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2014.09.15 Monday

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4

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     これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわりを触れ、キリシタン時代の伝道とネットワークを触れ、子供のソーシャル・ネットワーク構築の場所としての公園、塾、学童保育とその整備状況、その時系列的変化と空間的整備状況等に触れた。


    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3


     いよいよ、今回からは、おちいさい皆さん(子供たち)の人間関係論を形成する要因などに触れていきたい。

    おちいさい皆さんのコミュニティと遊びの役割

     さらに、198373(南の国のコメント王子からのご指摘感謝)年発売のファミコン、その後継機である1990年スーパーファミコン、1994年にプレイステーションが発売されるなかで、子供たちの遊びも変化することになっていく。

    1973発売 ニンテンドーファミリーコンピュータ初号型


     つまり、従来、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社、教会などの境内地などから、電源のある私的空間である家庭の中に誘導していく。また、携帯型端末であるゲームボーイ発売が1989年、ニンテンドーDSが2004年に発売されるとともに、家庭や屋内から子供たちを解放し、屋外で子供たちが集まって遊ぶことを可能にしたものの、戸外遊びが復権したわけではなく、戸外でゲームボーイなり、塾の行き帰りにDSをするようになっただけのことである。

     いずれにせよ、子供たちの遊びがその機械を利用することで生まれてくるにより、コミュニティが形成されて行くようになる。そして、ヴァーチャルな空間における交流によって、子供たちの『ソーシャル・キャピタル』を生む背景にこれらのゲーム機での交流が生まれ、そして、そこで繰り広げられる関係性が、子供たちの公共圏の一部としても流れ込んできたように思う。おそらく、このようなことは、現在の60歳代以上の方にご理解してくだされ、とお願いしても無理かもしれない。


    ゲームボーイ初号型

    おもちゃとおちいさい皆さんのソーシャルネットワーク

     しかし、ヴァーチャルなものの交換に価値を見出すことは子供にはかなり困難な作業であるので、友情やコミュニケーションを載せる装置として希少性が生み出されやすいものにその価値システムを憑依させるものが子供たちの中に持ち込まれることになる。古くは、1971年仮面ライダーカードであったり、1973年プロ野球カード、近年では、1996年ポケモンカード、ポケモンのキャラクター、1988年ミニ四駆、1998年遊戯王カード、1999年ベイブレード、2013年妖怪ウォッチ(←いまここ)というものであったりするのだ。


    「ナウで、ヤングな」お小さい皆さんに大人気の妖怪ウォッチ

     つまり、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社教会などの境内地などの公共的な空間を中心とした子供たちの公共圏の形成から、いったん家庭とかにこもる形になり、携帯型ゲーム端末やカードゲームの登場により、もう一度は電源の問題からは解放されることになるが、それと同時に、共通するモノ、あるいはヴァーチャル空間に存在するモノやキャラクターを介した、あるいはそれらに憑依させる形で、公共圏が構成されることになる。

    ヴァーチャルなキャラクターを介した
    おちいさい皆さんの公共圏形成
     ここで重要なのは、公共的な空間を介した子供たちの関与に関して、公園デビューのように、その場に自分自身を曝露するために自分自身が身体を運べ、身体性を伴って公共空間に現れるかどうか、ということに加えて、そのような場(1980年代以降は、塾とか、他者の家庭とか)に参与するための関係性を具体的なモノに憑依させたもの(つまりおもちゃなどの共通のもの)をもっているかどうかも問われることになってくる。関係性を構成するための憑依させる対象のモノ(カードやゲーム機器、そして、その中に存在するヴァーチャルなキャラクター)の所有の有無の問題が子供たちの公共圏を構成する要素に一定の役割を果たすようになってきていると思われる。だからこそ、課金型のゲーム屋がもうかるようにできているのであり、子供はよくわかってないから、親のところに何十万という携帯ゲーム屋からの課金が生じて後、親は慌てることになるのである。

