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2014.06.28 Saturday

2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 雨宮司祭「主の祈り」によって何を祈っているのか その1

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     この講座では、主の祈りを考えたい。

     ギリシア語原文で、福音書2か所。マタイ9章の逐語訳とルカ11章2-4の逐語訳のご紹介をしたい。

     太字部分は、ルカとマタイが同じ部分であり、赤文字部はマタイだけにあって、ルカにはない部分を示す。 

     たとえば、わたしたちの、天におられる の部分はルカにはない。
     イタリック体にした文字部分はマタイルカにもある共通部分であるものの、動詞のかたちが変わっている部分か、同じか類語がつかわれている部分を示す。

    ギリシア語原文逐語訳による比較
    ギリシア語原文 逐語訳
    マタイ6章5-13節

     9父よ 私たちの 天におられる方よ
      聖とされよ 名が あなたの
     10来たれ 支配が あなたの
      成就せよ 思いが あなたの ように 天における 上にも 地の
     11パンを わたしたちの 明日の 与えてください わたしたちに 今日
    。12そして 赦してください わたしたちのために 負債を わたしたちの
      ように わたしたちも 赦した 債務者を わたしたちの
     13そして 導かないでください わたしたちを 中に 誘惑の
      むしろ救ってください わたしたちを から 悪


    ルカ11勝2-4節

     2父よ 
      聖とされよ 名が あなたの
      来たれ 支配が あなたの

     3パンを わたしたちの 明日の 与え続けてください わたしたちに 毎日
     4そして赦してください わたしたちのために 罪を わたしたちの
      そして なぜなら わたしたち自身 赦します すべての者を 負っている わたしたちに
      そして導かないでください わたしたちを 中に 誘惑の 


     ここで、負債という語があるが、この語は罪を表すものとして使われており、その意味で、マタイはヘブライ語的記載が残っているといえるのではないか。

    カトリック教会の主の祈りの比較
    カトリック教会の主の祈りには、新しい訳と古い訳があり、この両者の間で大きな違いがある。

    ◆◆◆カトリック教会が用いる新しい訳の主の祈り

    天におられる私たちの父よ
    御名が聖とされますように
    御国が来ますように
    御心が天に行われる通り地にも行われますように
    わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください
    わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。
    わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。

    ◆◆◆カトリック教会が用いていた古い訳の主の祈り
    天にまします我らの父よ
    御名の尊まれんことを
    み国の来たらんことを
    み旨の天に行われるごとく地にも行われんことを
    我らの日用の糧を、今日も我らに与え給え
    われらが人をゆるすごとく、われらの罪をゆるし給え
    われらを試みに引きたまわざれ
    われらを悪より救い給え


    典型的には最後から2行目のところで、現行訳では、「私たちも人をゆるします」となっている。 この訳で言えば、「まだ許してないけど、赦して下さい。私たちが人の罪をゆるすことができるようにしてください。」というニュアンスが含まれている。これに対して、「人をゆるしたように」となっている古いほうの訳では、「私たちが人の罪をゆるしたから、許してくれ」という意味になる。

     このように大きな違いがあるので、簡単に読み飛ばすのではなく、本文から考えてみることが重要ではないだろうか。1時間半で全部終わらせるのは無理なので、新しい訳で主の祈りについてお話ししたい(といっても終わらなかった)。

    主の祈りの全体構造
     まず全体の構造を見ることからすると、マタイ6章の逐語訳を見ると、

    あなたの名が聖とされよ。 
    あなたの支配が来たれ。 
    あなたの思いが成就せよ。

     この中にある、3つのあなた、という語が出てくる部分は、神のための祈りといえよう。神の名が、神の支配、神の思い、についての言及であり、神が中心であり、人が神のために祈っている形になる。9-10節は全体として一つの祈りと考えるほうがよいであろう。
     これに対して、11,12,13説は一つ一つの祈りといえよう。そこで扱っているのは、私たちのパン(11節)、私たちの負債(12節)、私たちを誘惑の中に(13節)となっている。

    その意味で、構造としては、
    神への呼びかけ、
    3つの神のための祈り
    私たちのための3つの事柄に関する祈り
    となっている。

    主の祈りの原型はマタイ?ルカ? 
     もともと、イエスが示した主の祈りは、ルカの短いバージョンか、マタイの長いバージョン、どちらがイエスの者に近いのか、ということを考えてみると、ルカの方がより正確だといえるのではないだろうか。カトリック教会はマタイを用いているので、本講義では、それに準拠して考える。

