<< ミーちゃんはーちゃん的福音と世界6月号紹介(その2)最終回 | main | 枠を出ることの重要性を示す名著 預言者の想像力  >>
2014.06.10 Tuesday

世界観、Worldview ウェルタンなんちゃら ピューリタン『的』 そして 聖書『的』

0
     今日は緊急公開。今日もやけに長いですし、わかりにくいかも。しょうがない、哲学系統の話だから。明日の公開はお休みします。

     何の気なしに(いや、意図的に)水谷先生のピューリタンがどうたらこうたらって、なんかアメリカ人の言う20世紀(1970年代前半のヒッピー文化が生まれるまで)に幅を利かせたアメリカの中産階級キリスト教のキリスト者グループが保持してきた生活倫理とか、ものの見方だよね。だけど、キリスト教って言いながらも、その背景には、ギリシア哲学があって、ピューリタン的と言いつつも、実はストア派に乗っ取られ、聖書理解のカバーで覆われたストア哲学じゃないのって言いたかったことを受けて、もうちょっと、イングランドでの福音派の動き(これはあまり詳しくない)部分について、のらくらもの先生がご教示くださった。その中に最近はやりの『世界観』が出たので、「あれれ」と思ってしもうたのでちょっこし書いておこうかと。

    福音派で当たり前に使われていた『世界観』

     のらくらもの先生は次のようにブログ記事「千年王国後再臨説と世界観」でお書きであった。
     福音派が当たり前のように使う「世界観」

    え?福音派が当たり前のように使っている業界用語だとは知らなんだ。一つ賢くなった。

    福音派の世界観に影響与えた終末論という世界観
     あー、アメリカ経由の福音派がジョン・ネルソン・ダービーが拡散しちゃった終末論であるディスペンセイション主義に影響された原因の一つは、ナイアガラカンファレンスだって、ちゃんと青木先生の「アメリカに福音派の歴史」って本に書いてあるのだなぁ。ま、福音派の多くがディスペンセイション主義に影響されたその背景には、アメリカのオックスフォード大学出版会(イギリス本体ではない)から出たスコフィールド聖書や、ムーデー先生や、東洋のムーデー先生が居られたのは、まず間違いないけど。

    ミーちゃんはーちゃん、学問として世界観に出会う
     しかし、ミーちゃんはーちゃんが「世界観」ちゅう言葉を最初に聞いたのは、岩崎駿介というかなり変わった建築家の先生の都市デザイン論と言う授業であった。ミーちゃんはーちゃんは第2外国語がフランス語だったので、ウェルタンなんちゃら、って覚えてしまってドイツ語では発音できない。ゲマインなんちゃら、とかもあったよなぁ、と、ふと感慨にふける。

     図面描かせると、高速道路で自動車が空を飛んでるようにしか見えないようなデザインしか書けないほどデザイン力が最低で、住宅設計したらアイディア倒れするような破綻したデザインしかできないくせに、デザインを見るのが好きな、始末に負えないミーちゃんはーちゃん。ミーちゃんはーちゃんにデザインの才能がないことを見抜いた先生のお一人がこの岩崎先生でもあった。今では、はっきりそのことを言ってくださって、ありがたく思っている。


     確かその都市デザイン論を受講したのは、1984年だと記憶していて(何で覚えているかというと、今から見ると実に微妙なコスモ星丸で有名になった「つくば科学博覧会」が、イモ畑の上に登場する前年であり、一種わけのわからん熱気に包まれていた年でもあったからである。


    懐かしいコスモ星丸。

    世界観と都市研究、システム理論

     この授業の中で、都市や環境をどう見るのか、世界におけるデザインとは何か、ということを考えるための様々の視点があって、という説明の中で、このウェルタンなんちゃらがどうたらこうたら、何がどう見えるか、どう理解されるかってことが重要だ、という話だ、と説明受けていて、なんか認識論とか、そのあたりの話なのねぇ、という話で済んでいたとおもっていたら、今度は、大学院の1年坊主の時に、別の先生ご紹介の欧米の文献読んでいるときに、Mandara Worldviewとかで、都市内の様々の主体のかかわりがどうたらこうたらとかいう当時未公刊の論文を読まされて、「へぇ〜こんな世界もあるんか」と思っていた。



