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2014.09.28 Sunday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(10)

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      本日は例外的な緊急繰り上げ公開を致します。

     さて、前回は、矢口論文から正義の戦争をどう考えるのかを引用して、それから思うことなどをいつものようにだらだらと、紹介した。なお、これまでの過去9回の連載記事は、以下の通り。

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
     
    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8) (09/24)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(9) (09/27)

     今日は本シリーズのタイトルのもととなったメタ思考の問題を触れている、本書最後のネイション論文から引用して、メタ思考をすることの意義をネイション論文をもとにジョン・H・ヨーダーの主張から考えてみたい。

    誤解されやすいヨーダー
     ネイション論文では、ヨーダーの主張が多くのキリスト者の間で誤解されているということを指摘している。
     既に述べたように、メノナイトを含む多くの人々がヨーダーを誤解した理由は、すでに主流となった考え方(トレルチやニーバー)の枠組みを通じて、ヨーダーを読んだことである。しかし、ヨーダーは枠組みそのものを変えようとした。問われている事柄への応答にヨーダーの主な関心があったのではない。問いそのものを書き換えたのである。(p.155)
     これと似たようなことは、イエスが語られたことでも起きていたように思う。当時のユダヤ人、特に、律法学者たちは当時の旧約理解の枠組みの中でのみ、イエスの言動を理解しようとし、イエスが神としてこの地を歩んだことで、その枠組み自体が変わったことを告げようとしたことに気づかず、イエスがおかしいと批判しすぎたことと似ているかもしれない。Meta思考ができない人は、Meta思考ができないがゆえに、従来の枠組みにしがみつき、従来の枠組みのみで、自己定義をしたり、自己の行動をするのではないだろうか。その意味で、Meta思考の結果出てきたものは、通常の人には理解できないものなのだろうと思う。つまり預言者的役割を持つ人には、どうも非常に高いコミュニケーション能力が求められるのかもしれない。

    重要な「神の国」=「キリストの支配」

     ヨーダーの「終末論なしの平和?」という論文の中で、ヨーダーの議論の重要なポイントとして、ネイション論文では、次のように指摘している。
     わざわざ、字体を変えて〔英語では大文字〕引き立たせて書かれた「キリストの支配」という句を読み飛ばしてはならない。この「キリストの支配」という句はその書物の中心的な主題であり、同時に聖書が示す概念であることを忘れてはならない。それはまず教会の現実の中でなじみ深い概念だ。教会は、キリストの支配に対して「はい」と言った人の体である。(中略)新約聖書に従えば、歴史の中心的意味を担うのは ー帝国や国家ではなくー 教会である。(中略)聖書的概念として、教会はポリス、即ち政治的存在であることを私たちは理解しておく必要がある。(中略)教会は、社会に対して証する社会的存在であるからだ。
     このような事柄が注目されることはまれである。教会それ自体で社会的現実である、というヨーダーの主張を軽く扱ってはならない。忠実な弟子としてのあり方を通して、教会は現実社会の中で愛がどのようなものかを示すとヨーダーは述べている。この福音に対する証が不十分であったとしても、悔い改め、信仰、聖霊の力によってその証は可能となる。教会が歴史の意味の確信を担うのだから、最も大切な政治的な目標は、現実の生活を通してキリストの到来を宣言する教会が存在すること ー忠実にイエス・キリストに服従することー となる。(p.158-159)
     このキリストの支配ということは、神の国理解と深くかかわる。多くの人は、神の国というと天国のこととか、将来の死後の世界を想定するかもしれないが、神の国とは、新約聖書を丁寧に読むならば、決して将来の天国のことではなく、この地で実現した現実の神のこの世への関与であり、キリストの愛した教会(キリスト者から形成される存在)に満ち満ちていることなのだ。教会という建物や聖堂は、物理的空間において、このキリストの愛した教会を収容する建物である。そこは、本質の一部を表すが、一部に過ぎないのではないか。だからと言って軽んじていいものではないが、あまりにそれを尊いものとすることは、一種の偶像崇拝に近いものがあるのではないか、とも思う。


