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2014.06.25 Wednesday

2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」その2

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     2014年6月7日に開催された上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座の記録を公開しようかと。今回の記事は、岩島忠彦司祭による「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」の講演記録の続きです。


    ーーーーーーーーーーーご講義のメモーーーーーーーーーー


    創世記の冒頭から読み取れること

     創世記が、はじめに、すなわち、そもそも、と書かれて始まっているように、すべてのものの根本は神であり、神にすべてのものが依存し、我等人間はそれを代理として地を治める必要がある、という主張ではないだろうか。

     神は被造物の中にはないのである。創世記の中にはすべての被造物の役割だけが書いてあるといえよう。被造物に神のようなものはないことが強烈に書いてある。これが創世記を貫く世界観であろう。そして、この価値観は、今日においても重要な価値観であろう。人間を含め、被造物を神秘化する必要はないのではないか。その意味で与えられたものを、正しく用いていくべきだろう。この世界には、神がおかれた秩序があり、秩序に応じて用いられるのが望ましい姿であろう。

    人と人と世界のかかわり 創世記の持つ世界観

     神―世界―人間(私) という3つの主体間の関係性が創世記を貫いている。この世界(地)において神の意志を行うものとしての人間があったのではないか。

     人間の起源はどこなのか、ということを考えるのが、創世記の物語であり、楽園、失楽園の話となっている。2章の4節後半から、別伝承になっている。おそらく創世記は、あとで合本されて1冊になった可能性がある。創世記2章以降の方が、紀元前10世紀に戻る古い伝承(最も古層)を伝えていると思われる。楽園の『ものがたり』であったものが、失楽園の『ものがたり』になっている。

     第1のものがたり(第1章)に比べて2章の物語は、乾燥した感じがする。2章のものがたりを見ると、土をこねて、鼻に息を吹き込んで、人は生きるものになった。と記載されている。土は、アダマーであり、土(アダマー)からできたからアダム(土からのもの)となっている。私たちにかたどって(ルアッフ)という語が用いられていることから、より神のかたちという印象が強まっていると考えられよう。

     この記述に基づき、ユダヤ的な世界理解の基本部分に人の息にいのちがある、と理解されている部分がある。この息は、風、霊と同義であり、神のいのちの息吹と土が合わさってできたのが人間ということができるであろう。

    エデンの園ってなんだろう
     ところで、東の方エデンとかかれているが、どこから見て東とかんがえるのだろうか。おそらく、イスラエルから見て東であろう。その意味で、エデンというとメソポタミア地方が想像されよう。多分、メソポタミア地方の周辺がエデンだろうと想定されている。しかし、どこか特定の地域がエデンの園ということではないだろう。地域名、地名というよりは、一つの観念ではないか。あとの叙述を見ても、2章10節をみると、第2の川はエジプトが言及されているので、その意味で、どこか特定の領域ということではないかもしれない。

     人間にとっての世界全体が神とともにいるという意味でも、楽園の状態であったということが書かれているのではないか。園の中央に木が生えていた、と記されているが、神の意志そのものが中央の木が象徴する形で示されているのであろう。

     ある意味で神の意志が園の中央の木が置かれることで表現されているのではないか。この中央の木が置かれた、種類に従って、という表現は、神の意志が示されているという点で類似している。そして様々なものに対して、人間に名前をつけさせる神がおられる。「人がいきものを呼ぶと、生き物の名となった」と記載されている。この「ものがたり」が示すことのは、人間は目的と本質を定める力をこの地上で持っている、ということではないだろうか。

     ここで、男がイシュとよばれ、女がイシャーと呼ばれており、男と女という原理というか秩序が造られている。その意味で、神の意志のあらわれた秩序がここに示されているのだろうと思われる。

    楽園と神の秩序
     さらに、「裸」というテーマが筋を作っているように思われる。楽園は神の意志が支配するところと考えられよう。神の秩序に従って、人間が耕し、地を世話をする。園では地に対するケアとしての労働がある。楽園自体の物理的側面としては、いまの世の中とそう違わないかもしれない。園では、園にあるものすべてが神からの恵みとして受け取られる場所であった。なぜなら、園そのものが神の秩序に従って存在しており、神と共にある場であったからである。楽園そのものは神が身近におられる場であり、そこで、人間は、この地上にあるものとかかわるものであった。