     それで、ジュリアナ東京でおねー様方が乱舞していて、男女7人夏物語に明石家さんまが出ているころに職場に就職したら、就職したで、システム論の読書会に誘われて、一般システム理論の本を読んでいたらまたぞろこのWorldviewという言葉に振り回されていた。そして、気が付いたらIan Mitroff というシステム理論の研究者の本を学生に読ませて、今度は学生を振り回しながら、現在に至っている。

    世界観がもたらした、いやらしさ
     要は、この世界観(Worldviewやウェルタンなんちゃら)は、ものの見え方で、同じものを見ても同じに見えてない(はずだ)から、自分がある対象が見えている、その見えている姿を認識できたと思っても、それ、違って見えている人が必ずいる可能性があるからね、ということで、間主観的認識がどうたらこうたら、間主観的議論がうんたらかんたら、というややこしい認識論や認識に関する哲学的議論につながっていく話なのである。その結果、心理学なんかにも影響する。その意味で、世界観とは、現代の学問体系が抱えてしまったちょっと何か議論する際にはスルーしにくい一種のややこしさをもった問題の一つでもあるのである。Kuhnのパラダイムシフトとかもそうだけど。

    世界観というメガネ
     もうちょっと平たく言うと、世界観とは物事を見るときに自然と、あるいは無意識的にかかってしまう『メガネ』あるいは、認識における『バイアス(偏向)』なのだと思うのである。これは存在するよって、バラしちゃったのが、認識に関する哲学的考察における世界観問題であり、世界観を言い出した認識論なのだと思う。この辺は技術屋の素人検討なので、正確さはない。

     そもそも、不偏不党の新聞や公正中立な新聞やマスコミなんてものは存在しないということでもあると思うのだなぁ(なので、テレビ局が公共の公器といか、公正中立な報道とかいうたびにまた無理ゲーなことをおっしゃってと思う)。
     国営放送なら公正中立だろうというのは個人的、あるいは集団的幻想にすぎない、ということをばらしちゃったのが「世界観」という危険思想なんじゃないか、と。「世界観」という言葉を用いる、ということは、「私たちは(あるいは私は)偏っています」と宣言することに等しいように思うのだけど、違うかな。

    バイアスはありまっす。(キリッ)
     少しでも科学か科学哲学をかじった人なら習うはずなのだが、バイアスのない観測結果なぞあろうはずがない。どっかこっかでみなバイアスがかかっているのだ。観測機器のバイアス、観測者のバイアスを含めて。
     その意味で、リアルに近眼鏡かけている、遠視用メガネをかけている、老眼鏡かけているにかかわりなく、みんな眼鏡をかけているんじゃないか、って言ったのが「世界観」ってことだと思う。ごくごくわかりやすく言えば。その世界観をドイツの哲学者が言い出したことにあるのだと思う。
     神学だけでなく、18世紀末から20世紀前半までのドイツは、後進国(フランスなどに比較して、の話ではあるが)でもあったために、必死こいて学問したので、哲学なんかもその時代に異様に発達した。こういう勢いのあるドイツをみて、19世紀中葉の後進国であった日本はドイツをお手本するのがよかろう、ということで、デカンショ節(デカルト〔フランス〕、カント〔ドイツ〕、ショーペンハウアー〔ドイツ〕という説もあるがどうなんだろう)にあるようにみんな洋学を勉強したのだ。
     なお、ドイツはフランスに対する戦争機械みたいなところがあったので、旧帝國陸軍はフランスからドイツに兵制のモデルを明治の割と早い段階で切り替えている。日本の大学系の神学も基本ドイツ系が多いのは、後進国であったドイツモデルを学問として輸入したから、というあたりがあるのかもしれないとは思うけど。

