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2014.10.11 Saturday

教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

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     これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れることについて触れた。


    教会やめたい?(その1) 問題の着想

    教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


    教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


     今現実に教会から陸続と流出している状況を踏まえると、一種、教会内難民みたいな状況が実は発生しているような状況なのではないか、という問題について触れたい。

    教会から脱出し続ける、キリストが好きな人たち

     「日本人の(福音派)教会滞在期間3年」「教会の賞味期限は3年」説ということがまことしやかに言われていて、日本人が教会に耐えられるのは高々3年であり、3年後にはほぼ教会から人がいなくなるという話がある。例えば、水谷氏のこの記事 マルタ依存体質からマリヤ体質へ福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化 の記事である。もちろん、学生の時に教会に行き、信じたものの、実際に就職し、仕事をし始めてみたところ、仕事が忙しく大変だったり、日曜日に勤務があるなど、仕事と教会の両立に耐えられないという現実もないわけではないだろう。

     しかし、なんでこれだけ、教会から脱出して行くのか、と考えたら、もはや、「教会外社会や人から教会が迫害されている」、教会外の社会や人から「クリスチャンだから迫害されている」という部分も無論ないわけではなかうが、「教会やめたい?(その1)」の記事でも触れた、ある教会内でその特定の教会の(明文化されてないことが多い)規則に従順なクリスチャンから、その特定の教会の(暗黙の)規則に従順でないと判定されたクリスチャンへの(一種の)迫害というか、威圧圧力が発生していて、「まるで難民のように教会から陸続と脱出中という状況なのではないか、 と思われなくもない。

    同質化圧力の結果、押し出される人たち

     というのは、ある面教会が内部論理の完結、内部の同質性の重視という性格をもった場合、幅ひろい他者を受け入れ、幅ひろい他者とその考え方を内包するのではなく、ある考えに従っていくようにかなり高圧的に仕向けていく、あるいは、違う考えを持つものを排除していくという特性を持ちかねない。この結果、ある考えを堅持したい信徒がある考えを尊重しないという理由で別の信徒を迫害することになりかねない。そして、あれかこれかの議論に終始したりすることもあるだろう。また、あれもこれもと含められるようなメタ思考ができなかったりする人もいるかもしれない。あるいは、他者を対等な関係でとらえるのではなく、一段低いものと見たりすることがあるのではないか。また、こころない信者の発言や言動に傷ついたりした方もあろう。クリスチャン2世であっても、その一族の中で、一番最初にキリスト者となった第1世代との聖書理解が違ってきてしまったために、教会から居づらくなって、押し出されてしまうように、ひっそりと教会を去る人はいるような気がする。

     自分と考えの違う立場の人に、「福音派」とラベルを張ったり、「リベラル」とラベルを張ったりすることはないだろうか。実際にそういう言動を取ったりすることで、ある信徒群が他の信徒群を迫害していくことになりかねない。ラベルを張ってしまえば、自分と無関係にできてしまうのだ。そして、放浪者、難民の様にキリスト教界を漂う人々もいなくはないだろう。傷つけた教会だけが悪い、それは教会にあるまじきことだ、とはミーちゃんはーちゃんは言わない。これは、この連載で次回触れる。もちろん、こういう不幸はないほうがいいに決まっているが。

     何、これはいまに始まったことではない。ちゃんと聖書の中に書いてある。

    使徒
     6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。(口語訳聖書)

    Iコリント
     11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。
     11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
     11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
     使徒時代の当時から、物理的に排除されたり、軽んじられたりした人はいたのである。その意味で、この種のことは、いまの日本のキリスト教会に始まったことではない。

    傷ついて行く人々と傷ついた癒し人

     あるいは、信仰の一環として、と思って捧げてたものが、別の一部の教会関係者のために流用されたりという事例に直面し、きよい人の集まりだと思ったら、とんでもない食わせ物がいたり、という教会の現実に躓き、倒れ、傷を負い、という事例も全くないとはいえないであろう。なお、自慢ではないが、ミーちゃんはーちゃんは食わせものの一人だと思って置いていただけると助かる。

