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2014.06.18 Wednesday

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

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     今回も前回(上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半)に引き続き、上智大学で行われた佐久間先生による公開講座の記録をシェアいたしたく。

    オルタナティブを提起する旧約聖書
     対抗(オルタナティブ)社会という考え方がある。それは、預言者的な問題意識の提示であり、現在幅を利かせている生き方とは別の生き方を示すことである。(出た、ブルッグマンの預言者の想像力、佐久間先生もお読みかな?)このような読み方は聖書には最初からあるのである。
     旧約聖書は、被害者(アベル)側から見た世界を描く文学という側面がある。カインとその子孫は暴力に走るが、しかしカイン以外の別のもの(将にオルタナティブであるアベルの子孫)に希望があると言っているようだ。


    暴力を土台としない社会へ

     神が与える秩序としてそうせいきはえがかれている。その意味で、いのちへの道を本来示すのが創世記であろう。神の国、イエスの神の国は、まさにいのちへの道である。アベルの子孫がイエスの系図である。小さいものとして生きながら、暴力を乗り越える生き方こそ、イエスの主張であないだろうか。

     ミーちゃんはーちゃん的感想
      まるでジャン。ヴァニエかナウエンの話しか、と思ってしもうた。

    Cain&AbelW.Blake
    ウィリアム・ブレイクのカインとアベル 

     上の図に示した、ブレイク作カインとアベルは、後ろに太陽が描かれているが、これは、目のイメージであり、神の現存、神が見ているということを、太陽が見ているということで示しているようだ。
     いのちの領域からさすらうカインの姿が描かれているようだ。そして、逃げ出そうとするカインの姿勢は、アベルの墓穴に片方の足が入らんかのような状態である。いのちの世界から追放され、死の世界へ片足突っ込んでる。そのいみで、暴力は死へとつながる。

    カインは何をすべきだったのか

     神は「何ということをしたのだ」とカインに怒っておられる。「血が叫んでいる。」友おっしゃっておられる。カインのどこが悪かったのだろうか。
     その答えは、カインの応答に隠されている。「弟の番人(見守る ヘブライ語でハシャマァル)でしょうか」と答えている。同じヘブライ語は、父親であるアダムがエデンの園を耕し守る(シャマァル)にも使われている。このマァシャルという語は、ふさわしい世話をする、と理解するのが適切だろう。
      カインもこの守るという役割を弟の世話を含め、引き継いだはずなのに、それをしていないことを自ら吐露している。地を守るという権能を継ぐべき責任であることをカインは認めているものの、「弟の番人か」と神の前に開き直っている。ほんらいなら、「知りません」ですむはずのところを、逃げじゃなくて、「弟とは関係ない。父から受け継ぐのは、土地なのだ」と言わんばかりの発想である。カインの中に、アダムから利益の根源の土地だけを引き継いだ、という発想があったのではないか。
     本来、家族の安全を守る、すべての人がうまく生きられるようにするのが家の頭の役割。それを、カインは責任放棄している。そしてそのことを自白している。

    )ミーちゃんはーちゃん的感想。自己の責任放棄を、それ自己弁護して自白してどうする状態ってどっかの教会でもあったように思うけど。ね、カルト化した教会とか・・・・

     家長の役割は、本来すべきことは正しい供え物をし、家族を治めていくことであったであろう。生まれながらにして、差がついている。差があるけど、兄弟。上下の差。もつ者と持たないものの差。これは避けられないだろう。

    リーダーとしての責任

     その意味で先に生まれたものは有利なのである。上に立つものは、神との結びと兄弟の交わりに責任をもつ。差があるものだが、共に生きていけるように弱いものを守る。上のものは力をもち、自らを守るためにさらに力に頼る。

    )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、イエスの時代に神殿をねぐらにして、自己の権威性の強化に走ったサドカイ派を思い出してしもうた。NTライトの読み過ぎかもしらんが・・・・

     ここに出ている姿を見れば、人間が何をすべきかがわかるかも。暴力のアリ地獄の中に入っていくと結局滅びるのだ。違う生き方をすべきなのではないか。

    )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、ジョン・H・ヨーダーのThe Politics of Jesusとかブルッグマンの「預言者の想像力」を思い出してしもうた。

    旧約聖書が教えること
     物語は現実を見せて、現実の本質をえぐることで、何を人間がなすべきかを問いかけているのではないか。このままの世界を放置したままでも、いいですか。何かしなければいけない、ということにまず気付くことが重要なのではないだろうか。

