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2014.10.13 Monday

教会やめたい?(その5) 誰もが正しくない

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     これまで、教会をやめたい人が多いこと(その1)、教会はやめようと思えばやめれるけど、キリスト者はやめられないこと(その2)、休ませてあげるのはだれなのか(その3)、教会内の迫害かも(その4)という話をしてきた。

    教会やめたい?(その1) 問題の着想

    教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


    教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


    教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

     ところで教会内における迫害は、正義、正しさの問題とどこかで裏と裏がつながっている、と思う。

    迫害する側も迫害される側も
    自分は正しいと思っているという構図

     なぜなら、神に(真実に)従うが故に迫害されるのだ、という思いが迫害される側にあり、神に真実に従おうとするがゆえに排除(迫害)しなければならないのだ、という思い込みが迫害する側にある。まさしく、パウロなどは、回心前は、神に真実であろうとするが故に片っ端からキリスト者をユダヤ法(律法)に則り、検挙し、捕縛し、刑罰を加えていたのである。

     しかし、迫害というか、威圧というか、人々を片隅に置くことは、「教会やめたい?その4」で使徒行伝の4章や第1コリントから紹介したように、そこに正義があるから、あるいは、神の義があるから、必ず、それが起きるのではない。いや、後ろ、意外としょうもないところで、しょうもないことを発端にこれが起きるような気がしてならないのである。相互理解の不足というか、誤解から生じる迫害というか、圧迫されたかのようになんとなく不安というか不満な状態に陥る、というのが、意外に大きいようにも思うのだ。

    不幸な罵り合いじゃないすか?

     不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いことを、キリスト教会は繰り返してきたように思う。最近では、ミーちゃんはーちゃんは、「福音派はアメリカのお馬鹿な人の集まり」とも揶揄されたし、「リベラル神学は悪魔の手先だ」と福音派の一部の人々からは言われちゃったし。

     それこそ、ろくでもないキリスト教社会なのかもしれない。しかし、このろくでもないことを起こす人々を、神は愛した給うたのである。


    Suntory BOSSのCF このろくでもない素晴らしき世界 大相撲篇



     そして、はたから見れば、その「不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いもの」を迫害と呼んでよいのであろうか、とも思う。しかし、人間は主観に影響されるので、不幸な誤解とその結末を称して、迫害と呼ぶこともあろう。

     「私自身(ないし、それを支える信念や理解のシステム 神学でも信仰の
      内容でもよい)が(理不尽に)貶められた」
        ↓
     私と私の神が軽んじられた
        ↓
     これは私の神と私の信念(システム)が正しいが故の迫害である


    となる人もいて、そして、このように思うと、お互いに罵り合う結果になりそうである。自分自身にこそ、神の義があると思うし、正しいと思うからこういう理解の図式になるのではないか。傍から見れば、なんと滑稽な図式ではないだろうか。小学生の兄弟同士が「お前の母ちゃん***」と言い合っているようなもんである。だって、同じおかぁちゃんから生まれてきたんだろう。その程度のことである。

     お互いどっちもどっちなのである。神を除く人間すべてが「そう正しくない」のではないか。それを「どちらが正しい」、「どちらが聖書的だ」と言って張り合っているようにしか見えないのが残念でならない。まぁ、こんなことを書くから、「リベラル」だの「エキュメニカルの徒」だのというありがたい称号を賜るのだろうけど。

    神はそんなに軽いお方か?

     所詮、人間が人間に対して罵り合いをしているだけであり、神は、そんなことで貶められるようなそんな軽い存在なのだろうか。ダビデのような不敬虔ものの存在も含めて、神の民として、神はともに歩まれた方ではなかったのか。ふがいないイスラエルの民を、そしてふがいないわれらをも愛したもうた方ではなかったのか。

    徒党を組む人間をも用いたもう神

     とはいえ、現実社会において、教会の中で居づらくなることは起きる。それは教会といえども人間の集まりであるし、人間はあつまれば徒党を無意識的にであれ組む存在であるからである。そのことはちゃんと聖書の中で書かれている。党派心をもつもの。しかし、それを追い出せとは言っていないのではないか。パウロ先生は、ピリピ人への手紙で、

     ピリピ
    1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
     1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
     1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(口語訳聖書)

    と書いておられ、ま、かなわんなぁ、とおもいつつも、まあ、神のことばが、それまで神のことなぞを知る由もなかった人々に、競争心や見せかけが出発点でも、宣べ伝えらているのなら、一応しんどいけど、OKじゃね、って言われているように思うのですね。ここで苦しめられるはずとされているのは、パウロであって、神ではないし、苦しめられても、まぁ、福音が伝わるなら、ま、OK、喜んでもいいんじゃね、とおっしゃっておられるように聞こえてしょうがない。無理やり、武士は食わねど高楊枝的な殉教者精神ではなく。

     いや、「分派に関しては除名しろってテトスで言ってんじゃない?」って説もあろうけれども、これ、割と標準的な訳を読み比べて見ると面白い。

    口語訳聖書
    テトス  3:10 異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。
    新改訳聖書第3版
    テトス 3:10 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。
    新共同訳聖書
    テトス  3:10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。


     まぁ、ミーちゃんはーちゃんには聖書翻訳をうんぬんしようとする能力も気力もないので、3つの翻訳がかなり味わいが違っていて、その違いが面白いなぁ、と思う、とだけはここで記載しておこう。多分、ここでの訓戒って、行政処分の時みたいに、一方的なものではないと思うのだが。むしろ、訓戒ということで、きっちり話せ、ということだろうと思うのだが。


     次回は、一回軽めのネタを挟んで、次々回にやめたくてもやめさせてくれない教会について




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