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2014.09.24 Wednesday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8)

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     さて、前回からは、「ジョン・H・ヨーダーの神学」の第4章矢口論文を紹介しながら、キリスト教と平和運動、「この世に平和をもたらすものは神の子と呼ばれる」とナザレのイエスが言ったにもかかわらず、平和をもたらすことができなかったキリスト教会についてヨーダーがどういっているのか、ということをたらたらと考えて来た。
     
    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
     
    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

    ヨーダーとイエスの政治経済学

     そして、ヨーダーの主著とされているイエスの政治について、矢口論文は次のように評している。
     『イエスの政治』の2章は「近づく神の国」とい う表題がつけられ、そこでヨーダーは「ルカによる福音書」の社会倫理的解き明かしを試みている。ヨーダーによると福音書のイエスは国や義、法、金、敵を話題にする。それは社会倫理にかかわるものである。政治にもかかわる。イエスが神を語る時のことばは抽象的なものではない。イエスの祈りさえもが政治的な言葉遣いによる。従って、福音書のイエスから社会倫理を排除すること、つまりイエスを非政治化することには、イエスの言葉と行動自体が反対する。 (p.119)

    この記述を見る限り、ヨーダー先生にとって、神の国とは、死んだ後行く天国の話では全くなくて、この世にもその一部が反映されるものであり、それは、「義、法、金、敵」といったこの地上の物事と深くかかわる具体的な事柄となっていて、それを、神の民がどう考えるかを問うていると議論しているようである。ヨーダー先生にとっては、神の国(のその一部)は、もっとリアルなものだということらしい。もう少しいうと、ヨーダー先生の議論は、「クリスチャンは、神の民として、この地上の生において、様々なものとかかかわる中で神の国を不完全ながらも実現する存在」ということなのだろう。つまり、この世でキリスト者として生きるということは、これらのものと距離をとり、教会や信仰の世界に立てこもり、世捨て人のように生きることではない、という理解のようだ。そして、自分のおこころではなく、神の御思いを政治的にも神と共に実現していく存在だということらしい。

    ヨベルの年と神に造られた人間としての回復


    旧約聖書にあるヨベルの年と基督にある社会の再編、人間の回復、教会論として、ヨーダーが述べていることを矢田論文は次のように整理している。

     「主の恵みの年」を旧約聖書のヨベルの年と結びつけることによって、それが経済的、政治的再編成をもたらすことをヨーダーは見抜いた。12名の選出、つまりイスラエルの初穂は新しい社会的実現の確立として読める。それは信仰共同体の形成である。社会政治的行為である。(p.120)

     この辺、NTライトなんかが、ヨベルの年ということで途上国の債務放棄を先進国はすべきだ、を言いだしたことと深い関係がありそうだ。つまり、ヨベルの年として、先進国が後進国に化している開発援助関係に関する債権を一部放棄することで、人々の自由な動きや生き方を制限するような拘束となりかねない借金から解放するべきだと主張したようだ。それは、我々が、神の前に払いきれない借金をイエスという神を通して棒引きしてもらったから、ということもあるようだ。つまり、イエスのいう「救い」とは、「罪からの脱出」ということだけでなく、「より自由な神の人として生き生きとした生の回復」ってことなのだろう。


    教会の政治的役割について語るNTライト

    社会的権力をも支配するイエス

     多くの場合、誤解されていることではあるが、イエスは、社会的権力を直接自分自身が振り回すことを拒否しているものの、しかしその社会的権力をすら支配する神の国の支配者としてこの地に来られたというのが旧新約聖書を通してのメシアの姿だと思う。
     社会的権力をイエスが拒絶したことが、社会性や政治性、経済性の否定を意味するのではないということである。力や権力、暴力を基盤としない「イエスの政治」性、「イエスの経済」性、すなわちイエスの社会倫理が新約聖書の中に現存するのである。(中略)ヨーダーの意図は福音書と新約聖書の他の部分、とくにパウロ書簡とが社会倫理に関して断絶していないと示すことにある。「イエスの示した生き方が[新約聖書の]多様な語義的・文化的様式の中に継承された事実」(イエスの政治117頁以下)を示そうとするのだ。(p.121)
    ここを読みながら、思ったことはヨーダー先生が、「イエスの政治」性、「イエスの経済」性が新約聖書の中に書かれているということを指摘しておられる点である。特に、これから就職しようとする若い人々に対して、信仰が重要であり信仰が重要であるがゆえに実業である労働とか就労することを否定的にいう人々がキリスト教界の中にいないわけではない。しかし、そもそも、イエスの福音書における言動を見る限り、この世界と分離的に生きておられるわけでなく、無視しているでもなく、それと共に生きる生活が示されているし、パウロにおいても、そのことが継承されておられることをヨーダー先生はご指摘である。その意味で、キリスト者であるがゆえに、社会に生きる意味があるのであり、キリスト者であるがゆえに教会やキリスト教業界に立て篭もることだけが、キリスト者の生き方でないことを示しておられるようである。

    持続的メシア共同体としての教会
     そして、持続的メシア中心の共同体としての教会について、矢田論文では、次のように言及がなされている。

     生活を共有する中で、神の国さきがけを体験している共同体である。個人的問題としての善悪や人格的向上が否定されるわけではない。しかし、メシア的共同体の生き方は、社会のための生き方なのである。それが共同体であるのは、契約を交わした人たちが教えあい、赦しあい、重荷を分かち合い、互いの証を強めあうからである。
     新しい驚くべき
    生き方、即ち敵を愛する生き方を具現する共同体の存在は、それ自体新しい社会現象である。個人的レベルで問題提起したり、人々の関心を集めたりすることを否定しようとしているのではない。ただ、世の中を変えることができるのは、この世とは異なる価値体系を堅持する持続的共同体だけなのだと言いたいのである。(p.126)
    ここで、おもしろいのは、「教会の生き方は社会のための生き方」という指摘であると思う。これまで、ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト者集団では、社会を否定的に扱うあまり、教会共同体での生き方は社会のための生き方というものではなかった。社会は伝道の対象のみとして見ていたり、社会は悪魔の支配するろくでもないもの(→自分たちだけはまともである、ということが暗黙に想定されている)としてみる見方が支配的であった。しかし、ヨーダー先生はそうではなく、社会と共生する、社会にいる人々にキリストと共に生きる価値観を持つ集団、そのような共同体が存在することで、社会の中で、神の存在を示し、そして、伸ばされた手を示すとともに、社会からのばされた手を受け入れていく場として、神という教会の中心におられて、神を価値体系の根源に据える教会があるということの重要性を説いておられるようである。

     次回へと続く
    J.ディオティス・ロバーツ
    日本基督教団出版局
    ¥ 4,536
    (2008-12)
    コメント:抵抗運動のなかで生きたキリスト者の生涯の比較と抵抗活動の源泉についての本

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