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2014.10.18 Saturday

教会やめたい?(その6) やめたくてもやめさせてくれない教会?

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     これまで、教会をやめたい方がおられること(第1回)、でも、教会はやめられるけどキリストとともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人もだれも正しくないこと(第5回)と進んできたが、今日は、やめたくても、教会をやめさせてくれない教会について、触れていきたい。

    市役所のようだった
    ヨーロッパの教会の役割

     いまは、市民社会とそれをめぐる法制度が成立しているので、市民社会に関係する行政情報は、地方自治体が、基礎自治体(普通の人が一番身近で、自分が管轄する法的な役割と権限を与えられている組織、市とか、町とか、村)に付託された(やってね、って法律で定められていて、建前上は国民から負託を受けた国が自治体にお願いしたことになっている)責務(市町村役場がいやでもしなければならない事柄)として、出生、死亡、転居、所在所情報、婚姻状況の把握(住民基本台帳記載事項)の管理を、国民からの届け出制にのっとって、やっていることになる。一応、届け出制であるから、時々それに漏れが生じて、戸籍のない日本で生まれた子供がいて、教育を受けそびれたりする。あるいは届け出してないために、内縁関係とかいう言葉が生まれたりする。そういえば、ついちょっと前に話題になったが、160歳を超える江戸生まれの人が生存者として、戸籍台帳に乗っていることがあったりした。さすがに住民基本台帳ではなかったようであるけど(おそらく、住民基本台帳の方は職権で削除されたのだろう)
     Aged200_2010
    岐対馬で書類上200歳の人が戸籍上生存していたことを伝える朝日新聞ウェブ版の記事

     自治体は、基本的に業務として、申請されたものを申請された通りに、淡々と、かつ粛々と処理を進めていくのであるから、死亡届が出ない限り、100歳超えても記録し続ける。市長がテレビに出るため(失礼、御長寿の方の長寿を祝賀していることで全市民が喜んでいることを市民を代表してテレビで伝えるため)に御老人のところにお伺いする時に、妙に嫌がられない(死亡届を出さず、生きていることにして年金をもらっているケースもあるらしい)限り発覚することもないだろう。親族が「市町からの祝福などはいいですから、ほっておいてくだされ」と言っている以上、よほどのことがない限り、役所的には放置するしかないし、発覚しないことになる。異常値のチェックをやるメリットも役所的には、あまりないし(だって、住民基本台帳から計算される人口が減ると翌年度以降の地方交付税交付金に響くことがあるらしい)。年に1度くらいやるデータチェックではチェックすることはあったとしても。


    百歳の方のご自宅を訪問する牛久市長さんの動画

     ちなみに、この動画が検索の最初に出てきただけで、別に牛久市長がどうのこうのということを言いたいわけではない。牛久は美しい牛久沼がある非常にいい街である。


     本論にもどすと、ヨーロッパで近代国民国家ができるまでは、ヨーロッパでの出生死亡、婚姻の記録をつかさどってきたのは、国家や王ではなく、教会であった。つまり、国においてするのではなく地域における最小限の共同体としての村々の小さき教会が教会教区の業務の一環として仕方なしにしていたのである。王様は、何人兵隊が取れるか、ってことはあんまり何も考えずに、村に行っては、兵隊となる若者や壮年を強制徴募してきていたのである。

     まあ、近代国家以前は、王様同士が姻戚関係というのもあり、そのあたりの圧力も微妙に戦争の勃発や収束に影響を与えているという面はあるけど。

    国家間戦争と
    近代国民国家と教会

     ところが、大部隊展開型の近代戦をやるとなると、兵隊が何人くらいいそうか、ということの見当をつけるために、人口統計が重要になり、国家が国民の人数を把握しておくことが必要になる。この辺は、下記で紹介するAgainst the Godsという本に記載があったと思う。実は、いまの住民基本台帳やら、戸籍は、兵隊徴募(昔で言えば、赤紙発行)のための制度であり、ヨーロッパでは、教会から国家が強制的に取り上げたものなのである。

     ヨーロッパで近代国家が成立したちょうどその直後に日本は明治維新をやったもので、フランスに対する戦争マシンみたいだったプロイセン、プロイセンに対する戦争マシンみたいだったフランスの双方を見比べて、自分たちに都合のよいフランスの法制度を導入したと思われる。まぁ、フランス革命を経て、割とカトリック教会に冷たかったフランスの法制度、というのもあったのかもしれないが。

