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2014.09.10 Wednesday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6)

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      前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会との位置関係というか距離の取り方、世界とどうかかわっていくのかを考える際のキリスト者の視座のお話をしてきた。

     これまでの過去5回の連載記事は、以下の通り。


    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)



     で、今日は、藤原論文での、「教会による社会の改革」、「ヨーダーの問題点」と「結論」と題された部分から引用しながらミーちゃんはーちゃんがいつものようにたらたらと考えたことを述べていこう。

    「教会による社会の改革」から
     まず、藤原論文の「教会による社会の改革」の部分から見ていこう。

     ヨーダーの主張は以下の2つにまとめられるであろう。(1)世に対するコントラスト・モデルになること、そして(2)パイオニアリング・コミュニティティとして世に具体的な代案を提供することである。
     教会が世におけるコントラスト・モデルとして、神の基準を示す。それによってよの罪がより明らかにされる。神の基準は、世がそのうちに持ち合わせていないものであり、キリストの体なる教会によって示される必要がある。
     そして教会は、パイオニアリング・コミュニティとして、世における神の意志を率先して提示し実現していくという。さらに教会は、世が自らに適用することのできる代案を提案する。実は、ヨーダーはここにおいて世と教会の継続性を前提としており、キリスト教信仰へと改心することなく世が改善される可能性を前提としている。スタンリー・ハワーワスが、教会と世との断絶を強調するのに対し、ヨーダーはその継続性を彼よりも強く見ており、世が教会から学ぶことができると考えている。 (p.96)

     この議論から示されるように、教会は世の中にありながら、神はこのように考えておられると、神の基準がどのあたりにあるか、を指し示すことにその意義があるとしているようである。この点、キリスト教倫理学者のハワーワスとは違うと指摘しておられる。そのあたりのことを知りたい向きには、大学という組織と教会という視点が極めて強い本であるが、下記リンクで紹介した「大学のあり方」をご清覧願いたい。

     「神の基準に従え」と世間の人々に言い、それを強要しないまでも、それをキリスト教社会においても、非キリスト教社会においても、神との関係において、聖書からは自分はこう考えているということで示すという役割があるのではないか、とジョン・ヨーダーは言っているらしい。しかし、このように表現すると、すぐ、過去のこれまでの日本社会におけるキリスト教が持ってきた、一種の暑苦しさ、つまり、

     「教会が偉くて、世と表現されている世間の人々はそれに追随すべきものである」

    という教室モデルをすぐお考えの向きもあろうか、とは思うが、ヨーダーはそういう存在として教会を考えておらず、もっと、多様な考えのある人々の中で、多様な考えの一つとして教会が考える価値、その価値の源泉は、ナザレのイエス、すなわちキリストにしかない、という価値を指し示すものだ、とヨーダーは言っているように思われる。それは、これまで、ヨーダーの価値の源泉におけるキリストの中心性との関連でお締めしたとおりである。

    社会におけるパイオニアリングコミュニティとして
     
     その教室モデルが当てはまらないことは、この世界におけるパイオニアリングコミュニティとしての教会というところにも表れており、本来、キリスト教は、よりメタ思考に近い指向性を持つことができるため、既存の枠組みを超えたところからの問題意識をもち、社会おける問題、あるいは不具合の指摘ができるはずであるし、過去そうしてきた。そして、それが社会を変革に導くし、だからこそ社会の中にある意味があるのだ、という理解がヨーダーにはあるようである。

    花子とアンも関係するよ

     例えば、イギリスの奴隷貿易の停止、アメリカでの奴隷制度の廃止問題、1960年代的公民権運動は、既存の社会の規範や規則、法律自体を問題視して、それを積極的に説いていった部分があるがゆえに、結果として社会が変わったし、日本では、花子とアンの主人公の村岡花子は婦人矯風会(要するに廃娼運動 今で言えば、性奴隷としての「花魁」、「芸者」、「舞妓」などとしての女性を巡る社会制度や社会のビジネスとしてのHuman Traffickingの廃止)と関係していたらしい。なお、同時期の女性へのDV抑止の観点から社会問題として焦点化した禁酒法は、個人的には、その精神は正しいものの、方法論として完全に失敗であったと思う。

     ところで、社会改革と教会のかかわり方について、藤原論文では次のように指摘している。

     ヨーダーの考える教会は、修道院のように世から隠遁するものではない。彼は、クムラン的隠遁主義、パリサイ派的分離主義、サドカイ的現実主義、熱心党的暴力革命というイエスの時代の4つの選択肢を示しそれらをすべて否定する。そしてイエスの世に対する創造的なかかわりを教会のあり方として「オリジナル・レボリューション」と呼ぶ。それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。
     ここで創造的にということに触れたいのであるが、ヨーダーの非暴力は受動的に虐げられることを待つ無力な態度を意味していない。(中略)ヨーダーの平和主義は、積極的かつ創造的な平和づくりと言う表現のほうが適切であると思う。(p.95)