     クリスチャンではあることは続けたいものの、この種のことの躓いてしまったり、傷ついたキリスト者で教会を離れてしまった人も多いだろう。しかし、待ってほしい。あなたが傷ついた以上に傷ついた人、いまなお傷つき続けている人がいるのだ。

     それはナザレのイエスなのではないか。あなたのために傷つき、現在のわれわれ一人一人の神の不在の状況と教会のこの現状に傷つき、それでもなおそれをご自身の受苦の一部として受け取っておられる方こそ、ナザレのイエスではないか。そして、ナザレのイエスは、その状況を回復されるとイエスがお約束であるがゆえに、ナザレのイエスは魅力的なのではないのだろうか。

     このあたりを考えたい方には、英語が読める方だとThe Wounded Healerをお勧めするが、日本語版の傷ついた癒し人をご紹介しておく。非常に読みにくかったけど。

    日本語だと、イエスの御名で、の方がいいかもしれない。お買い物はあめんどう直販サイトで。

     次回「誰も正しくない」へと続く。

    追記 2014/10/11:午後))
     上のような例は、『迫害』とは言えないのではないか、というご意見も公開当日の午前中にいただいたが、実際には、やんわりとであれ、正面きってであれ、「出ていけ」と言われたり、「陪餐停止」「破門」を道具に反省を求められたりするケースがみられるキリスト教会などでは、迫害に類似、あるいは相当するケースもあるのではないだろうか。




    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Darton,Longman & Todd Ltd
    ---
    (2014-04-28)
    コメント:英語がよめる人は、これ読んだ方がいいかも。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 1,026
    (1993-04-01)
    コメント:おすすめである。お買い物はできれば、あめんどうブックスで。

    コメント
    >やんわりとであれ、正面きってであれ、「出ていけ」と言われたり、「陪餐停止」「破門」を道具に反省を求められたりするケース

     この辺りの問題をつらつら考えるに・・・、辺境では西欧に於けるクラブ(社交倶楽部、カントリー倶楽部、まがい物の飲み屋の倶楽部やゴルフ場だけ経営している場合もありますが)文化がなく、社交団体と地域生活団体が同一視されている為に(地域団体では離脱は物理的にも実質的にも困難です=アーミッシュだとして離脱を考えたとすれば如何に困難かは想像可能かなと)団体離脱に馴れていないことも大きな要因です。
     また米国では教会の渡り歩きも珍しくありませんが、之はおそらく新世界の都市部のみに見られる特異現象で、之が変な意味で部分情報として伝わってくることも違和感を拡大させる原因かなと思います。

     別の表現をとれば、辺境で表現するところの「八分(共同絶交)」が、人権問題なのか、単なる団体の除名に過ぎないかの判別の内容になると思います。

    ・・・とはいえ、実際には心の問題ですから、当事者が如何様に感じているかに過ぎないと申してしまえばそれまでなのですが・・・
    • ひかる
    • 2014.10.12 Sunday 16:47
    クラブというか、ソサエティというか、フラタニティというかは、日本語になりませんねぇ。日本だと、同業組合もありますが、政治的圧力団体だったり、その下部組織だったりというような感じもないわけでもないし、それなしにやると、結構偉い目に遭うし。

    ひかる様のところのような教会だとそういうことはないのでしょうが、下手をすると福音派の一部では「自分たちだけが正しい聖書理解を保持している」という主張をされる向きの教会(自分たちも、ではなく、自分たちだけ、という主張が困るのですが)も一定数あり、そこから破門(陪餐停止)されると、「他はダメ」ということを繰り返し聞かされているので、行き場を失ってしまう人たちもいるんです。それも、結構な数。

    そして、陪餐停止にした信徒さんを「悪魔の手先」の如く言う方も教会内にいらっしゃるので。

    一キリスト教団体からの離脱や除名にすぎないものが、悪魔の手先処分と理解されてしまうあたりが問題なので、あえて、「やめたかったら、やめればいい」と暴論をうそぶいております。このシリーズ、まだまだ続くので、そのあたりのこともおいおい。「その5」でも、軽くは触れておりますが。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.10.14 Tuesday 22:46
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