    解決の可能性 ノア物語に見る回復
     洪水物語でノアの契約が記載されているが、ノアの洪水物語は、悪の自滅と神の赦しを描いているのではないだろうか。「神が目を止められると地に暴虐と不法が満ち溢れていた。人間は生まれた時から心に悪を思い浮かべる。」と旧約聖書に記載されているように、人間が悪であり、ノアの子孫からリセットされようとしたという記述ではないか。

     系図からいえば創世記5章はセト、エノシュ、ノアまで(10代目 完全数を示す象徴的な表現)オルタナティブの子孫の系図、その中で最も罪がないのがノアである。ある面、第2のアダムとしてのノアである。

    神の怒りと悪
     すべてのことは神から来るという想定があるのが旧約聖書の理解である。暴虐と不法をも用いる方としての神がある。神が単純に人類を滅ぼそうとしているわけではなくて、不法があるからさばきとしての災いが来る。
     神の怒りと言いながら、自分自身が悪を呼び寄せているがゆえに、神が罰せざるを得ない残念な状況が生まれているのだろう。
     このノアの物語の中には、神が後悔した、という記述があり、この記述からもわかる通り、神がやりなおそうとした物語である。そこに神のゆるしがはいっているとおもわれる。。
     もう一度再出発。もう2度と洪水を起こして滅ぼさない。創世記8:21には、「人がこころに思うことは幼い時から悪いのだ。」とされている。洪水の前と後で同じことを繰り返しており、神の目の前に。人間は同じことを延々と繰り返しているのだろう。
     人間が悪であり、悪を繰り返すことがすでに見ておられる神がおられ、もう2度と滅ぼさないと言っておられる。悪の存在を前提とし、悪に傾く人間を見守りながら、人と付き合う神であるのではないか。それが、契約としてあらわれるといえよう。

    エデンの園で示されていた神の義と祝福
      最初のエデンの園での祝福のだんかいでは、穀物が人間であり、動物は青草があたえられていた。その意味で、人間と動物は競合関係にはない。エデンの園を追放されてから、人間と人間の間に争いがおき、肉食はこの時点から始まる。肉食はある面、神から大目に見てもらっている状態だろう。動物の肉食 は仕方がないものとして、そして、本来の姿ではないけど、神からすれば、まぁ、ゆるすって状態なのではないか。
     律法には、「血を食べてはならない。血を流すものは罰せられる」世界が登場している。そして、それは傷ついた社会であるものの、神は、傷ついた社会の中での回復もイエスを通して備えておられる。

    苦しみの僕の歌から
     苦しみのしもべの歌(イザヤ書53章)を考えてみたい。ここでの若えだとは、日本で想像する力強い若枝ではなく、もともと砂地の暑いところに願うわっていて、ひょろっとでた芽そんな弱弱しい枝のこととして理解すべきではないか。だからこそ、その後の節で、風格、輝き、容姿がないといっているのだ。この風格、輝き、容姿とは、本来王が持っている性質であり、それに抵抗する力をもちえない弱い主のしもべの姿で描かれている。
     
    )ミーちゃんはーちゃん的感想 えええええ。こんな解釈考えたこともなかった。そうかもしれない。そうすると、イザヤ書53章が別物に見える。

     義人の苦しみは人々をいやすための苦しみであり、その人が悪いのではないという理解につながる。そして、それは、苦難における連帯・孤独の克服へとつながるのだ。

    )ミーちゃんはーちゃん的感想 なんか、沼田さんの今年のイースターの説教みたいですねぇ。あれはいい説教でした。

      孤独を感じ、孤独の中での無力感が、深い井戸の底、闇の中に人間を落としていくんだろう。しかし、その底に人のための苦しみを共有する人物がある。そこに友にいるイエスがいるがゆえに孤独がないのではないか。

     それこそ、理不尽な苦しみの中でも、そこに共にイエスがおられる以上孤独ではない。一人ではない、人々のために苦しんでいる貫徹されたイエスの苦しみがある。それが十字架の意味ではないだろうか。十字架がオルタナティブとしての悪、暴力の根源をいやすのではないか。死や痛みを前にして孤独の壁を打ち破るものとしてのイエスの存在を伝えることは重要であろう。そして、暴力を取り超える一つの方法ではないか。

     なんか、ホンマに上沼先生の闇を住みかとする私、闇を隠れ家とする神、ブッゲルマンか、ジョン・H・ヨーダーの本を読んでいるみたいな講演の結末でした。



    評価:
    価格: ¥3,024
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    コメント:高いけど、よい。キリスト者が神の思いを知ろうとするものとして、どのように生きるべきなのか、従来の価値概念と違うものとして生きるべきであることを示す名著。

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    コメント:薄いけどよい。暴力のはびこる社会にキリスト者としてどう生きるかが問われる本。

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