    崩壊した楽園、現在の社会への移行
     3章で、現在の話につながる世界へと移っていく。この3章の中で、蛇が出てくるが、蛇は誘惑するもの、サタンの象徴として描かれている。ここで、へび:造られたもののうちでもっとも賢い者であると描かれている。

     この「もっとも賢かった」という表現の中に、人間を超えるような霊の力をもつということを示しているのではないか、人間を超える霊の力が存在したことは確実である。聖書の中には、人間がいろんな形でだまされ、後で後悔する引っ張る力が存在することが描かれている。

     人間よりも高級な霊的存在としての天と悪魔が描かれている。人はそもそも、もろいから、その様な超越したものになろうとうする欲求が存在するのだろう。そして、誘惑は物事を混乱させるものである。へびの発言には、嘘はほとんどない。しかし、目が開けて善悪を知ることが本当によいかどうかはよくわからない。

     悪しきことがなかったから、悪はわからなかったのではないか。悪いことが存在してはじめて善が定義される。そもそも、悪という感覚がない。善がわかるのはよいことかどうかは、その点で疑問であるかもしれない。大人の方が善を知っているといいながら、子供より、ひねくれているんじゃないか。

    罪の問題
     人間の罪は社会的コンテキストの中で広がっていく。

     ここで、裸であることがテーマ。裸であることには、二つの意味がある。罪意識がなければ、そもそも隠す必要がないことになる。他者に対して、隠すべきものがないのが罪意識がない現状であるし、神に対して隠すべきものがないのが罪意識がない状態である。その意味で、防御する必要がない。何かを対象との間に置くことは、対象から、自分自身の身を守るという意味がある。

     ここで、神は能天気な姿として描かれている。アダムは神を避け、園の木の間に隠れていた。木で身を隠しつつも、それと同時に神を見ている。この記述は、二分された人間のこころの姿を示すのではないか。

     神とアダムの対話の中で、アダムは、私の責任とは言っていない。あなたが押しつけた女が、と神に責任転嫁をしているのではないか。さらに、エバは、蛇がだましたので食べました、といっており、責任転嫁の典型的な原点がここにある。スケープゴート(大贖罪の日に逃がすヤギ)という語があるが、それと非常に似ている。

    失楽園
     楽園でなくなったということは、呪いというよりは現実を示しているのだろう。人間のありのままの現実が3章17-19節ではないか。

     最初の二人の段階で、人間は楽園を追われたのである。バベルの塔のものがたりにしても、アベルとカインのものがたりも失楽園での失敗の繰り返しである。それ以降の物語は、層(レイヤー)を変えた一種の繰り返しとなっており、ものがたりの間を人間の系図がつないでいる。
     失楽園となり、神との関係が切れた結果、人間と自然との関係が混乱しているのであろう。文明と人間社会のレベルでの混乱が生まれたバベルの塔物語は、失楽園のものがたりのバリエーションであり、罪がどんどんあらゆる世界に広がるものがたりでもある。

     旧約聖書との関係で考えてみると、殺人自体、珍しい話ではない。オゾンホールだって、基本的にノアの洪水と同じ話である。国際問題にしても、バベルの塔の繰り返しとなっている。その意味で、これらの話は昔からあった話で、歴史全体からすれば、それほど、特記すべき話でもないようにもみえる。
     エデンの園の状態を図にしてみると、以下のような形になるだろう。


     ところで、旧約聖書的な人間の由来を考えてみれば、本来人間は地上のこととかかわることを通して神とかかわるという側面をもっているのであろう。私はこの関係のことを神と地と人間との間での3項関係と呼んでいる。人はこの世のものとかかわりながら生きているのであり、この地上の生涯において、人はもの(地上にある対象)とかかわるか、人とかかわるか、ではないか。それを通して、神とかかわっているのである。

    神 世界 人間

     3項関係の関係が成立しているのが、楽園であり、楽園が神がケルビムを置くことによって守られ、神と世界が切れた。

     失楽園となって以降現在までの関係を書くと次のような図になろう。




     神と世界が切れたので、結果として地と人間だけの2項関係になってしまった。その後の人間は失楽園状態を生きることになる。神抜きで、地と人間だけの観点で物事をとらえる2項関係が現在の人間の状態ではないだろうか。本来そんなものではないということは、何となく人間は理解しているのではないだろうか。

