミーちゃんはーちゃんによる)
    と書いておられる。個人的な理解に最も近い伝統理解と聖書解釈の理解だと思っている。

    マクグラス先生の福音主義は、
    普通の福音主義じゃないかも

     なお、マクグラス先生がおっしゃっておられる『福音主義』とは、通常、現代の欧米、日本で使われている『福音主義』とは違う可能性があることを触れておかねばならないだろう。ルターやカルヴァンら宗教改革者の伝統に連なる『福音主義』という可能性があり、プロテスタントの総称として使われている可能性が高い。その意味で、米国で使われているEvangelicals あるいはEvangelicalism、その訳語である『福音主義』とはかなり違う可能性があるような印象を受けている。ミーちゃんはーちゃんのような浅学のものが指摘するまでもなく、先学のどなたが既に指摘しておられるとは思うのだが。

     次回 伝統を守りながら変えていく教会(後篇) へと続く。



    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 1,944
    (2004-06)
    コメント:よい、とおもいます。現代のキリスト教を考える手がかりをくれると思います。

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