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2014.07.05 Saturday

2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 雨宮司祭「主の祈り」によって何を祈っているのか その2

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     前回に引き続き、2014年春季の上智大学大阪サテライトキャンパスでの公開講座 雨宮司祭による口座の記録をのせていきたい。
     
    御名が聖とされますように
     現在利用されている主の祈りの前のバージョンでの主の祈りでは、「み名なの尊まれんことを」という表現だったのが、現在では、「御名が聖とされますように」となっている。
     もともとのギリシア語テキストでは、アオリスト受動形になっている。ヘブル語では、行為者を書かないことも多く、ここでも行為者が誰なのかということが明示的に示されてない。

    聖とするのはだれか問題
     おそらく、行為者は神だと考えるのがよいだろう。アオリストと呼ばれる命令形のかたちとなっている。受動形、アオリスト(時制)の命令法は、Thological Passive神的受動形と考えるのがよいのではないか。動作の主体は神である、とすると、神がご自身の名前を聖とするように祈っている。

     我々が正しく神の名を用いることで、神の名が聖となるということもできるが、この我々が正しく神の名を呼び、我々が神の名を聖別させてくださいますように、という訓戒的な解釈もかのうである。しかし、この祈りは、歴史全体の完成、終末における神の名が賛美されることをさすのではないだろうか。聖書における終末は、この世の終わりが、滅亡という形で終わる終末ではなく、完成したという終末である。
     
     (ミーちゃんはーちゃんの感想 その通り。ミーちゃんはーちゃんは頭が悪いので、終末とは全部爆発してなくなる世界と以前は、考えていたが、最近爆発して終わる世界観ではないのではないか、ということに気付き、そちらで考えてみれば、かなり聖書全体の義認と救済に関する構造が見やすくなったような気がする。)

    御名が聖とされますようにと祈る意味
     つまり、ここでの祈りである御名が聖とされるということは、終末時における神の決定的な介入を求めることであり、それへの賛美であり、御国が来ますようにと同じ祈りになる。

     ここでの受動形が神的受動形であるかという問題は、解釈の問題であり、慰められる。という言葉と同様に、神が慰めるの意であろう。

     人間が神の名を聖とすることができますように、人間が神の名を正しく用いますように、という解釈も可能であるし、神の意志に従順であることを通して、神の名を聖とするという解釈も可能であり、両方解釈として可能であるだろう。

     これまで、カトリックでは、訓戒的解釈の立場になってこの節を長らく読んできていた。その意味で、訓戒的解釈は、人間への期待を語る解釈でもあった。

     訓戒的解釈と終末的解釈では、聖とする主体はだれか、が違うように見えるのであるけれども、これは、一枚の紙の裏表の関係ではないだろうか。人間が聖とするのであれ、神が聖とするのであれ、我々も、紙が聖であることに賛意を示す、あるいは、神の意志に従順であることによって、神が聖とされることに関与することは、どちらでみてもおなじことなのではないだろうか。

     アオリスト命令法、行為を一時点と見る時制であり、行為が完成するという時制であるとされている。そう理解するならば、歴史における継続的に行われる神の介入ではなく、歴史の完成としての終末(における神の回復、または神のわざの完成)を祈っていると理解できるのではないか。この祈りの中に多くのことが込められているように思われる。アラム語にはアオリスト体は存在しないので、イエスが1回限りの介入といっているかどうかは分からないだろう。

    赦しに関して
     マタイ6:12の2行目 「ゆるした」という現在完了形となっていて、ルカの場合は、「ゆるします。」という現在形になっているが、もともとのアラム語には現在完了形はない。

    旧約聖書における
    神の名を聖とすることに関する整理

     旧約では、聖とするのは神か、人かという記述に関しては、いくつかのパターンがある。たとえば、エゼキエル36:22-32は5つのパートからなっている。それを構造的にあらわすと次のような形になるだろう。
     36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
     36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。
     36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
     
     36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
     36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
     36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
     
     36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
     
     36:29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。
     36:30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。
     
     36:31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。
     36:32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。

    ここにわかりやすく構造化して示したが、22-24節と31節にでてくる、お前たちのためでない、という表現は対応関係になっている。また、「すべての汚れ」という表現が25節にも、29節にも出てきており、対応関係をなしている。私たち人間のためではなく、聖なる名のために行う。と主はいわれていることは重要ではないだろうか。24節には、捕囚からの解放が述べられているが、この捕囚からの解放は、神の聖なる名のために行われることとされている。その意味で、全ての汚れ、すべての偶像からユダヤ人をきよめるとしているが、どうするかは24節にかかれていて、そこには、新しいこころ、新しい霊を置くとされており、これらが汚れときよめるとなっている。

     26節に、肉のこころを与えるとなっているが、これの対になっている石は、固まっている生命のないものである。石と表現されるのは、こころがいのちを失って、固まった状態にあることを示すのであろう。ここで、肉は悪い意味で使っていない。むしろ、生き生きとした、という意味で使っており、いのちにあふれた、という意味で、使われている。

     旧約聖書の中で、裁きは秩序の意味で使われている。

     28節は捕囚が前提であり、バビロンで生きている時代ではないか。そして、新しい契約が成就した時、成立するのが、「お前たちは私の民となり、私はお前たちの神となる」が実現する。31節の「そのとき(元義 そして)」という表現は、お前たちのため、お前たちが約束の地に入れられた後、はじめて、自分自身を嫌悪するようになるということではないだろうか。悔い改めたから約束の地に戻るのではなく、約束の地に戻ったことで悔い改める、ということだろう。約束の地に迎え入れられることで、しっかりと目を向けて神を見つめることができる。神にあって救われて(神との和解が成立しているがゆえに)、汚れを安心して認められるようになるということではないだろうか。