     キリスト教倫理学のハワーワス(最近出た「大学のあり方」(下記リンク参照)という本は、ハワーワスの考え方がよくわかるので、お勧めする)が世間と断絶的な立場、つまり修道院的なうちに向かって極めていくような倫理的先鋭化を目指す立場をしゅちょうしているようであるが、ヨーダーはそれではまずいのではないか、ということがヨーダーの思想の中にあるようである。なお、西洋とアメリカの一部の大学はその出発点は、学問司祭養成所であった修道院に根拠を置いていることを一言触れておく。

     ヨーダーは、この地に神からおかれた存在として、この地の中で生活しながら、イエスの生き方に倣うものとして普通に生きていく中で、世の中に神の思いの神と人との平和の結果もたらされる、地における平和をもたらしていくべき存在として、教会があるのである、とご指摘のようだる。その意味で、要するに世間の中に教会があってこそ意味があるということをご主張になられたようである。

    過去の日本社会とキリスト教

     藤原論文であげてある、イエス時代の社会改革運動を

    クムラン的隠遁主義
     (修道院的存在理解)
    パリサイ派的分離主義
     (自分たちを一段と高い教師とする存在理解)
    サドカイ的現実主義
     (戦前のキリスト教界のように国体を尊敬し、国家の忠実なしもべとしての存在理解)
    熱心党的暴力革命
     
    (学生運動的な社会破壊者としての存在理解)

    に分類しているが、日本の過去の教会の動きで割と当てはまるものがあるので、面白かった。改行したあとの()内はミーちゃんはーちゃんによる。なお、ミーちゃんはーちゃんのところのキリスト者集団は、クムラン的隠遁主義と、パリサイ派的分離主義があいまったところの立場の方が意外と多いような気がする。雰囲気で言うと、申命記28:56の

    あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない

    という雰囲気の方が多いような気がする。ミーちゃんはーちゃんは、下品で、乱暴であるため、足の裏で地面を踏みまくり、ではあるけれども。

     キリスト教界の中には、社会と私たちは無関係、選挙での投票行動などは論外、とかいう方もおられる。そして、社会の方々を教えようとか、社会の方々に向かって、自らを教師のような役割として任じ、「聖書こそ真理であるぞよ」というノリで聖書そのものではなく、ご自身の聖書理解を振り回す方もおられる。個人的には、「かなわんなぁ」とは思うけれども。

    世界をケアするものとしてのキリスト者の生き方

     しかし、アダムの末として、この世界を支配するものではなく、この世界をケアするものとしての存在として、我々がつくられていることを考えるとき、藤原論文の表現を借りれば、

    それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。

    ということになろう。特に、創造的に余とかかわる生き方については、下記リンクでも紹介する「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」が非常に参考になる(この本は絶賛推奨中である。絶版本でrけれども)。ところで、この本、現在では入手困難であるが、この9月23日、早稲田奉仕園で行われるいのフェス(このリンクをクリック)で「福音の再発見」とともに、特別に提供する。ご所望の方はお早めに。特に、「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」は、お若い方、ユースのリーダーの方にお勧めしたい名著である。

     なぜ、キリスト者は、非暴力的に世間と創造的にかかわることができるか、といえば、おそらく、ヨーダーからすれば、キリスト者は、本来終末に完成される神の国(神の支配)の生き方を不完全な形としてこの地上で現在先取りしており、神の国の民、すなわち、神の支配に服する民として生きるように教会は召されていると主張しておられるようである。つまり、未だ完全な形としての神の国は実現していないが、すでに、不完全な形として実現している神の国の姿を持つものとして、生きるようにキリスト者は召されているのではないか、ということがヨーダーさんの言いたいことのようである。

    「ヨーダーの問題点」から

     藤原論文では、ヨーダーの問題点として、いくつか示されている。それは、ヨーダーの聖書理解が、聖書理解として、啓示それ自体とその重要性を指摘している点であり、それを強調することで、啓示文書としての聖書の聖典を読み込んでいくことになる解釈者と神の啓示そのものをどのように区別、峻別するのか、という点での論点整理が不十分であったり、戦争理解を中心とした共通理解が幅広いキリスト教界の中で生まれにくいこと(これは、イラク戦争時にアメリカ滞在中に強く体験した)、そして、人類に間接的に啓示されているもの(たとえば、自然とか、非キリスト者社会における法と秩序とか)が存在することへの対応が弱い、といった、聖書聖典を極めて重視するファンダメンタリスト的な理解の問題があることも指摘されていた。

     さらに、現代社会に教会がおかれている意味の指摘はするものの、では、教会がどのように現実社会と連携をとっていくのか、といった現実世界とのリンクの弱さなどが同論文では、指摘されていた。詳細はオリジナルにお当たりいただきたい。

