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2014.08.25 Monday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2)

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     前回の投稿では、ヨーダーさんのごくごく粗っぽっく紹介しながら、下記に表示されている本のご紹介をし、ヨーダーが教会をどう考えていたのか、そして、教会は現在もなお、神の物語を物語る存在であることをご紹介した。

     前回の記事は、こちらから。

      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

    では、今日の本題に入りましょう。今日は短め。
     
    教会におけるイエスの中心性を
    叫ぶヨーダー
     さらに、ジョン・H・ヨーダーの神学の第2章では、ヨーダーにとってのイエスの中心性について、次のように記載されている。
      さらに大切なことは、ヨーダーにとってこのことは単なる聖書解釈の問題なのではなく、生き方の問題なのだと言うことである。すなわち、もしある行動体がイエスを主と告白するならば、その生き方は主と告白した方への従順によって形成されなければならない。そしてこの従順な歩み方がテキストの意味を物語り、多様な表現の中での指針の統合や多様な人々からなる共同体のまとまりを可能にするイエスの中心性を指し示すのである。(p.47)

    とお書きになっておられる。とりわけ、『その生き方は主と告白した方への従順によって形成されなければならない。そしてこの従順な歩み方がテキストの意味を物語り、多様な表現の中での指針の統合や多様な人々からなる共同体のまとまりを可能にするイエスの中心性を指し示すのである。』の部分は、エペソ4章やガラテヤ所3章由来の解釈だと思う。
     4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
     4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
     4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
     4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
     4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
     4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
     4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
               (口語訳聖書エペソ人への手紙)

     カルト化した教会では、『一致』と言えば、『一つ』と言えば、皆が牧会者ないし、そのグループの代表的人物の聖書理解をマクドナルドの店員の『いらっしゃいませ。ご注文はどうされますか?』よろしく再現したりすることを指すらしいのだが、ヨーダーの面白さは、教会における一致を考える際に、多様な表現、多様な人々からなる異質なものが一つに集められた共同体という側面が強い点のような気がする。こういう思考って、大事なんじゃないかなぁ。

    非メタ思考とメタ思考
    そしてヨーダー

     メタ思考ができない人やそんなことをしたくない人は、楽なので、自分自身を多少ぎくしゃくしても、他人の「ものさし」に合わせるという形で自身の行動をマクドナルド化し、また、それが効率が良いと いうことで他者についてもマクドナルド化しようとする愚を犯す。しかし、「それでいいんかい」、「あんたたちメタ思考しなくていいのかい」、「それって、問題をとらえたことになっているのかい」とメタ思考をする人たちは、その人たちの過程そのものを疑う、結構本質を突いた議論を吹っかけてくる。こういう論法、多分多くの人にとっては、虚をつかれた感じになるので、虚をつかれたほうは慌てふため き、その自分の弱さやあわてている状態をさらけ出したくないために、虚勢を張ってみたり、相手を罵倒することで真実を隠そうとすることもあるとかないかなぁ。

    我らが置かれたこの時代と
    教会の関係

     さらに、本論文の最後で次のようなヨーダーの問題提起をしておられるが、これは、キリスト者全体にとって有益な指摘ではなかろうか。

     ヨーダーによれば、その様な考えかたが発生する状況は、教会が周辺社会を支配する政治・経済・思想に癒着して、ある種の暴力的構図が存在してきた事実(コンスタンティニアニズム)(引用者註 ローマ時代に国家と教会が一致して政治体制化したことに由来する教会を統治システム化しようとする動き)に 原因があるという。けれどもそれは、教会の信仰告白の内容やそれに対する誠実さに問題があるのではない。むしろ、教会が一方で普遍的領域を強引に想定して 周囲に押し付け、もう一方で「イエスは主」という信仰告白に不誠実であったことの結果であるという。(pp.61-62)

     うーん、参りました。ヨーダー先生。御説御尤!

     基本的にキリスト者が切り捨て者になりやすかったり、キリスト者が一般の人にとって、結構暑苦しい存在に映るのは、『教会が一方で普遍的領域を強引に想定して周囲に押し付け』という精神構造があるからだろうし、その押し付けようとするのものが、聖書やイエスの本来的な主張である「神を愛せ」そして「人を愛せ」ではなく、『「イエスは主」という信仰告白に不誠実』 であったために生み出された倫理的な生き方として、パターン化されたものに堕してしまったことを、信徒とか、来会者の皆様に求めているからなのかもしれない。その意味で、教会が『「イエスは主」という信仰告白に不誠実』であるがゆえに、ギリシア哲学に乗っ取られたのであろう。その意味で、その点の猛省を迫られたような気がする。ハイ。哲学的反省いたします。

     次回、3章の紹介へと続く。

     


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    コメント:手ごろで読みやすく、ざっとした理解をするには最適。重要なことが書いてあると思うよ。

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