    父よという呼びかけについて
     イエスは新約聖書の言語であるギリシア語で語ったことがない。アラム語、アラマイ語で、日常生活をおこなっている。ヘブライ語の兄弟関係にあることばとしてのアラム語か、ヘブライ語を用いている。

    新約聖書におけるアッバ(父よ)
     ところで、父よ、となっている部分は、元のテキストはパーテールとなっているが、イエスが語ったもともとのことばでは、アッバが使われたのではないだろうか。ユダヤ教においてアッバと呼ぶ事例が文書中にあらわされているものはない。ただし、アラム語をギリシア語で音写された事例がある。

     ローマ8:14-17の中の記載にそれがみられ、そこでは、子供であれば、父の相続財産を受け取ることが描かれているが、何を相続するか、といえば、永遠のいのちを相続するとしており、キリストを共同の相続人として受け取ることがしめされるなかで、「アッバ父よ」という表現がみられることからも、アッバという表現が重要な表現として使われている例としてみることができる。

     マルコ14章での、ゲッセマネの園での記述の際にも見られる。

     このように、アッバという表現を福音書が残しているし、また、パウロ書簡にも残っているのである。おそらく、イエスがこの語を使っていたのではないだろうか。おそらく、イエス自身が最初に「アッバ」と祈りの中で用いた可能性があるのではないか。
     イエスが告知する神は、貧しい者、罪人、落後者に自ら近づく神であった。このことを思い出しながら、神に近付き呼びかける際にイエスが用いられた語がアッバだったのではないだろうか。

     もっとも父親らしい父親であるとして神に呼び掛けている。詩篇103篇にもこのような父親像として神を信頼している表現がある。イエスはアッバという語 を使いながら、イエスはユダヤ教から離れるのではなく、むしろ、ユダヤ教における神への信頼をこの表現によって明らかにしたのであろう。ところで、旧約聖書は怒りの神ということ言う人がいるが、それは乱暴な物言いではないだろうか。そのことをのちに考える。

     なお、「私たちの、天におられる方よ」という部分はマタイの付与ではないか。父に対して形容する表現を使ったのがマタイであろう。地上の父と天上の父には、おおきな差があって、マタイはそこを意識しながら、天におられるかたよ、とのべているのであろう。「私たちの父よ」という中で私たちという語で、教会としての共同体 性を示そうとしているように思われる。

     アッバという語を用いることで弱い者への配慮を忘れない神、ということをイメージさせ、アッバで意味を深めているように思われる。時にキリスト教学校などに行くと、ものすごく早い主の祈りを唱えるところがあるが、早すぎる主の祈りは問題かもしれない。

    旧約聖書における父親像 
    詩篇103篇を手掛かりに


     古い詩篇ではないけれども詩篇103篇を見ておこう。詩篇103編の逐語訳は次のようなものになる。

    9 永久に 彼(=神)は争いつづけない
      そして 永久に (怒りを) 保ち続けない
    10 わたしたちの罪に従って 彼は行わない 私たちに
        そして 私たちの不義に従って 彼は報いない 私たちの上に
    11 むしろ 高いように 天が 地の上に
      力強い 彼の慈しみは 彼を畏れる者たちの上に
    12 遠いように 東が 西から
      彼は遠ざける 私たちの背きの罪を 
    13 憐れむように 父が息子たちを
      憐れむ 主は 彼を畏れる者たちを
    14 まことに 彼は 知っている 私たちの形作られる様を
      彼は心に留めている 次のことを 塵 私たちは

    15 人は
      草のように 彼の日々は
      野の花のように そのように 彼は咲く
    16 まことに 風が それを通り過ぎる そしてそれは存在しない
      そしてそれを知らない もはや その場所が


    構造を見る上でカギとなる
    否定形と「ように」という語

     逐語訳を見ると、9−11節では、否定文になっている。たとえば、争い続けない、という表現などが典型的である。否定文で語っておいて、11節に、むしろ、という表現があり、11節以降肯定文となっている。11-13節からは、1行目にはように、と太字で示した「ように」の語がつかわれている。