    聖書理解でもバイアスはあります。(キリッ)
    (小保方女子風で)
     余談に行ったが、世界観という意味では、聖書理解でもそうだと思う。ミーちゃんはーちゃんは、聖書逐語霊感説で育ち、聖書無謬論で育ったので(のらくらもの先生からは、いまだにそんな人たちがいるとは・・・と驚かせてしまうほどのガチガチのところ)、聖書『』ってことが「錦の御旗」、「葵の御紋」、「御真影」見たいな使われ方をするところで育ったのである。「聖書『」って言葉が出たら、「ははぁ、恐れ入りましてございます」って一応、最敬礼をすることが求められそうな雰囲気のところで育てていただいた。

     それはそれでありがたかった部分もあるとは思っている。うちは、プレミレをいまだに強く主張する人たちの多い絶滅危惧種の方多いですけど。それが何か?w

     ただ、私がお世話になった方は、戦時中大日本帝国憲法下での治安維持法事案に引っかかって、歯科医師免許を取り上げられたあげく、非国民扱いのみならず、広島にあった収容施設に韓国人独立運動関係者(当時韓国と台湾は大日本帝国の一部であった)と一緒に収容され、原爆にあって、山口の施設に移動中にポツダム宣言受託した関係で開放された信徒さんだったもので、その方は完全に、艱難後再臨説でした。

     で、ミーちゃんはーちゃんは何?そんなもん、「聖書に詳しくわかりやすく書いてないんやから、わからんのちゃいますか説」にたっとります。はい。
     議論するだけ無意味、という意味で、プレミレ、ポストミレ、本当にどーでもよくなっていたりします。「わからんもんはわからん。」どうせ、想像の私小説の範囲。というわけで「ハルマゲ丼、マルハゲ丼、丼、 丼、ど〜〜〜〜んちゅど〜〜〜ん」って遊んじゃう不敬虔ものですしぃ。

    アイスクリームで理解する「○○『的』」
     しかし、「聖書『』」ってことが行き過ぎると、聖書『』が『』って分をわきまえずYHWHさまに仕立て上げる方々が居られるのがかなわない。これは、行き過ぎた場合(という前提ではあるが)、ある種の偶像崇拝ではないかと思う。「『文字は殺し、霊は生かす』というパウロのお書きの意味をどうお考えなのかしらん」とはちょっこし思うのだ。『○○』ってのは、『○○のようなもの』ってことで、『○○』そのものではないとおもうのだ。
     いわば、『○○』を乳脂肪分9%くらいあるアイスクリームだとすると、『○○』ってのは、乳脂肪分4%のアイスクリーム風の「アイスミルク」から、もう乳脂肪分0%に近い「ラクトアイス」や「氷菓」まで含まれるみたいに、もう、『○○』ってのは『○○風』と同じで、自称に過ぎず、結局パチモンってことを自ら吐露しているんじゃないですかねぇ、って思ってたりしています。

     「映画『ノア』、聖書的でない」っておっしゃっている向きもあるようですが、別にいいんじゃないでしょうかねぇ。聖書を忠実に再現するために、映画を製作されておられるわけじゃないでしょうし。エンターテイメントとしておつくりなわけで。それなら、それで、よろしいのではないかと。

     「(映画化された)『ノア』は誤解を生むから・・・・」っておっしゃるかもしれないけど、それなら、批判するだけじゃなくて、もう、全世界のキリスト教界をあげてですね、お金集めて、出演者集めて、監督集めて、CGのスタッフ集めて、あれ以上のものをおつくりになられたらよろしいんじゃないですかぁ?まぁ、教派間で理解が違うから、その調整をするなかで、参加者全員聖書理解を深めるって面でも、案外それって面白いかもしれない。

