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2014.10.08 Wednesday

教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題

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      これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、 教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、 キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会 はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れること、について触れた。過去記事は、こちら。

    教会やめたい?(その1) 問題の着想

    教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


    休ませてあげるのは誰か?

     「休ませてあげるのは教会か?」「休ませてあげるのは教会の牧師か?」「休ませてあげるのは教会の信徒か?」問題であるが、答えは、いずれもNo!である。

     もちろん、そういう役割を果たしておられる教会があることは存じ上げている。それは尊いと思う。そういう役割を果たしておら得る牧師先生が居られることも存じ上げている。そいう牧師先生が居られるところの教会員の方は幸せである。信徒として、そのような神の民の回復の実現のために自ら、自主的に携わっておられる方もおられる。それも本当に尊い。頭が下がる。

     しかし、すべての教会がそうだと思って、教会に行ったり、キリスト者のところにったりすると、ろくでもない目に遭うこともないわけではないことは知っておいた方がよいかもしれない。

    教会は愛を語るところなのでは?

     教会は愛を語るところであるといわれる。もちろん、それはそうだ。しかし、それは人間の間の愛をも語るが、まず第一は、神への愛であるのではないか、と思うのだ。まず、そこが出発点ではなかろうか。神に対する絶対的な依存で神をドラえもんのようにあしらうのではなく、神に信頼を置き、信頼する神が一人一人の生を肯定し、関与しておられるというところから始まっている。そして、その神の愛のあとに続くものとして、被造物たる人への愛となっている。つまり、神への愛を語ることがまず第1で、そして、他者と私への愛の順ではないかと思うのだ。それを誤解している方が多いのではないか、と思うのだ。

     もちろん、キリスト教会には、お若いころの賀川豊彦先生だとか、大都会岡山で孤児伝道した石井十次先生とか、イギリスで孤児伝道したジョージ・ミューラー先生とか中国で孤児伝道した、ハドソン・テーラー先生とか、カトリックではマザー・テレサ等が居られるが、まず、神への愛、そして、人々への愛であったとは思う。ヒューマニスト、ヒューマニズムの方々がおっしゃるように、人の絶対化が先にありき、ではなく、少なくともまず神への愛があるような気がする。

    仏教の慈悲との違い

     ところで、先日、仏教者の方の研鑽会に横入りさせてもらった(こういうことするから、リベラルとか、エキュメニカル活動家というラベルを張っていただけるのであろう。何で参加したかというと、単純によく知らないし、もうちょっと知りたいし、面白そうだから参加しただけなのであるが)ときに聞いた話なのだが、仏教の世界では、「愛」は生への執着を生み、そして、苦を生む存在なので、非常によろしくないとされていたらしい。

     仏教的な背景の中で、善とされるのは、「慈悲」らしい。悲しむ者に対する憐れみ、無条件に生きるがゆえに苦しむ者に対する憐れみのこころらしい。苦しみの中でも、特に死というものに対して、失われることに対して、嘆き悲しむことの離脱ないしは解脱がいわゆる悟りの境地のようだと感じた。この研鑽会で、死とそれに伴う悲しさからの離脱ないし解脱を理想とするのが、どうも仏教的な思想らしいことが改めて感じられて、それはそれで面白かった。

     キリスト教は死の離脱ではなく、死を越えての神とともに生きる生に向かうところであり、生きるにしても愛するにしても、生の消滅そのものに向かうのではなく、神が関与するが故の愛、神が存在するが故の生、と考えるところが仏教とはかなり違うかなぁ、と思った。

    神のみが人を休ませるのではないか?
     根本的に、休ませるのは、人を回復させられるのは、神でしかない、というのがミーちゃんはーちゃんの当座の回答である。牧師でも、人でもなければ、人の集合の教会でもない。牧師や、信徒や、人や、信徒の集合体の教会の後ろ側にいて、それを支配していて、それらを通して個人に関与される神でしかないのではないか、と思うある。カランから出たアブラハムを、エジプトや迫害されれたイスラエルの漂泊する民をも荒野で、導きたもうのは神なのだ。いや、むしろ、神は人は、その居住が定住型であれ、そうでない状態であれ、神を離れては霊的には漂泊する存在ではないか、語っておられるような気がしてならない。

     アブラムは、カランという父祖の地を離れ、放浪の民となることであった。
     イスラエルは、自らをわが父はさすらいのアラム人と呼んだ。
     うまいものがたらふく食えたエジプトの地から出て、
     荒野をさまよう羽目になった。
     王国が建国したと思ったら、バビロンやアッシリアに連れ去られた。
     バビロンから帰ってきたとおもったら、またぞろローマに責められて、
     地中海世界のあちこちに散らばるはめになった。
     イエスはイエスで、人の子には枕するところすらなくといい、
     我らに向かって、「あなた方は世界に出ていき」と言われている。
     パウロは流れ流され、あちこちふらふらしていた。
    というようなことを考えると、漂泊する民となり、その中で、神とその関係を深めることを求めておられるような気がする。そもそも、神というお方は、彷徨うわれらにとって、砂漠のオアシスのような存在なのかもしれない。それは確実に変わらずに存在するが、我々が諸般の事情によりふらふらするし、せざるを得ないから(それは我らが義ではないから)こそ、放浪するものとして存在するのだろう。その時に、立ち戻るべきは、教会でも牧師でもなく、神なのではないか。唯一休むことができるとすれば、不動点でもある、砂漠の中のオアシスのような存在である神ご自身にもどること、すなわち神のもとに戻ることのみにて得られる神と非常に親密な関係なのではないか、と思う。

    おすすめ本

     このあたりのことを読みたい方は、ヘンリー・ナウエン著、工藤信夫訳 わが家への道 
    をご推奨する。お買い物は、こちらのあめんどう直販サイトで。3000円以上で送料無料ですし。この本1年ほど前までは、1年くらい版元切れになっていたので、ある時に買っておかれるとよろしいかと思われます。

     他のナウエン本、特に、ナウエンと読む福音書も、お勧めである。この本の英語版は、Finding My Way Homeであるが、割と平易であり、英文としては読みやすいものの、実に、味わいの深い文章で書かれている名著である。


     愛や休ませてもらうことを、信徒や、教会や、牧師に求めるのは、車のエンジン音がおかしい時に、その根本原因である車の修理をするために、修理工場に行くのではなく、車に関することだから、と自動車用品店に行って買ってきた消臭剤を置いてみたり、その音の不快さの原因を直さずに、その音がききたくないからということで、カーステレオで、大音声のヘビメタをかけまくるという行為と同じなのではないか。


     次回、教会やめたい? 教会内・教会外迫害?ということについて述べていきたい。




    評価:
    価格: ¥1,620
    ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
    コメント:よい。読みやすい。われらが返るべき場所は神しかないことを示すナウエンの名著。

    評価:
    H. Nouwen
    Darton Longman and Todd
    ¥ 1,208
    (2001-10)
    コメント:英語もそう読みにくくはない。平易でありつつ、味わいのある文章でもあり、英語が得意な方にはこちらもお勧めしたい。

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