    教会(エクレシア)は、建物ではないかも

     教会堂の建物よりも、人あるいはキリスト者の集合体としての「教会」を通して働かれる神が尊いものであり、聖なるものであるとおもうのだが、ちがうだろうか。そして、神が人間に対して示したもうた愛を示すキリストに従うものの集団としての方が、儀式の場、神の栄光が表れる建物としてよりも重要だと思うのだが違うかなぁ。

     そもそも、ナザレのイエスは、「人の子には枕するところもない」と自らを言い給いし方であるし、また、パウロにしても、シナゴーグや教会堂ばかりで礼拝していたわけではなく、町はずれの屋外で礼拝したり、他人の家の中で聖餐式を行っていたのではなかったのかなぁ、と思う。現在のような教会でばかり礼拝したり、聖餐を行っていたりしたわけではない。

     しかし、だからと言って、現在の教会堂や聖堂を聖なるとすることに異論があるわけではない。それは確かに聖なるものであるが、しかし、長老たちは天の国が完全に実現した時に、神から与えられたもうた冠を自ら投げ出すほど、将来の聖性は、現在の地上の聖性とは比較にならないほどのものではないか、と思う。

    二元論的な理解のおかしさ
     本連載の最後として、孫引きになるが、ヨーダーの発言をネイション論文から拾っておきたい。
     信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念から解放されなければならない。それは、世とのかかわり方倫理主義との関係を断ち切ることによってなされる。受肉は世とかかわることを示している。イエスご自身は、軍事的占領と地下組織の戦争という政治的な大混乱の中に生きた―ただし罪は犯さなかったが。世とのかかわり妥協と同じとみなすこと、そして罪が人間の本質的な要素であるとして、妥協と同定することは、キリスト論的には正統と言えないばかりでなく、実のある考えを生み出さない。そのような考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。(The Christian Witness to the State pp.57-58)(p.163)(下線はジョン・H・ヨーダーの神学では傍線)
     現在のキリスト教の多くの世界で、問題を考えるときに、「信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念」から現実を考えるのに慣れきってしまっていて、創造的に考えることができないのではないか。神が人に与え給うた創造性を十分発揮できていないキリスト者とかキリスト教会は多いのではないか。また、「そのような(世とのかかわりを妥協とみなすような)考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。」ということは、非常に重要な指摘をしていると思う。

    いのフェスで考えてみた

     先日参加したいのフェスについて、教会堂でアイドルが歌ったり、怪獣ショーが行われたりすることに憤慨する向きもおられたようであるが、それは、ある面、ヨーダーの言をかりれば、「戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになる」といえるのではないだろうか。あえて、人間が設定してきた規則ギリギリのところを乗り越え、普段教会に来ない人たち、そのことに触れないままその生を終えるかもしれない人たちにも、キリストの存在と愛があの日の早稲田奉仕園では示されたとは考えられないだろうか。あなた方にも、そして、このふがいないミーちゃんはーちゃんにも、キリストはその愛を豊かに示されたのと同様に、あの日バンパイアをスコットホールで自称した少女にも、「戻って来い、我が子よ」と我らに言い給うイエスの存在が示されたとは考え得ないだろうか。まぁ、十字架の前でも消えなかったので、バンパイアであることは彼女が生きようとしている物語、または、彼女が演じることを求められていると考えている物語のキャラクター設定であることがよくわかるが。

     罪とは、恐らく人間が拵え、「絶対的だと考えている規則に違反すること」ではなく、「神の生における不在である」ことを考えるとき、そのことの解決策として、ナザレのイエスが「戻って来い、我が子よ」述べたもうたことが伝えられるのなら、それは一つのありようではないだろうか。

     バンパイアを自称する少女の理解のなさを責めるのもよいが、しかし、ふがいない我らも、あの少女とどの程度その理解に違いがあるのだろうか。ひょっとしたら、あまり違わないかもしれないことを思い出したい。