     そりゃさぁ、シェークスピアの「夏の世の夢」とか映画とか劇場でやるけど、英文学者、いちいち目くじら立てて、「あそこの英語の発音がシェークスピア時代の英語と違うからうんたらかんたら」とか「日本語でやるのはうんたらかんたら」ってやらずに楽しむでしょ。それと同じように、「あーこの人たち、こう解釈したんだねぇ」って素朴に楽しめばいいのにねぇ。

     ところで、聖書的にこだわってやったら、何語でノアしゃべるんだろうなぁ。それ考えるだけでも楽しいし。いや、ヘブライ語かな、古アッカド語かな。これでやると、ユダヤ人の皆さんから、ディスられそうだなぁ。ヘブライ語の発音、変って。ww

     まぁ、キリスト教会と映画ということで言えば、カリフォルニアのバプテスト派のキリスト教会が資金援助を受けて、エド・ウッドがカルト映画Plan 9 from Outer Spaceという作品つくっているのもあり、あんまりキリスト教会と映画ってねぇ。変な映画だから、よゐ子のキリスト者はみない方がよいかもね。一応下に、その作品予告はっといたけど。





    そして、ピューリタン『的』

     その意味でも、「ピューリタン『的』」ってのは、ピューリタンでもなんでもなくて、「へたれピューリタン」、「変容したピューリタン」なんじゃないですかねぇ、と思っております。その意味で、「ほんまもんのピューリタン」じゃなくて、「パチもん(関西方言で「いい加減な」、とか、「偽の」という意味がある)ピューリタン」なんじゃないかと。
     なに、根性入ったピューリタンにあらずして、「ヘタレピューリタン」だから、といって心配する必要はござらん。安心召されよ。神は、殺人を犯したカインに対しても、愛をもって見守られ、保護されるようにされたお方でござる。我らも、似たようなもの。ふがいない我らに関しても、それでも神カインも我らも愛される方なれば。

     皆がピューリタンになることを召されているわけではないし、ピューリタンもイングランドという政治的、文化的、宗教的特殊事情の中で生まれた神学的思惟を発展させ、自らそれを自身のものにしたキリスト教界の一部でござるようにおもうのだな。この辺、ごまんあるとキリスト教と聖書理解の世界を知らず、自ら出会ったもののみをキリスト教と考える習慣、ぼちぼちやめていただけると嬉しいかな。

     そして、世界観、世界観っていうのなら、「聖書的だ」とか、「聖書的でない」とか、いちいちちっちゃなことに正義感をもってご自身のお考えの正義とか、ご自身の聖書理解を振り回すのは、もういい加減におやめになられたらよいのではないか、と差し出がましく思っている。

     「じゃ?ミーちゃんはーちゃんは聖書的って言わないの?」って?

     ミーちゃんはーちゃんは、

     「私が聖書を今まで読んで考えた限りには、こう思います。間違ってるかもしれないけど。」

    ってお話しします。基本。

     「これは私の理解なんで。ほかの理解もあっていいと思いますよ。でもどちらが正しいとかって議論って、神の絶対的な公義の前にドングリの背比べじゃございませんこと」

    ってお話しすることにしております。はい。

     「それって逃げてる」って。はいそうですよ。逃げてます。私はYHWH様ではございませんからね。
     




    評価:
    青木 保憲
    明石書店
    ¥ 5,184
    (2012-06-14)
    コメント:アメリカでの福音派の歴史だけをかなり詳細に追った日本語で読める唯一の本だと思う。英語だといっぱいあるけどね。古い部分の記述が弱いと最近の記述がないのが残念。

    評価:
    Ian I. Mitroff
    Berrett-Koehler Pub
    ¥ 10,679
    (1998-01-15)
    コメント:うちに一冊あるけど、こんな金額するんだ。へぇ。

    評価:
    シェイクスピア
    新潮社
    ¥ 529
    (1971-08-03)
    コメント:古典

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM