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2014.07.07 Monday

上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

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     今回は、上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた、その時の記録を公開しようかと。2回に分けたので、ちと短め(といっても普通のブログよりは長いよ)。

    イエスの譬え話とその特徴 ナラティブとして 
     イエスのたとえ話は、抽象的な神学とは違って、具体的な当時の生活の中から素材を取り上げ、語られた内容である。その意味で、ユダヤ教や当時の生活習慣を念頭に置かないと、理解しにくい部分もある。とは言いつつも、イエスのたとえ話からは、しみじみと感じられるものがあるのではないだろうか。たとえ話は、読む人が置かれた状況に直悦語りかけ、日常生活の中での喜び、悲しみ、夢といったものに応じるのがたとえ話ではないだろうか。

     ところで、昔は手紙を書いた。書かれた手紙には、いろんな受け取られ方があるだろう。ある面、ラブレターが文学として完成するのは、受け手の反応が重要で、受け手の反応そのものがあって初めて成立する文学体系なのが、ラブレターに関する文学体系であろう。

     ところで、たとえ話はたとえ話であるが故に書かれていない部分がたくさんある。ところで、書かれてない部分(余白)を味わうのが日本の絵画である。また、茶道の陶器を考えてみると、陶工曰く、陶工の仕事は半分であり、陶工と用いる人で相まって一つの茶器という作品が完成する。たとえ話も似ている部分があり。法律のような言語体系では語られていない。たとえ話は、高校の現代文の問題のような文章ではない。

     その意味で、たとえ話には、回答がいっぱいあるという性質がある。本日は、善きサマリア人を取り上げる。このたとえ話は、ヴァンゴッホの絵画の善きサマリア人のモティーフにもなっている。

    GoodSamaritan
    ヴァン ゴッホによる「善きサマリア人」

    聖書における文学構造としての特徴
     2点だけ、気をつけておきたいことを申し上げたい。聖書は文学的なある構造をもっていて、ストーリーがある、という構造をもっていることである。これが第1点目。そして、異常と思われる表現、逆説、誇張、繰り返し、非常識な展開があり、そこでメッセージを伝えている部分がある。これを、テキストにおける異化作用と呼んでいる。これが第2点目である

    「善きサマリア人」の譬えに見る構造と異化
     律法の専門家とイエスとの対話がまず最初に来ていて、共通の土台としての律法があることを確認し、イエスが専門家として聞くという形をとっている。律法学者にヒントを与えるために、共通の土台を示したうえで、その共通の土台になる律法における、隣人とは、ということが明確化されていることとなっている。

     この物語は、第1のものがたりのシーンと、第2のものがたりの二つの物語のシーンからなる構造となっている。

    第1シーン律法学者との対話における構造
     それぞれの部分を構造として見ていこう。まず、第1のものがたりのシーンの構造を整理すると、このようになるだろう。

    25 律法学者の試そうとする質問      29 律法学者の正当化する質問
    26 律法(トーラー)を律法学者が出す   30 たとえ話
    26 イエスが質問             36 イエスが質問
    27 律法学者が答える           37 律法学者が答える
    28 実践しなさい             37 実践しなさい

     このように、シンメトリックな関係になっているが、たとえ話が長すぎるので、構造が読み取りにくいという部分はあろう。この譬えを語ることで、イエスと律法学者の中に新しい共通部分が生み出されてくることになる。

    イエス時代の律法と聖性、その背景
     イエスの時代のユダヤ社会においては律法が非常に重要であった。社会構造として、その頂上にサンヘドリンがあり、次の霊やとして大祭司、サドカイ派、ファリサイ派、一般の人々という構造にあった。その中で、ミシュナー(口伝律法)が社会において重要な役割があった。その意味で、律法は人生の全部を扱う原理であった。ユダヤ教としては、このミシュナーを守ることが重要であり、これを守ることによって、イスラエルの民は聖なる民となり、神のためにとっておかれた人とかモノが聖であるという理解である。その意味で、神殿とか祭壇、祭司とか、祭具が聖とされることが重要となる。この聖なるものとして、救われるのはイスラエルの民全体であり、民が聖であるがゆえに、聖なる民であるイスラエル全員が救われる、というコンセプトになっている。

     聖なる民に属していることが救いの条件であり、律法を守ることはイスラエルの聖なる民のその条件となっている。

    隣人とは何か
     さて、第2シーンに入る前に、第1シーンでのイエスと律法学者の対論において、律法の意味は固定されている(おそらく相互理解と共通部分ができている、という意味でのご発言であったと思う)。
     
    第2シーンの背景
     隣人、の定義であるが、当時、とりあえず異邦人は、隣人でない、という理解であった。困っている異邦人には、親切にしなさい、と律法の中には書いてあるものの、「困っている」という条件付きで考えられたのではないか。

     ローマ帝国時代、ローマ帝国には属領に総督を送っていた。総督は軍隊付きで到来し、軍事力をもち、税金の徴収し、属州統治をしていた。ポンテオピラトは、カイサリア駐在しつつ、ローマの意思の象徴として存在していた。年に2回ほどエルサレムに滞在し、エルサレムで反逆などの重大犯罪起きないか、などの仕事をしてたようである。ローマ帝国の反逆としてはいくつかのものがあり、ガリラヤのユダの反乱等がイエスとほぼ同時代などに起きている。この重税逃れのために、メシアを名乗った人物がいた。ユダヤ教の人たちはローマ帝国に反乱をおこすなど、ナショナリズムの強い時代であった。このような背景を持つイエス時代には、同胞というとイスラエル人のみが認められた時代であり、サマリア人は、汚れた存在であった。

    食卓コミュニティとしてのイエスの宣教活動
     ところで、イエスは遊女や取税人などを受け入れた人物であり、食事を一緒にすることで受け入れを示したのである。ユダヤ教では、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りでは、神殿で羊が殺され、それを食することで、家族であり、同じ民族であることが確認された。イエスご自身について、神の子羊というバプテスマのヨハネの呼びかけは、極めて重要なのである。

     この祭事の時の食事は聖なる食事であり、ユダヤ人信徒だけが聖なる食事に味わうものであった。遊女や取税人など罪人は招かないのが当時の常識である。ところが、イエスは、もともとユダヤ教徒の食事に招かれない人々、招き入れるべきでないとされた人々と食事をしたのである。このような状況に関して、福音書では、イエスは大酒のみの食いしん坊、という当時の人からの悪口を拾っている。

     イエスの食事は目的があって、正統ユダヤ社会から追い出された人々とともに食事をし、食卓共同体とでもいうものを形成したのである。神の国運動の中心は食卓であり、そこでは、パンと葡萄酒が提供されたのである。その意味で、食の宗教であった。正統ユダヤのユダヤ人はユダヤ人とだけ祭事の神殿を食事をしていた。

    善きサマリア人の第2シーンの背景

     ある人が、エルサレム(冬雪がふる)からエリコ(世界で最も低い場所で避寒地)に向かって進んでいた。エリコは、当時ヘロデ大王が冬の離宮を造ってた場所でもある。エリコへの道は、左右とも荒れ地、荒野が広がる場所であり、追剥がすんでいるような土地柄でもあった。おそらく、追剥強盗事件は、イエスの時代にこの道路沿線で、実際にあった、よくある話であり人口に膾炙していたのであろう。ところで、この人は、エルサレム神殿に祭儀にあずかって、エリコに向かったのかもしれない。

     このサマリア人に助けられたユダヤ人は、ある程度気合の入ったユダヤ人で、追剥にかなり抵抗したからこそ、半殺しの目に遭ったのではないか。


     次回へと続く。



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