     オットーの「聖なるもの」では、トレメンドメント パッショナンスという言葉に示されるように、聖なるものに対して、おそれおののくとともに魅惑される、この両面をもっていることを指摘している。

     神が不在になってしまった結果、目に見えるものや目に見えない想像上の何かを神にすることになってしまっている。偶像崇拝とかフェティシズムって言うものが生まれていて、その意味で偶像崇拝は、一種の倒錯といえるのではないか。

     本来エデンの園、楽園は人間の原風景であるはずなのに、一番最初から失楽園となった人間の世界を示しているのが創造の物語である。

    聖書の世界観「神が存在する」

     聖書の基本的な世界観、あるいは、キリスト教の宣言は、天地の創造主が存在するということである。「神が存在する、ということ」、それ自体が宣言であろう。

     創世記の物語の中で、神がつくったものはよかったし、悪しき者はなかった。悪しき者の存在は、神の意図ではなかったといえよう。しかし悪しき者の存在は、人間が原因となっている。この理解から、人にとって、自分が罪人であるという理解へとつながる。(このご指摘は非常に重要と思った)

     しかし、聖書の物語は、このまま残念な状態で終わるか、と言うと終わらない。その後、アブラハムのものがたりになる。創世記12章で、アブラハムは神に声をかけられ、カルデアのウルで「私の示すことろに行け」と言われたときに、その段階で全部持っていたものを捨てて、方向すら示されていないところに行けということを神からの呼びかけとして受け止めている。

     アブラハムは、何の保証もなく、神が支配されているところに行く。その意味で、アブラハムは信仰者の原型となっている。アダムの神の要になろうとした結果、失楽園の中におかれた人間というものが、そこから信仰という形で改めて、神と結び付くことになる。

    アブラハムの信仰と失楽園からの回復

     現在、生きている世界が失楽園であることを前提として、もう一度神の声に耳を傾け、それについていくということ、それが信仰なのではないか。、

     Religioということばは、結ぶという言葉 ligare から来ていて、Reは再びなので、再び結ぶというところからきているのではないか、とアウグスティヌスはいっている。その意味で、信仰とは、神の呼びかけにしたがって少しづつ神に近づいていく。

     信仰レベルでの問題として、イサクの犠牲をかんがえるとき、ユダヤ人が経験したホロコースト【ギリシア語で全焼のいけにえ】と重なるのであるけれども、ユダヤ人が生きた歴史は、祝福の約束と真逆の世界を通っていく。

     ところで、アブラハムが捧げることを求められた愛するイサクとは、アブラハムの自我であるかもしれない、という理解も成り立つだろう。全体を無にしないと信仰は完結しない部分がある。その意味で、自分を全面的に無にするという意味で、「試み」ということと、どこかで直面するのが信仰ではないだろうか。その意味で、必然的な要素がアブラハムのものがたりのうちにあると理解できる。

    信仰と価値観
     信仰の問題は、いいかえると、「神を入れた世界観」か、「神が存在しない世界観」の問題であろう。その意味で、信仰の有無は、人生観に影響与える。人生として考えると、「神が存在しない世界観」と「神が存在しない世界観」での世界観の違いと影響は大きい。まず、この世界観の違いにより、歴史観が違ってくるし、世界観と生き方そのものとがつながっているように思われる。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    しかし、現役の教員である佐久間司祭がパワーポイントを利用したご説明であったのに比べて、今年定年を迎えられた岩島司祭が、ホワイトボードとペンでのご説明であったところが印象的であった。どうも、55歳あたりにこの辺の技術重要に関する線がありそうだ、と思ってしまった。

     しかし、この6月14日の講演会聞いていて思ったのは、お二人とも、聖書の重要性を保持しつつ、その聖書が語ろうとする「ものがたり」の奥にあるものを、信仰において(神との関係において)どう理解していくのか、というところに強調があったということであり、この辺りの聖書の読みってのは重要なんだろうなぁ、と思ったことでした。

     いやぁ、この日も濃い一日でした。

     この日の公開講座に関する別記事は以下の通り。

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半 (06/14)

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半 (06/18)

    2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」その1 (06/23)



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