     余談から元に戻すと、つまり、関係性を憑依させるための対象をもつものと、持たないものとの間で、人間関係のネットワークに関与できるかできないかの断絶が起きているように思われる。あるいは、モノを持っているかどうかが、人間関係における関与の可能性が生まれるかどうかの基礎となっている可能性がある。(すまん、メタのメタの概念になっている)ごくごく平たく言ってしまえば、あるもの(ゲーム機、カードゲームで用いるカード、ゲームソフトウェア、その中でのキャラクター)をもっているかどうかで、「友達ができる」、「ともだちができない」、友達の付き合い方が変わっていくのだ。つまらないことだ、そんなことはないはずだ、そんなことではダメではないか、と社会の規範というか、徳目的な側面を重視するキリスト者的な大人からは批判されるかもしれない。そんなことで友達づきあい(『ソーシャル・ネットワーク』や『ソーシャル・キャピタル』)が変わり、小中学生のQOL(生活の質、遊び仲間の関係の質)が変わるということに疑念をもったり、それはおかしいというかもしれない。

     しかし、子供たちの現実は規範や徳目では動いていない。子供の世界を傍でじっと見ていると、どうも本稿で指摘したようなモノの所有やバーチャル空間でのゲームなどの参与の有無によって、子供たちの世界は動いているのではないか、と思われる。つまり、リアルな物理的な公共空間(公園とか学校とか塾とか)の中におけるリアルな関係性の中に、携帯ゲーム機やゲーム機の中でのヴァーチャルな関係が断続的に、わずかではあるけれども、その関係が時に顔を出したり、あるいは、そのヴァーチャルな関係がリアルな関係にどっぷりと持ち込まれたり、ているように思われる。

    キリスト者家庭のおちいさい皆さんの
    ソーシャルネットワークの脆弱性

     この手のものに批判的な目を向けるキリスト者の両親のもとで育つと、これらのものに触ることが大きく制限されることとなり、そのため、これらのものへのアクセスを制限された子供は、その『ソーシャル・キャピタル』というか、『ソーシャル・ネットワーク』は制限されたものになるのではないだろうか。その意味で、その子供たちは、子供たち社会の中でのリンク数はおのずと小さなものとなり、影響力の小さな個人(ノード)となっていると思われる。つまり、ドラえもんの世界における出来杉くん状態になっていると思ってもらえばよい。おまけに、子供たちが割とたっぷりと遊ぶ時間が取れる曜日である日曜日には、教会にいることが求められたり、義務付けられたりするのだから、これで、キリスト者仮定の子供に子供社会における影響力を持て、というのは、どうなんだろうおか。

     その意味で、キリスト者家庭の子弟の持つ、『ソーシャル・ネットワーク』、『人的ネットワーク』は、平均的な児童・生徒とはことなり、この両者の間での生活の質は異なるものとなろう。したがって、それから生み出される『ソーシャル・キャピタル』もおのずから異なるものとなるのではないか。

     現代の60歳以上の層では、そもそも、日本社会自体が貧しく、おもちゃのある家庭の方が少なかったため、上記で指摘したような問題は生じなかったはずであるが、その時代を自分が過ごしたから、といって、その時代の生き方を現在の小中学生における理想とすることや、その姿で生きることを現代に生きる子供たちに強要することにはかなり無理があるのではないか、と思っている。

     次回、西洋型教会におけるソーシャルキャピタルと、ヴァーチャルキャラクタ問題と子供たちのソーシャルネットワークの問題を扱う。(水曜日公開予定)






    コメント
     (ー'`ー;)う〜ん・・・ そう・・・貴方の年齢だと中途半端に判らないのでしょうが・・・

     古くは独楽(特に貝独楽や地域に拠っては独特なケンカ独楽があります)、メンコ、ビー玉、これらは加熱して校区毎に禁止令が度々出される事がありました。
     高価ではありませんが、ゴム段や縄跳び、一時的ですがフラフープなど用具に頼る遊びは結構あります。
     それとトレーディングカード様式になるのは、極東地域では随分歴史が浅いですが、野球カードそのものは、川上・大下の時代から有りました。

     用具に頼る遊びは、「ジャンクフード」や流行ものの「おもちゃ」と同様、生活スタイルの問題ですから、それで狭まる人間関係がはたして必要なものなのか・・・結局トレードオフで選択すべき内容ではないかと。

     二人ばかしの子供の経過を見る限り、狭い社会で暮らしている間はだいぶ肩身の狭い思いや悔しい思いをして、親を恨んではいるようですが・・・現在の経過を考えると殆ど不要な物であった気が・・・

     ただ・・・時代の経過により・・・生活保護世帯の冷蔵庫のように、必需品に繰り入れられる時期がありますから、そこは時機を失わないように状況を観察する必要があります。

     今なら、携帯とPCは小学校入学前後から必要かなとも・・・
    • ひかる
    • 2014.09.16 Tuesday 03:23
    ひかる様 コメントありがとうございました。

