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2014.10.06 Monday

教会やめたい?(その2) 教会のやめ方

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      前回の記事で、当ブログに「教会やめたい」、「教会 行きたくない」とか言う検索語で到達されておられる方がかなりおられること、それも検索エンジンのかなり上位でたどりついておられることをご紹介し、会社とかならやめ方を教えてくれるし、契約などでは、その契約の効力停止(つまりやめ方)が明確に書かれていることをご紹介した。

    前回の記事は、こちらから。

      教会やめたい?(その1) 問題の着想

     教会はやめられるのか、というお話しをしたい。

    教会はやめられるか?

     結論から言おう。

     教会はやめられる。

     やめたければ、やめて、無教会という一人教会を実施することもできる。何、心配する必要はない。日本にも先行事例がござる。最下部のリンクの「内村鑑三の人と思想」でご紹介されている内村鑑三先生である。補足で触れたように、今週10月11日 土曜日の午後1時から、E-テレ(NHK−教育TV)で資料から内村鑑三の生涯を再現しようとしておられる鈴木先生のお話が、「こころの時代」であり、内村先生も不敬事件の結果、教会からはじかれるようにして、無教会の思想へいたったあたりの説明をしておられた。おすすめしておく。

     あと、不敬事件とその背景に関する読み物としては、明治期から昭和初期までを含む国家とキリスト教の関係を概観できるマンガでもある。マンガとしては、やたらと文字の多いマンガ(このブログの著者が言うな、というのはあるが)である、「マンガで読む日本キリスト教史 タイムっち」も合わせて推奨しておく。

     ただ、個人的には、よほど聖書を読み込んでいない限り、おひとり様無教会は、お勧めはしない。なぜかというと信仰は共同体性の中ではぐくまれるからだし、内村先生も、うっとうしい教会の「やれこれをしろ」「やれこうでないといかん」「やれこういうことでないといかん」という「しきたり(律法と呼ぶ人もいる)」には辟易して、その挙句の果てに不敬事件で教会から追われるようにして、教会を飛び出しておられるものの、結局は信徒共同体「無教会主義教会」という表現上は実に矛盾した存在を実践なさっておいでであった。

     その意味で、キリスト教会は、個人の信仰を表明するものの総体という側面もあるが、共同体の信仰という側面もある。だから安易にやめない方がいい。これは素直にそう思う。そして、共同体を通してのみ感じられる霊性のダイナミズムもあると思うのだ。

     なお、もう物故者であるが、ミーちゃんはーちゃんのお知り合いにそれをかなり長期間にわたって、野山でのおひとりでの礼拝を実施された、いま生きておられれば、100歳を優に超える方を存じ上げているが、かなりきつかった模様である。

    クリスチャンはやめられるか?
     
     では、クリスチャンはやめられるか?ということを問うてみたい。個人的には、これは無理ゲー、だと思う。あなたが、神とともにいたいと思い、神の前に一度手を伸ばしたのだとすれば、クリスチャンはやめられないと思う。もちろん、自分で、「やめた」という振りをすることはできる。どこぞの教会の信徒から、「あなたは信仰の破船に遭った」とか、「クリスチャンと呼ぶに値しない」、「悪魔の手先」と言われようが、あなたの行動が、キリスト者として(一時的に)ふさわしい状態でなかったとしても、あなたはクリスチャン、ないしは、キリスト者であり続ける、とミーちゃんはーちゃんは思う。

    なぜか?

     神がそのように約束されたからである。もし、私たちが神のもとに立ち返りたい(悔い改めたい)のであるとすれば、辛抱強く神は我々を受け止め抱きとめ、憐れまれる方であるからである。旧約聖書を見られよ。神の民であったイスラエルが、何度裏切り、何度神の前に立ち戻ったことか。異教の神に現を抜かし、遊女に走り、不貞に走り、口寄せや霊媒師に走ろうが、神はそれでも民が神の前に戻るように説得され、戻った時には、受け入れたもうたからである。大体、イエスはこのようにおっしゃっておられる。
     そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
      (口語訳聖書 ヨハネ14:18)
    面白いことに・・・
     「教会 やめたい」、「教会 行きたくない」で検索してくる人はいても、当ブログに来られる方の検索語として、「クリスチャンやめたい」、「クリスチャン やめる」はめったにないのである。どうも、これらのことを考える限りにおいては、内村先生同様、うっとうしい教会での「やれこれをしろ」、「やれこうでないといかん」、「やれこういうことでないといかん」というしきたりに辟易してたり、教会内での人間関係に疲れが来ているだけなのだと思う。

