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2014.09.22 Monday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7)

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      前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会とのかかわりと、結論として、日本の教会としてどうヨーダーと向き合っていくのかという藤原論文の視点を紹介した。

    なお、これまでの過去6回の連載記事は、以下の通り。
     
    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)


     今日は、第4章矢口論文「J・H・ヨーダーの平和神学、平和倫理」から紹介しながらいつもの如く、たらたらと考えてみたい。

    平和主義はキリスト教で一般的ではない?

     ジョン・ハワード・ヨーダーは平和主義の立場に立つ神学者として知られている。そのこと自体がヨーダーをユニークな存在とする。なぜならば、平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではないからである。(pp.109-110)

     一瞬、「平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではない」という部分を見たとき、「・・・・」となってしまった。確かに、キリスト教は、これまで、神学論争を繰り返してきたし、キリスト教の一部に、黒い革表紙のHoly Bibleって書いてある本の一部の記載を先頭マニュアルもどきに使う人もいるし、ネット業界では「戦闘民族説」まである。それだけ、弁証論というのか、自己の聖書理解の発展を追求する先鋭化が進んできたことは間違いない。

    正義の戦争はあるか?
     2002年にアメリカにいたときは、2001年にニューヨークに民間航空機を使って、テロが行われたいわゆる911事件があったために、アメリカ国内がWar on Terrorという見方一色に包まれて、あれ、アメリカ人の皆さんも「超ご機嫌ななめ状態?」なのか「集団ヒステリー状態?」になっていた。もう、「ウサマ・ビン・ラディンをぶっ潰せ」モードになっていたのが、いつの間にか「打倒フセイン」モードになってしまって、「大量破壊兵器を持つ国はぶっ潰せ」モードになっていたけど、そういうんだったら、まず、アメリカ合衆国とロシアをまず破壊しないといけないんじゃないか、と素直に思ったものであった。ただし、そんなこと言ったら、強制送還されかねない雰囲気があった。これに関して、矢口論文では、次のようにご指摘である。

     「正義の戦争」は聖書的裏付けをもたない。イエス・キリストのことばとは無関係である。一般にはキケロなどにだ表されるローマの政治哲学がそのルーツとされる。現在のパレスティナ地方で帯同したキリスト教は、1世紀のローマ帝国の中で展開し、その過程でギリシア・ローマの言語、思想、文化、風種と接触し、ある時はそれを拒絶し、またある時はそれを受容し、さらにはいろいろなものを融合していった。(中略)キリスト教内部で、「正義の戦争」が大きな批判にさらされることなく継承されてきたことは注目に値する。キリストの中心性を固持する伝統においても、戦争の問題だけは見逃される傾向が認められる。戦争を問題視してきたのは、キリスト教内の少数派なのである。(pp.111-112)
     下記リンクで紹介するPreston SprinkleさんのFightでも指摘されていたことだが、戦闘するのは、「神の義の実現として当然だ」とされすぎていて、「戦争をするのは当然だ」、「国家の権能として戦争をするのは妥当だ」と言われてきて、「正義の戦争」はキリスト教の世界の中で当たり前のものとされてきたらしい。残念な傾向である。それは、普通の世間の人が持つ、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を一枚めくると『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』が待っていて、このあたりどう処理していいのかわからなくて、日本の多く人々が突然怒り出したり、突然、神の名を口にし、決死の形相で伝道するキリスト教徒に当惑することも少なくないのだろう。

    「羊」の皮で偽装した「虎」?
     キリスト教のかなりの部分では、確かに、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を被った『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』がいないわけではない。特にこの傾向はアメリカのキリスト教界の中でかなり強いような気もする。

     ところが、キリスト教における平和主義を主張する、ジョン・H・ヨーダーさんが、実は、そもそもその少数派の中のアナバプティスト派のメノナイト・ブラザレンのご出身だったものなので、今一つアメリカ社会の中でもメジャーでない雰囲気はある。まぁ、少数派で変わっていて、かなり閉鎖的な社会をつくるアーミッシュとも関連が深い、メノナイト・ブラザレンの代表的神学者であるヨーダーさんは、メノナイトの出身だというので、自動的にセクト的(分派的・分離派的)というラベルが貼られてきたような気がする。

    キリスト者としてカトリックに求められる
    平和を生み出す民として生きる
     そういうこともあって、彼が言ったこともほとんどのキリスト教徒や神学者からは、わしらと直接関係ないし、と思われてたし言われたらしい。残念な傾向である。しかしである、

     ヨーダーは自分の立場がカトリックであることを主張する。この場合の「カトリック」はローマ・カトリックのことではない。ラテン語の原義にある「普遍的」という意味である。(中略)イエスを、メシアと認めるすべての信者の耳に響かなければならない内容だと主張する。(中略)ヨーダーは一歩踏み込んで、平和を生きることが、ディサイプルシップが、すべてのキリストを信じる者にとって「規範」なのだという。それは信仰の核心部分にかかわる、と。(p.114)
    ということらしい。本来的に、キリストの弟子であることは、普遍的に平和的であることをもめられ、神の国の支配を表す、そして平和を作り出すことになるのではないか、というのがヨーダー先生のご主張のようである。まぁ、これはそうなのだろうと思う。だって、山上の説教の中で、イエスはこう言っておられる。

    マタイ福音書
     5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
    と書かれているのである。我らが神の子であるならば、平和を作り出すものであるはずであるし、もし、我らが平和を作り出すものであるとするならば、神から「我が子らよ」と呼ばれるのではないか、というのが、イエスのご主張なのではないか、というのがジョン・H・ヨーダー先生のご主張らしい。その意味で、神に造られしものである他者を尊重するものとして、神に造られし我らが生きるべきではないか、共に生きる在留異邦人を軽んじてはならない、と仰せになった旧約の神を我らがどう考えるのか、を問うておられるようである。

     次回へと続く
    評価:
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    コメント:アメリカの福音派の海兵隊出身の若手の神学者のPreston Sprinkleの書いたキリスト教徒戦闘をどう考えるか、の本。

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