    そうですねぇ。

    いやぁ、型抜きとか知っている最後の世代何で、わからなくはないですが、このブログ、割とお若い方が多いんで、あるあるネタを中心に集めました。

    遊具そのものよりも、その交換(貸し借り)を通してコミュニケーションが行われるとなると、ちょっとゴムとびとかは、ネぇ。スーパーボールとかもまぁ、入るんでしょうけど。

    大抵おもちゃってのは、古代から現代まで基本消耗品でしかないんですが、ある年代の方々には、消耗品っていう概念でとらえられず、長持ちさせて延々遊ぶべしって原理主義的な方もおられますし。

    子どもそのものには、周囲から孤立させながら、我慢させておけ、ということは理解できなくはないですし、うちもその方針をとりましたが、しかしそうであっても、そのあたりの理解がなく、孤立した子供にも伝道を強要させてはどうか、というような諸力が働くこともありますので。実は、今回の記事は、そのようなことをおっしゃる方々のご意見を踏まえたNobu牧師という方への反論連載でございます。

    ご理解賜りたく。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.09.16 Tuesday 07:03
     おもちゃを単に遊具と考えるか、なのですが・・・
     先に挙げた物品は殆どが博打の道具になって、心を引きつけるのです。
     消耗品との考え方は、販売側の戦略に載せられていることが殆どで、毎年目先を変えて、場合によっては途中でもバージョンアップで販売攻勢を掛けるのは幼児の気性を心得た方法ではあるのです。
     目先の消費に走るか、満足感のある物にドカンと充足するかの選択は、一定程度指導しないと身につかない感覚です(それ以上に、親としての資本投下も結構キツイ物があります、三年分程度の小遣いを一時的に投下したりする必要がありますから)

     ボロ切れのようなタオル(ピーナッツ)や接ぎの当たったぬいぐるみに執着するのは、特に偏差の大きい精神性とも言えません。あとは当人の問題になります。


     子連れで伝道ですか・・・マア自らはキリスト教でないともうされる団体さんとか、回教並に聖書の上の書を創造された宗派さん(之もキリスト教系とされるのが、組織神学上不可思議ですが)などお好きですが、余りよい結果は出ないようで・・・
     子供は自由に、当人の望むままに、場合によっては死んでも良いぐらい気ままに(取れる責任は親がと取る覚悟で)、しかし社会性は完全にとぎれない程度に、学校内以外の勉強は塾も含めて中学生までは禁止(それでついて行けないほどの基礎能力では、上級学校に行く意味がない)・・・で反発して、一応二人ともお金にならない研究者の卵になってしまいましたが・・・

     人の生き方には、廻りから押され、流されるような生き方も、自らの意志で突き抜けていくような生き方も共にあります、何れが正解とか、正しいなどと考えることに意味はなく、その時の諸事情による選択に過ぎません。
     イヤ実は選択していると思いこみたいだけで、既定の路線と考えるべきなのですが、そこはまた色々あるところなので・・・
    • ひかる
    • 2014.09.16 Tuesday 15:06
    ひかる様

    コメントありがとうございました。

    射幸性の問題は、確かにありますねぇ。特に確率変数で何が出てくるかわからないというところがまた子供たちの心をとらえる、という側面があるのも確かですね。

    ここでの問題は、子連れ伝道ではなくて、もっと最悪な子供を子供社会の伝道の道具、入り口に使おうというところにあります。これは、個人的にまずいと思うのです。また、子供を、他の幅広い感が肩を持ち社会を共に生きておられる人々と切り離そうとする一部のキリスト教社会の在り方に対する異論をできるだけ、ケンカ腰にならずに、キレ芸を見せるのでもなく示そうというのが、本連載の立場です。

    所詮さまざまなことや方法論に正解はない、正解は最後まで、そのことが決まった後でもわからないというが、一般システム論の立場に立つミーちゃんはーちゃんの立場でございますので、自分たちがそれで満足できているし、納得可能な状態であれば、それで良しとすべきだ、と思います。

    まぁ、私のところは、結局塾にもどこにも大学行くまで通わなかったですねぇ。その代わり、その選択で、かなり生き方は制約されたとは思いますが。本人たちはそこそこ満足しているので、それでいいんじゃないか、って思っています。

    コメントありがとうござい蒔いた。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.09.17 Wednesday 08:44
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