    「結論」から ヨーダーの平和主義
     長くなったが、藤原論文からの紹介は、あともうちょっと。お付き合いいただきたく。

     ヨーダーの平和主義には、自らの血を流してでも平和を実現するという覚悟が必要とされるであろう。ヨーダーの平和主義は殉教を常に視野に入れている。(中略)しかし我々の教会が困難な時代に「逃げた」ことを覚えていなければならない。ヨーダーの平和主義が日本に与える一つの有益な影響は、平和の代償を思い起こさせるということである。(pp.100-101)

     日本のキリスト者の平和運動では、15年戦争の前の時代、そして15年戦争期のキリスト教界のあり方への反省、同じ国家全体主義を持ったナチズムへの対応を図ったという意味で、バルメン宣言や、ボンフェファ的な何かへの評価が現在の日本のキリスト者の中でも非常に高い。そして、キリスト者の平和運動、平和への希求ということがなされようとし、血を流してまで創造的に抵抗しようとし、最後には、熱心党的暴力革命により、ヒトラー暗殺計画に加担し、平和への代償を自らのいのちをもって支払ったボンフェファ先生の評価がやたらと高いのであるが、また、日本でも、ホーリネス運動関係者や、キリスト集会と呼ばれるキリスト者の集団でも、殉教者や投獄された信徒は存在するが、賀川豊彦先生を含め、「信徒を守るため」という側面はあるので、単純に批判できないにせよ、キリスト者社会のかなりの部分は、藤原論文の表現を借りれば、確かに

     我々の教会が困難な時代に「逃げた」

    のであり、そのことのキリスト教にかかわる何かは、十分な反省をしていないのではないだろうか。もちろん、不十分な形とはいえ、日本キリスト教団は宣言を出しておられるし、個々の教団派宣言を出しているかもしれない。それを体系的、網羅的にまとめ、15年戦争前から姿を変え、形を返しながらも継続して存在する教団が、それぞれ、戦争終結時、その後において、それに対してどのような措置をして、けりをつけたのか、という研究の存在をミーちゃんはーちゃんは寡聞にして、知らない。そこも、平和の希求を研究する際には重要なのではないだろうかと思う。

     藤原論文を読みながら、ヨーダーがいいなぁ、と思ったのは、以下の表現である。

     ヨーダーは、(中略)その故に新約聖書に示され実現しつつある神の国のヴィジョンを終末的理想(イデア)として遠くに眺めてあきらめてしまう倫理に異を唱える。あれは終末的理想であるとしてイエスの教えと生き方から、あまりにも簡単に目をそらし、受肉から十字架へと飛んでしまう神学に異を唱える。ヨーダーの倫理を一言で言い表すなら、「イエスはあなたにとって主なのか」という問いである。(p.101 太字は引用者による)
     つまり、キリスト者が生きるときの倫理として、キリストの弟子として、あるいは、キリストに従うものとしていきているのか、を問われた感じがする。あなたは、お題目のように聖書に記載された内容から導かれる表面的行動のみに従っているのか、ということを問われた感じがした。イエスの行動とそれを支えた行動原理、ごく端的に言ってしまえば、以下のイエスの言葉に集約されるものはあなたにとってどういう意味を持つのか、ということをこの論文を読む中で、ヨーダーから問われた気がする。

    「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
     心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
     次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 
         (新改訳聖書第3版 マルコ12章から)

    上記のイエスの発言を日常生活の中で、日々生きる中で、どのように考えるのか、ということをすべての信徒に問うているのではないか、とヨーダーは指摘しているようである。

     イエスの公生涯とそれにならうことをすっ飛ばしたキリスト教にしてしまい、神の国に自らの席というか、あたかも、花見の時やプロ野球の外野席の場所取りのように神の国における場を確保するためだけに必死になり、そのための手段として十字架を機械的に利用しようとするキリスト者への強烈な批判として「イエスはあなたにとって主なのか」を問うところが重要なのであり、それを完全な形では個人の弱さのゆえに貫徹しかねるとはいえども、それを求めて判断することを、我々が考えるべきでないかと指摘するヨーダーの問いかけは重要なものであると、ミーちゃんはーちゃんは考えている。

     ということで、藤原論文紹介とそれでたらたら思ったことは終わり。お付き合いいただき、こころから監査h。次回は、Nobu牧師のチャレンジにお応えしたものの第1回乗せ、そのあと、次々回からは、第4章谷口論文を述べる。

    (ちょっと修正加筆しました。後出しじゃんけんでスマソ)



    評価:
    価格: ¥3,780
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:大学と教会、大学と社会を考えるための手がかりを与えてくれる本であり、アメリカの大学がどのような出自を持つかがよくわかる名著。

    評価:
    ポール マーシャル
    ---
    コメント:ノンコンフォーミストとして、イエスのオリジナルレボルーションに連なるものとしてキリスト者としての生き方を説いた本。

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