     いつまでも争っていたり、罪への報復をする神ではなく、神のいつくしみと憐れみをこの紙片は、説いているといえよう。
    11-13説の冒頭に比喩があり、14節では神の性質が語られる。14節は構文がこの文章の中の他のものと違っているのことで、文体が崩壊されており、重要なことを述べているのだと思われる。

     15節以下では、人間について述べている。「ところで人間といえば」というかの如く、人間について触れているニュアンスが15節にはある。15節の2行目3行目のように 太字で示した「ように」という同じ表現がみられる。

     9-13節では、否定文を共通的に使って、神の憐れみを表し、15-16節では、「ように」というの比較のためのことばを使っている。比較と否定のことばが逆順となっており、その意味で、15-16が9-11と対応している。

     15節では、風が出てくるが、これは死海からエルサレムに吹き上げて来る風は熱風のことであり、一日にして草が枯れる様を通して、はかなさを示すと同時に、16節の否定でも人間のはかなさをあらわしている。

    形づくられる様 とはいつのことか
     14節では、我々が形づくられる様を示しているが、これは、造られた後の姿かたちとも理解できるが、むしろ、造られる前、造り手の中にある姿かたちを示すのではないだろうか。形づくられる、というのは造られる前の姿で理解したほうがよいとおもう。どのようにつくるべきかを知っておられた神がおられ、私たちは塵にすぎないという表明がされている。

    慈しみ、憐れむために、人間をはかなく造った神
     9-13節では、いつまでも怒ってない憐れみ深い神がおられて、14節では、神のこころに、神の目に留まるものを造ろうとして、弱く はかなく造りました、というニュアンスがあるのではないか。14節1行目を、造られる前のかたちと理解するならば、作り手の中の思いの中にある姿を現すと理解するならば、わざわざ弱くはかなく造りました。ということになるのではないか。

     その意味で、憐れむことができるように、人を弱くはかなく造られたのかもしれない。聖書の人間観はこうい言うものなのではないだろうか。神が父の本質をもつことを表すために、父が息子を憐れむように、という表現がなされているのであろう。

     「より劣ったものでも真実なものは、より強いものにはより一層真実だ」というユダヤ的論法があるが、その援用で、「より劣った地上の父でも、息子を憐れむなら、天上の父はもっとそうだ。」ということを表しているのだろう。

    ミーちゃんはーちゃん的感想
     本日ご紹介した部分からではあるが、イエスが語ったことは、あくまでユダヤ教的な世界観の中で、ユダヤ人ナザレのイエスとして、旧約聖書の理解をもとに、詩篇などをかなり意識しつつお話しになられたのだろうな、ということが想像できた。プロテスタントのおバカなキリスト者のはしくれをしている者からすれば、イエスはキリスト教を始めた人だから、新約聖書のほうが重要で、ユダヤ教とキリスト教を切り離して考えがちであるが、それってまずいのかもしれないなぁ、ということを改めて感じた。

     それと、人間がはかない、という理解は、非常に重要だと思う。このはかなさがあるからこそ、人間にとって神が必要とされるのであり、はかなさを失ってしまえば、神などは必要なくなるのである。このことを思う時、カインの末、レメクという人物の姿を思い起こす。カインの一族は自分自身強くあろうとして、いろいろな技術や工夫をしていったといえよう。しかし、その結果、暴力に走り、非常に陰惨な結果を導き出すことになっているような気がする。

     技術屋としてのミーちゃんはーちゃんの悩みというのは、アベルの末として神の造り給いし美しいものを「美しい」と言っていたいという側面を持ちつつも、それを技術というカインの末として与えられたもので、破壊しなければならないという悪辣な側面が自らのうちにあることであり、その悪辣さから離れられないという自らの残念さなのである。

     原子力発電所やら、戦争機械やら、そういった対象そのものを設計したり、改良する技術者ではないのだが、それを支えるための技術を作ったり、そういう技術者の人材育成に携わってしているものとして、壊れやすい、はかない人間を技術の力でパワーアップすることが神から人をどんどん遠ざけていくのに加担しているような気がして、気が引けてしょうがない。神から人が遠ざかるのが罪であるとするならば、その罪に加担しているという意味で、悪辣な自分に嫌気がさしている部分がないわけでもない。


     
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