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2014.09.08 Monday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5)

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     今日はヨーダーに戻って考えていきたい。個人的には、大事なネタだと思うのだが、あまり受けがよくないので、うーん、なんなんだろう、と思いながら、それでも書いておこう。かいておくことに意味もあると思うから。

     これまでの投稿記事は、こちらからどうぞ。
     
    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

     これまでの記事で、だんだんメタ思考とは関係なくなってきたんだけど、そのうち出ますから。この記事でも出ます。今回もまだ3章の藤原論文の紹介とコメント中。ダラダラしてスマソ。

    預言者的存在としての内村鑑三とヨーダー

     そのうえで、ヨーダーを日本の読者が読むための補助線として、内村鑑三を例にとり、コンスタンティヌス的キリスト教との対立について、次のようにお書きである。

     内村(鑑三)の一人一教会主義というのは明らかに行き過ぎであるが、彼の預言者的視点は、ヨーダーの主張を理解するうえで役に立つであろう。そしてその預言者的思想には、不可避的に独立と苦難が含まれることになる。預言者は荒野に立ち、罪を批判する声を上げる。そして、しばしば迫害に直面するのである。内村の中には、潮が引いて行くように教会から去っていく人々のキリスト教信仰とは異なる、魂を貫いている福音を認めることができる。(p.86 太字部引用者による)
    と絶賛しておられる。そうだろうとは思う。ある面で言うと、会衆に面と向かって、そして、社会に向かって、言いやすいこと、受け入れやすいことを言うだけが、牧師の役割ではないし、社会に対して、異議申し立てを具体的にしなくても、神の民として疑義を持つ、異議を持つことは、ある面でキリスト者の役割だろうとは思う。というのは、ウエメセではなくても、社会と共有できかねる部分があるからである。「ウザい」と思われるほど、社会に対して疑義や異議を申し上げていくのがよいか、というと、かどうかは別として、社会と対抗的な立場をとらざるを得ない場面が出てくる。それは、キリスト教が幅を占めるアメリカ社会においても、そういう場面が出てくる。それがアメリカのキリスト教界がそうしているかどうかは、かなり疑問であるが。キリスト者が持つ預言者的性格に関して、下記のブルッゲマンの本もよいと思う。
     厳しい環境に置かれて、信仰が保てるかどうかは、個人的に自信はないし、そして教会からそっと離れていく人々を批判する気はないが、しかし、キリストへの信仰とは、そして、神への信仰とは、エペソ4章6節にあるように

      すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(口語訳)
    という視点に思いを巡らせたい。ある面で、キリスト者は、イエスの弟子でもあるということを忘れてはならないのだろうと思う。

    キリスト者倫理とピューリタン

     キリスト者と社会のかかわりとして、どのようにあるべきかということに対してのヨーダーの考えを藤原先生は、次のように指摘しておられる。
     ヨーダーは、キリスト教倫理のあり方としてこの両者(引用者 注 祭司的チャプレン 権力を祝福する祭司として、権力を肯定するあり方・ピューリタン・チャプレン 社会に目に見える外面的な高い基準を押しつけ、保てないものや保ちたくない人は押しつぶされるかその社会から追い出されるあり方)を否定する。(p.87)
     キリスト者は高潔であり、倫理的に生きる存在であるという理解が日本社会に定着しており、その面で、これまで高い評価を社会一般から受けるとともに、キリスト者が社会から敬遠され、煙たがれる存在ともなってきた原因の一つであったと思う。そして、キリスト者の主張することには、関心がないわけではないのだが、その世界に一歩足を踏み込むことでその倫理、行動パターンへの制限が増加することを恐れて、信仰の世界に足を踏み込むことをためらう人々も極めて多いと思う。特に、この傾向は、明治期の北アメリカ経由で入ってきたキリスト教に関して、非常に大きいと思う。

     ヨーダーが倫理として主張するのは、外面的なものではなく、あくまで神との関係であることについて、藤原論文では、ヨーダーの文章を引用しながら教会と倫理、社会と教会の関係に関して、次のように指摘している。

     「私(ヨーダー)は、マジョリティー・エスタブリッシュメントが教会としてほとんどの役割を果たした後、マイノリティの視座からいかなる補足的役割が必要かと問うものではない。むしろ私は、教会が(実際に)マイノリティーとしての位置にある世において、教会がいかにあるべく召されているかを問うのである。」(引用者補足 Priestly Kingdomからの引用)教会には、H・リチャード・ニーバーが言うように、「世に関する神に対する責任」(responsibility to God for society)があるのは当然である。しかしそれは「神の事柄に関して世に対する責任」(responsibility to society for God)ではない。この両者の違いは大変大きい。前者が神への忠誠と応答として社会にかかわるのに対し、後者は国家への忠誠と教会の存在意義の承認のために宗教的な事柄を担うのである。教会が、世の中心に立とうとするとき、その福音の独自性を失うことをヨーダーは正しく指摘している。(p.88)
     この部分を読みながら、世に関する神に対する責任とは、ミーちゃんはーちゃんが思うに創世記1章28節における神から与えられた使命、

    神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
    と深くかかわるのだろうと思う。この部分を「人間がこの地球を煮て食おうが焼いて食おうが問題ない」と誤読し、「この地を使い捨てるような、ゴミ箱にするような使い方ができる」という根拠として使っている人々もおられるとは思うが、それは違うのであり、神に対するこの世界Kosmosに対する責任を放棄している立場であろうとは思う。天国に行くだけがキリスト者の生の目的ではないと思うのだ。むしろ、できることは限られていようと、神に対するものとして、神の権威を認めるものとして、神が造り給いしこの世界に対しての責任ある生き方をしていくことは重要なのだろうと思う。その責任ある生きているかと言われれば、非常に不安を覚えざるを得ない。しかし、その方向に向かっていきたいとは思う。