     そしてわれらが忘れてはならないのは、イエスが公生涯を始められるにあたって、高らかに宣言された際の次の聖書の言葉であろう。
     この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ 4:17 口語訳聖書)
     この宣言は、「終末である天国行きが近いから、悔い改めが必要」なのではなくて、「天国、すなわち、神の支配が満ちている天の支配が、天の支配の側から我らに近づき給うが故に、すなわち、我らがそこに招かれているがゆえに、我らは、神の御座に近づくという本来的な悔い改めをする必要がある」と理解できるのではないか。悔い改めとは、自分の過去を反省したり、自己の不甲斐なさを認めるといったようなmそんな薄っぺらいものではないはずではないか、我らが神の前に立ち戻ることこそ、聖書の言う悔い改め(すなわち、天、即ち、神の御座への立ち返り)なのではないだろうか。教会という建物への集いではなく、天の御座の前への立ち返りをすべての人に求めておられるのが、神なのではないかなぁ。

     アイドルが聖堂で歌うのがけしからんというなら、ウィ●アム・フ▼ンク●ン・グ▼ハムが甲子園で、大人数集めて決起集会もどきをするなど、それこそ、高校球児や熱烈な阪神ファンにとって神聖なる甲子園に対する冒涜というそしりを受けなければならないかもしれない。個人的に野球はどうでもいい話の一つであるし、グラハム一族はミーちゃんはーちゃんにとって完全に賞味期限切れなので、いずれにせよ、どうでもいい話であるが。

    勝利主義時代の伝道の誤り

     最後に、ミーちゃんはーちゃんの大嫌いな「勝利主義の信仰」について(世間的な勝利主義者であることを求める人々はかなわないと思うけれども、愛してはいる。しかし、イエスの教えを、聖書の理解を勝利主義で塗りつぶす行為は、聖書の主張からはずれていると思う)、ヨーダー先生の表現を引用して終わりたい。あいかわらずヨーダー先生手厳しい。
     勝利主義の時代の間違いは、イエスとのつながりを捨てたことではなく、自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定したことにあったといえよう。(中略)その誤りは、この世にキリスト教を伝えたことにあったのではなく、伝えた内容が十分にキリストを証ししていなかったことになる。キリスト教世界が熱意と信用を喪失してしまったことの対処は、イエスについてより少なく、宗教について多く語ることではない。むしろ、その逆である。(The Disavowal of Constantine, in The Royal Priesthood, p.257.)(p.181)
     ヨーダー先生いわく、勝利主義の問題は、「自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定した」とまで言っておられる。これはその通りだと思う。神がついている自らには力があり、隣人に神から与えたもうたもの(発展途上国の自然や資源、農産物など)を奪い去ることも神の計画だ、と聖書の主張を誤って読み込んでしまっているのだ。イエスは旧約聖書の2大概念を整理されて話された時、(マタ  22:37)『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』(口語訳聖書)といわれ、それと同時に、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』とも仰せられた方なのではないかと思う。

     その意味で、ミーちゃんはーちゃん自身、伝えようとしている内容が「十分にキリストを証ししていなかったこと」がなかったかどうか、「十分にキリストを証しするよう」に語っているか、生きているかは自ら問われなければいけないとは思っている。そして、教会の中心であるナザレのイエスが、何を語ったのか、をきちんと聖書の中から、パウロも旧約聖書の中から当時のギリシア人、ローマ人にイエスが神であることを語ったように、ミーちゃんはーちゃんもまた、今おかれた場所で、今あるメディアでナザレのイエスが神であることを伝えていきたい、とこの部分を読みながら思った。

     以上で、この長期連載を終わりたい。お付き合いいただいた皆様に、こころから御礼を申し上げる。長くて、だらだらしていて、スマソ。



    評価:
    価格: ¥3,024
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:高いけどいいよ。ヨーダーと共に読むことをお勧めする。訳文もよい。

    評価:
    ポール マーシャル
    いのちのことば社
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    コメント:絶賛である。神の国に生きるとはどのようなことかを示す名著。

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