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2014.07.30 Wednesday

上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1

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    上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 近代日本カトリック史 川村信三教授

     今回の講座では、戦国時代のキリシタンと、明治初年のころ以降のカトリック教会の二つの時代をある視点からつなげてみたい。

    大河ドラマのキリスト教考証者として
     川村先生は、大河ドラマのキリスト教の考証をしておられ、高山右近などが出るとき必ずチェックすることになっている。歴史の考察とキリスト教の考証をしておられるのだが、台本は、基本3回校正する。そして、リハーサルし、本番撮影となるが、キリスト教の専門家として、祈り方や、礼拝堂のセット、十字の切り方などをしている。桐谷美鈴が刑死するシーンを最初に撮影した、そして、その時に祈りの所作の指導をしている、とのことであった。

    キリシタンとしての黒田勘兵衛理解の
    お勧め図書

     今回の講座で、黒田官兵衛と明治時代のカトリックをつなぐことを試みてみたい。雑賀信行さんの「黒田官兵衛」と司馬遼太郎の「播磨灘物語」がよい。雑賀信行さんの「黒田官兵衛」はよく調査されて書かれた本であるが、調査対象が、ルイス・フロイスの翻訳などを底本にしている。このため、ルイス・フロイスの日本史に、30年前に洗礼を受けた。ところが、エボラ版で原文見ると、3年前となっており、誤った翻訳の引用から、問題が起きている可能性が高い。

    高山右近とコンフラリア・ミゼリコルディア

     高山右近とその父は、摂津高槻で、豊後のコンフラリア・ミゼリコルディアの葬儀をまねている。これに関する、フロイスの記載がある。それをサクラメンタとしてしており、サクラメンタの提要の中の埋葬の楽譜の歌であるミゼレーレがあり、詩篇51を元にした曲である。この讃美歌をうたうために、上智のグリークラブが参加した。

     ミゼリコルディアの記述に従い、幟、十字、棺桶に黒い布に白十字という葬儀の基本形を大河ドラマ内で実施した。 

    豊後大分でのコンフラリア・ミゼリコルディア
     豊後でのコンフラリア・ミゼリコルディアであるが、大友宗麟が支配していた豊後の国で宣教師たちが、司祭の帰国後も自分たちでできるように、様々なことを教えておいた。そして、ザビエル帰国後、豊後の国では、キリシタン共同体(コンフラリア・ミゼルコルディア)が継続的に複数存在した。

     現代に生きる我々は、ザビエル時代の宣教師が教会をたてたと考えやすいが、家の教会的なキリシタンの集団でしかない。この集団をどうまとめるか。ということが問題となる。

     宣教師トルレスは、集まった人たちと共に、病院(施療院)を開いているが、手当てをする医療所といった感じだろうか。バルタザル・ガーゴと、ルイス・デアルメイダが病院運営をはじめ、12人の医療者をおいた。これが教会の出発点になっている。

     その意味で、豊後大分が教会の出発点であり、ポルトガルのリスボンのコンフラリア・ミゼリコルディアの規則が適用されている。コンフラリア・ミゼルコルディアの規則は、葬儀をすること、運営資金としての献金、信徒の共同体の組織化が豊後大分でおきている。病院ということで内科・外科の診療とハンセン病の専用病棟を造った。とは言いながら、様々な皮膚病の病者を収容している。

    死者の埋葬とコンフラリア・ミゼリコルディア
     なかでも、死者の埋葬に力を入れている。普通の市民(庶民)が、葬儀に携わることは、日本社会ではありえない。庶民が貧者の埋葬はありえないことであった。遺体処理は、聖と呼ばれた特に貧しい人が携わってきたのを、庶民やお武家さまが参加するなどはありえないことであった。記録に残っている、豊後大分でのキリスト教式の葬儀1555年頃であり、約3000人の見物人が集まった。そもそも、葬式で歌を歌う習慣などがない日本において、歌を歌いながら、普通の庶民が葬儀を執り行う、これは何だという驚きがあった。
    https://www.youtube.com/watch?v=FWO412fuPXg