     その意味で、近代国家が登場するまでのヨーロッパ諸国において、その解領域を支配する地方自治体というものが明確に定義されておらず、個人の身分証明を出す機関は、国や自治体ではなく、教会であった位、地域と教会というのは一体のものであった。教会の制度って言うのは、その当時は、選択できたり、改編できたりするものではなく、生まれたら教会で登録されて、結婚したら、教会で登録されて、死んだら、教会で登録されるという人間のライフイベントはすべて教会で記録され、地域の人々の行動文化を支配するシステムになっていたようだ。いまも、日本の教会の多くはその時代の教会事務管理システムを若干手直ししながら、流用している場合も少なくないのではないか、と思う。

     住民の移動や居住地選択の変更能力が低かった時代以前、地域とは教会の教区(パリッシュというらしい)そのものであり、教会とは地域そのものの中心であり、個人にとっては、居住地選択やら職業選択やらがないのと同様に、教会の選択の余地がない世界であったようだ。しかし、19世紀になり近代市民国家とその制度が整う中で、地域と教会の紐帯(結びつき)は緩やかなものとなり、その地域住民と地域と教会の強制的な結びつきが消えてゆき、個人が信仰形態をさまざまな宗派の教会の中から、限定付きでも選べるようになったのだと思う。その自体を経てからは、ヨーロッパ大陸や、アメリカ大陸では、地域の教会ではなく、地域にある移動可能な領域に存在する様々な教会の中から、どの教会に属するか、という教会が選ばれて行く存在になっていったようである。

     その意味で、有無を言わせず、1つの定食しか出せない定食屋のような選択の余地のない(つまり、その教会のルールがすべてを支配し、それに否が応でも従うことになる)教会から、選択の余地のある(ルールの比較検討が可能で、一番よいと思うルールの教会を選べる時代の)教会になってしまっているのだが、教会の各種システムはそれに合わせて、教会の側で変更されているのか、と考えると、どうだろう、と考え込まざるを得ない。

     選択の余地がそもそもないのだから、近代国家が出来るまでは、やめたくてもやめられない教会しかヨーロッパにはなかったと思う。そもそも、職業選択の自由もなければ、居住地の自由、移動の自由、教育の自由は限られた時代でもあったので。

     今回取り上げたいのは、そういう教会ではない。

    やめたくてもやめさせて
    くれない教会
     
     今回と次回で取り上げたい教会は、前近代国家時代の教会ではなく、選択される対象になっているにもかかわらず、やめさせてくれない、やめさせないための仕組みを持っている教会のことである。

    信徒愛のため辞めさせない教会?

     一つは、自分たちの信仰が優れている(ほかはダメということが暗黙に想定されている場合が多いようだが)教会である。つまり、いいものを触れておいてもらいたいという愛情からゆえに辞めない方がいい、という方がおられる教会である。 

     とはいえ、合わないと思っているにもかかわらず、そこにいなければいけない、と言われるのは、言われる方にしたら、言われる方はつらいのではないか。水谷氏のブログ記事での

    自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の他者愛

    等の例であればまだかわいいが、相手のため、と言いながらも、結果的には、相手のためではなく、どこかで自分たちの教会の論理が優先しているという、自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト教会の信徒愛となっていないだろうか。

     個人的な感想なのだが、自分のところ以外に正しいものがないから、という理由で、囲い込みを始めると、カルト化しやすい素地を教会内に作り上げる可能性が非常に高いと思うのだが。

    ババ抜き教会?

     もう一つは、教会員がこれ以上減ると困るから、やめたくてもやめさせてくれない教会があるとすれば、もうそれは、最後に残った人にドンと負担の来る状態、つまりババ抜き状態となるのであり、末期的状況を指し示しているのではないだろうか。

     教会員が減ることは結構深刻な影響を個別教会、個別教派に与えるので、実はかなり深刻な影響を持つのだが、現下の日本では、この状況に直面している教会が地方部、都市近郊部で続出しているような気がしなくもない。都市部(特に郊外部)でも、間もなくこのような状態を迎える教会があるのではないか。

     これまで、このための備えを個別キリスト教会がしてきたか、と言われると実に心もとないのではないだろうか。人口の高齢化、若年人口の減少は、すでに、日本の地域のキリスト教会が直面する地域の人口変化とすごく大きい方が教会に集う聖書的教会が評価される社会へ と 日曜学校におちいさい皆さんが減った理由 でふれたとおりである。

     その面で、個別教会も、これからの人口減社会にどう向き合っていくのか、どう自分たちを変えていくのか、ということは考えていった方がいいかもしれない。もう右上がりで人口が増え、教会にもどんどん人がやってくる社会は来ないので。

     次回、第7回 伝統を守りながら変えていく教会(前篇) 守るべきものと変えていくべきもの をお送りする予定。






    評価:
    価格: ¥2,851
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:データ化や確率、リスク分散をどう図るか、といった技術の背景について書かれた本。日本語訳もあるけど、読んでないので何とも。

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