     お前たちのため、に出てくる「ため」という表現は、原因と目的を示す語である。しかし、お前たちが原因となって、捕囚からの解放があるのではない。原因は、あくまで、神の名が根拠となって、解放がある、と理解できよう。そして、その解放があり、神が神の大いなる名を聖なるものとする、ということが実現すると理解できるのではないか。

    主の祈りにおける
    あなたの名が聖とされますように 再検討

     エゼキエル書を踏まえると、あなたの名が聖とされる、であり、これを祈りのことばで表現するとすれば、あなたの名が聖となりますように、となるのであろう。その意味で、聖とする行為(具体的には救い)の行為者は神ということになる。主の祈りは、聖とする行為者のその行為が実現しますように、という意味で使っているのではないか。

     イザヤ書29:23 わが手の業(神の手のわざ)という表現が出てくるが、神の名を聖とするの主語は人間となっている。人が神の名を聖とするという用例もある。

     これらの旧約の用例について考えるならば、神の名を聖とするということについての解釈として、神が聖とするのか、あるいは、人が聖とするのか、といった解釈のどちらか一方に特定しないほうがよい、のではないか。神も人もありうる、という理解で十分だろう。祈りのことばとして、簡潔だからどちらとも解釈できる。終末論的解釈が唯一の解釈ともできないし、訓戒的解釈も存在し得るのだろう。解釈が二つある場合は、残しておけばよい。

    御国が来ますように
     御国が来ますように、の部分については、 御国と訳しているが、支配(バシレイヤ)という言葉で取るほうがよい。このバシレイヤとは、 バシレイウス(王)というギリシア語に由来する語であり、バシレイアとは、王の支配が実現している状態、領域のことを指す。ここでは、領域と取らずに、あなたの支配そのものと考えるほうがよいかもしれない。

     国といっても国民国家とは違うということは理解しておいた方がよいだろう。むしろ、神が支配する領域と理解するほうが近い。

     日本国憲法には、諸国民の公正と信義と・・・という表現があるが、中国みたいな国に通用しないから集団的自衛権という議論があるものの、それはキリスト者としてどうなんだろう、というご発言があった。
     ところで、雨宮先生は、「数独」のファンらしく、数独の上級あたりをしておられるらしい。数独では、うまくいくものを探していくのだが、もしうまくいかないとするなら、こうかな、と思いながら、やりなおせば、数独の場合、たいていうまくいく。

     ところで、神の意志をどうしたら知ることができるのだろうか。普通、人間は、神の意志を感じることができないのだと思う。しかし、信仰をもつ者の強みはやり直しがきくところにあるのだろう。数独ではないが、まずいぞ、ダメだと思ったら、変えられる自由さをもつものではないか。これを大事にすべきではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想 なんで数独が出てくるのか、と思ったら、そこです、って思わず突っ込みを)
     その意味で、キリスト者はあなたの支配が来ますようにと祈りつつ、どれがあなたの思いなのかを探り求めるしか方法がないのではないだろうか。

     雨宮先生から、終末論的解釈って言葉が出てきたので、帰り道に向かわれる先生にぶら下がるようにお願いして、カトリックの中で、いつごろから終末論的解釈が見られるようになったのですか、ってお尋ねしたら、19世紀に入ってからだということだそうでした。じゃぁ、なぜ、訓戒的解釈でない、終末論的解釈が出てきた背景をご教示願えませんか、とお尋ねしたところ、訓戒的解釈で行くと、どうしても行き詰まりがあるので、その打開のために終末論的解釈が生まれた、ということでございました。雨宮先生、ありがとうございました。


    ミーちゃんはーちゃん的感想

     今回の講座は、以下に主の祈りが旧約聖書とのかかわりでとらえられるのか、ということを神の名を聖とするという表現から学んだ。これは、以前NTライト研究会でNTライトの主の祈りの解説を学んだときには、旧約聖書のかかわりを意識していて、主の名を聖とするということまで、あまり意識していなかったけれども、こうやって丁寧に示されると、旧約聖書におけるメシアとのかかわりで、
    イエス御自身の祈りのことばとして示された主の祈りの中に、神を礼拝することと祈りとの関係があらわされていることが分かったのが面白かった。

     あと、終末に関する理解が垣間見えたところである。本文中にも紹介したが、おバカなミーちゃんはーちゃんは、ついぞ最近まで、週末というのは、この地がボーンと爆発して終わって、別次元の世界が突如生まれて、そこが新しい天新しい地となると、理解していたがどうもそうでないらしいことが分かってきた。神は連続性の中で様々なことを行われる方であることを考えるならば、この連続性の上において、この世界がエデンの園のような神がともにおられる場、神の支配の場としてのこの地と天との回復がなされるのが終末であり、完全な神の義が実現するのが終末であるように思えてきてならない。

     
     そして、神の裁きが、旧約聖書の中で、神の秩序の回復または樹立として語られるという表現がどういうコンテキストで出てきたのかは分からないが、そのことが非常に印象的だったので、今回のメモにも記載しておいたが、神の秩序として神の裁きを考えるということは大事な理解かもしれない。
     ミーちゃんはーちゃんなどは、神の裁きというと、ミーちゃんはーちゃんのような不埒ものがばかなことをしないようにかに怒られることを想像しがちなのだが、どうもそうではないらしい。神が思っておられる秩序、あるいは神の義の回復、またはその確立であり、その秩序や義から人間がどうしても外れるので、これこれと注意されることは裁きに付随する結果であって裁きそのものではないことは、もっとちゃんと言わないといけないのかもしれない、と思った。




     
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