    ミゼレーレ
    病院運営とコンフラリア・ミゼリコルディア
     病院といっても治療ではなくて、ケアをした、保護した、ということだろう。その意味で、奈良朝の悲田院と同じな保護施設と考えるのが良いであろう。大分の場合、だいうす堂の隣の墓地があった。そこに遺体を安置した。その意味で領主の館の隣、領主の館の軒先でライ病人を保護したということは非常に大きな驚きを以てみられ、そして、それをまねるかのように、村々でも同じような趣旨の共同体ができていった。同じように高山右近親子が高槻で葬儀を実施している。

    コンフラリア・ミゼリコルディアの原型と聖書的根拠
     コンフラリア・ミゼリコルディアの組織形態は、宣教師退去後もキリシタンがキリシタンとして残り、隠れキリシタンの根になった。このコンフラリア(13世紀のヨーロッパの各地でのクラブサークル)は兄弟会(コンフラテリタス)の伝統に由来しており、それを構築している聖書記述はマタイ25章であり、「病の時に見舞い、飢えているときに食事を与え、渇くものに水を与え、牢獄にいるときに慰め、・・・これらはイエスにしたことだ」という部分が記述であり、困っている隣人に対する行為であった。カトリックは行動しないといけないという概念から、イタリアで始まったコンフラリアは13世紀に西ヨーロッパで流行することになる。
    その規定の中で、選挙するとか、聖職者は置かないとかいう規定があるが、この伝統がそのまま日本に入ってくる。日本で教会が始まったその日からその概念で、運営がされて行く。この影響を受けた類似のコンフラリアがブラジル、メキシコ、スペイン、ドイツにも見られる。
     1347年にペストが流行し、小教区がガタガタになったとき、コンフラリアが相互扶助する形で、教会を支えた。

    コンフラリア・ミゼリコルディア的活動と
    教会イメージへの影響
     コンフラリア・ミゼリコルディア(ミゼリコルヂィア)は宣教方法としては、効果的であったが教会全体としては、効果が薄いものともなりかねない。というのは、キリスト教会は、宣教地において、貧者と病人の宗教であるという印象を与えた。別の方法を考える必要に迫られた。
     カブラルの報告を見ていると、当時のキリスト教界に普通の人々が寄り付かないという記述があり、宣教方法として、弱者への宣教ではなく、社会の上層部への宣教により、地域全体をキリスト教への改宗を迫るという方法に切り替えていく。そのために、指導者層を改宗させるという伝道方針へ転換する。

    宣教方法としての有力者の改宗の影響
     ヨーロッパのキリスト教化においても、ガリア(フランス・ドイツ)では、貧者の世話をしつつ、重点はセレブというよりかは、地方の有力者の改宗を迫っている。大村純忠は、1551年にザビエルに遭い、改宗し、洗礼を受けたのは、1578ごろとされ、そして、その周辺領主たちも回収している。その意味で、有力者の周りに人を集め、伝道する方針に転換している。
     これに関しては、宣教師の間でも議論、質的拡大(正攻法の貧者中心)を目指すのか量的拡大(セレブ重点攻撃中心)を目指すのか、この方針を巡って議論されている。そして、キリシタン時代は量的拡大を目指した時代であり、非常に多くのものがキリシタンに改宗していくことになる。

    伴天連追放令とのかかわりで
     その時に、伴天連追放令は大問題になってくる。秀吉は、信仰の自由は認めるが、領主が信仰を部下とか領民に強要するのはNGであるとした。その背景としては、領主は改易があるのに、領民は移動しないため、その移動できない庶民にまで信仰を強要するのは問題だとしたという側面がある。伴天連追放令には、宗教はたくさんあるのに、それを一つにするのはダメではないか、という論調である。

     次回、明治期以降の教育の話しへとつながる。





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