     本来、イエスのことば
    マタイ  11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(口語訳聖書)
    であることばに従って、教会に行けば、こころを休ませるはず、と思ってたら、豈図らんや、かえって心が休まらず、「何だこれは」「これはいったい何!?」になった経験をした人は少なくないのではないだろうか。それで、「教会に行きたくない」になったり、教会 やめたい」という検索語につながるのであろう。



     次回「休ませてあげるのはだれか問題」へ続く


    補足
     無教会に内村先生が向かうことになった経緯に関して、下記のリンクで紹介しているご著書をお書きになられた鈴木範久先生が今週

    土曜日2014年10月11日(土曜日) 午後1時から


    のNHK教育(E-テレ)でお話しになられる。これは、昨日の朝5時から放送された番組の再放送である。非常に参考になると思うので、この連載に関係するので、ご紹介して、御視聴をお奨めしたい。

    http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-10-11/31/12966/

    こころの時代〜宗教・人生〜
    「内村鑑三 その面影をたずねて」




    内村鑑三先生のお写真



    お話しされる鈴木範久先生



    内村先生が発行された雑誌 「聖書之研究」


    幕末から昭和を生きた思想家でキリスト教伝道者の内村鑑三。その思想はいかに生まれたのか。丹念な資料収集や関係者の言葉などから浮かび上がった人間・内村の面影とは。

    立教大学名誉教授の鈴木範久さんは、半世紀以上にわたって内村鑑三を研究してきた。著作の研究だけでなく、内村が生きた時代の資料を収集し、内村の 足跡を実際に訪ねるなどしながら、内村がいかに生きたのか、また、その思想がどのように生まれたのかを明らかにしようとしてきた。厳しい人というイメージ もある内村はどのような人物だったのか。また、その信仰に基づいた生き方はいかに深まっていったのか。その面影をたずねる。

    【出演】立教大学名誉教授…鈴木範久,【語り】石澤典夫




    評価:
    岡田明
    キリスト新聞社
    ¥ 2,160
    (2013-04-25)
    コメント:内村が経験した不敬事件の背景を含め、明治国家とキリスト教、戦前の大日本帝国とキリスト教の概観にはわかりやすくて良いと思う。

    コメント
    私は教会員と、クリスチャンそのものも辞めました。
    原因は、引っ越し先の教会で、牧師からセクハラを受けたものの、
    以前に行っていた教会(洗礼を受けた教会)が
    その件についてなにもアクションをおこさなかったからです。
    所詮金づるが欲しいんだろ?としか思えなくなりました。
    牧師に「教会をやめます」と話したところで、
    どうせ訳のわからない理由で教会員脱退を邪魔されるから、
    何年も一切関わらないようにして逃げました。
    クリスチャンを辞めてから、自分を束縛していたものがなくなり、
    心から自由を得ました。
    • えり
    • 2015.08.11 Tuesday 02:57
    えり 様

    コメントありがとうございました。プロテスタント派では、元々、カトリックから分離した瞬間以降、教会の独立というのはかなり確立されており、よその教会の事に原則介入せず、ということはあろうかと思います。

    残念ですが。

    牧師のセクハラですか。残念ですが、パワハラ、セクハラ、結構、在るんです。残念ながら。このキリスト教業界。

    結局鼻で息するものにすぎないのに、小さな集団でなまじ力をもったりすると、こういう問題行動を起こす方が時に居られます。残念ですが、事実として、キリスト教の負の側面として率直にお認めしたいと思います。

    クリスチャンやめたというのは、教会員をおやめになられた、ということかもしれません。彼の内村先生も、教会員をやめられましたが、基督者であり続けられたということは、在るかと思います。

    しばらくは静かに、教会から離れてお過ごしになられるのも、一つの方法かと思います。あわてずに。

    解放される、それこそ、ナザレのイエスが伝えたかった福音に出会われたのかもしれません。イエスが言わなかった事で人を縛っている教会からの解放、是も、イザヤ書61章の

    61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
    61:2 主の恵みの年と
     われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
    61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。

    が実現したのかもしれません。

    えり様の上に主の主、万軍の主、神の平和が御座いますように。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.08.11 Tuesday 06:54
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