     ヨーダーのキリスト者のあるべき姿とか何かに関して、藤原論文では次のようにまとめておられる。

    ヨーダーの一貫した主張は、まさにイエスが主であり、我々の倫理の最終的権威をもっておられ、最後の決定権はそれ以外のどこにもない、ということに尽きる。(太字は、引用者による。中略)ヨーダーにとってイエスの権威が問題の核心であるといえる。(p.89)
    この部分は、すべてのキリスト者にとって異論のないところではないだろうか。それを我々の勝手な思いや、勝手な考えを倫理として、他者にこうあるべきだ、として我々が倫理の決定権を握っていないだろうか。さらに、その自分たちが勝手に定めた倫理を、こうあるべきだ、と人に押し付けたりはしてないだろうか。そして、人々がご自身に近づくことを求めておられる神を人々から遠ざけているとしたら、ろくでもないことをして化しているかもしれない、と反省することは重要ではないか、と思う。

    「ヨーダーの教会論」の部分から
    日本社会と日本の教会を考えてみた

     藤原論文では、日本の近代のキリスト教史(中でも黒歴史部分)に触れながら、次のように述べておられる。
     
    ヨーダーは「社会に対してより肯定的態度をとることによって社会を修正することを求める人々」に対して「『積極的態度』によって彼らが独立した足場を捨て去るときに、現実は修正を行うことができない」という。そして教会の他者性を主張している。これは日本に関して言うなら、日本文化をより肯定的にとらえ、日本の文脈にあった日本的なキリスト教を求めるような試みである。祭司的に社会にかかわり、社会を受け入れ、承認していくときに、実際には変革の可能性をつくり出すよりも現状維持を強化することになるからである。単に日本文化を否定する必要は全くないが、教会が他者性を十分に持つことなく文化をむしろ受容的にとらえていくとき、文化を選択的に批判的にみていく目が甘くなるのである。戦時中に日本のための「とりなし」を強調した日本の教会にもこのような姿を見ることができるであろう。(太字部分は引用者による pp.92-93)
     日本の教会群の中には、日本人からなるキリスト教界であるから、日本人に伝道できるように、日本の文化を受容的に受けて止めていくべきだし、そのことを積極的に肯定すべきだとお話になる向きもキリスト教界の中にあるが、ミーちゃんはーちゃんがそのような考えに違和感を抱くのは、まさにそうすることで、本来のキリスト教としての立場が甘くなるし、言うべきことが言えなくなる部分にあるのだ。現地化ということは必要であることはミーちゃんはーちゃんも認める。それは重要であるとは思うのだが、そこで譲ってはならない、核とは何か、ということを、現実に即して考え続けることが必要なのだろうと思う。

     特に、15年戦争期に、宗教団体法に悪乗りし、まさに、国家にとっての承認を受けたことに欣喜雀躍し、国家にとっての祭司的役割を担い、八紘一宇という概念を祝福するというのはどうかと思う。その反省はすべきだろうと思うが、まだ、この時代を生きた人々がいるということから、そのことへの反省というのか、哲学的反省が十分ではないのではないか、というある神学生のツィートを見かけたが、特に、包括組織を構成していない、戦前からある日本の福音派の場合、この部分の反省は十分なのだろうか、ということを思わざるを得ない。一部にその反省をする動きがないわけではないが、福音派とラベルが貼られたキリスト教界全体でのそのことへの反省が浸透しているかどうかについては、かなり怪しいと思う。

     しかし、この部分などを読みながら思ったことは、

     極楽浄土でハスの葉に半跏思惟像で座るイエス様のイメージを持つキリスト者、
     「父母を敬え」を儒教的日本文化に即して年長者を尊敬すべきだ風に解釈するキリスト者、
     天皇家をメシアが出る家系とするようなキリスト者、
     日ユ同祖論に走るキリスト者

    の皆様(これらすべてははリアルにお出会いしたことのあるご自身をキリスト者とする方々である)なんか、完全に「文化を選択的に批判的にみていく目」が甘いのではないかと思うのだね。まぁ、そう思うミーちゃんはーちゃんの聖書理解がおかしいだけなのだろうと思う。

     ところで、ミーちゃんはーちゃんが思うに、文化を選択的に批判的にみていく目というか、他者性をもって文化を見て、問いを立てるってのが、メタ思考だと思うし、キリスト者が社会に生きる中で、その社会の中におかれる一部を形成するものとして、あくまで他者性を持つこと、預言者的役割のだとおもう。つまり、そばにいながらも、あるいは同じ地点かその周辺の地点に立ちながらも、他者性をもって、自分という存在、自分を取り巻く社会という存在、自分が属する教会を、フルぼっこにしたり罵詈雑言大会にするのではなく、愛情と問題意識をもって、見つめなおすという作業がメタ思考だと思うのだけど。

     批判と言うと、日本では、1950年代左翼運動、その後の革マルだの中革派だの批判哲学に基づかない一種の暴力革命主義がはびこったので、罵詈雑言大会をすることが批判だという認識が広くいきわたっている(典型的には、某テレビ局の朝まで生何とか)が、批判哲学の系譜では、そういうのは批判や哲学的反省とは言わないような気がするのだが、違うかなぁ。

     また、長い投稿となったので、このへんで。次回は、まだ、藤原論文を引用しながら、教会による社会の変革を考えてみたい。



    評価:
    価格: ¥3,024
    ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
    コメント:預言者の性格を考える際には、最適の一冊。是非お読みになられることをお勧めする。

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