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2014.06.06 Friday

ピューリタン雑考

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     ブログ緊急更新しました。まぁ、補論ですわ。

     今回は長め。歴史や文化、アメリカ、アメリカ型キリスト教に関心がない人には、面白くない記事かもしれない。

     先日の中村うさぎをめぐる水谷さんのブログ記事を読みながら、これってMJD(まじで)ピューリタンのことか、のことかと思っていたら、津の服部先生がいつもながらの鋭い突っ込みをブログ記事で入れてくださっていたので、このままでもいいかなぁ、と思ったのだが、この対論の背景を書いてみたいと思ったので、ちょっと書いてみよう。

    引っ掛かった
    水谷さんのブログ記事

    水谷さんのブログでミーちゃんはーちゃんが引っ掛かった点は、以下の記述である。
     日本のプロテスタント教会は、全体として非常にピューリタンの影響が強いと言われます。個人的にはそれはよいことだ と思っています。異教的文化の中では、禁酒禁煙などノンクリスチャンとは異なるライフスタイルを際立たせるあり方は、インパクトある証だと思うからです。 私自身も禁酒禁煙主義なので、非常にピューリタン的だと自覚しています。そのこと自体は大変感謝しております。
     禁酒、禁煙や厳格な教育方針、みたいな外形的な部分がピューリタン的、というような外見性に関する部分に着目したピューリタニズムの一側面をもってピューリタンとする点である。無論、それがピューリタン的でないことは同じ記事の中でも水谷さんも以下のように記述して、本来、ピューリタンが目を向けるべき神と神との関係のことであることをご指摘ではある。

     厳格な教育は時に、「親に従うこと=神に従うこと」のように子どもに伝わってしまいます。親に従うことは最終目的ではなく、それを通じて、神を愛し従う(従うのは愛が動機)ことが、最終目的なのに、子どもの中では、本末転倒してしまいます。親の使命は子どもを自分に従わせることでなく、それを通じて神様に従うように育てることですが、子どもの目には、親が自分に子どもを従わせるようにしか見えないことも。これはクリスチャンホームによく起こる親子間の誤解のようです。

     そのことは、思春期以降の教会離れに拍車をかけます。「それゆえ男は父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、思春期以降は、親から離れながらキリストにつながるのが正常かつ健全。しかし、思春期後も、「親に従うこと=神に従うこと」が、続くと、「親への反発=神への反発」となり、「親からの自立」そのまま「教会生活からの卒業」につながってしまいかねません。

     また、親の内側で、信仰が道徳化されていると、子どもには「信仰=道徳規範」として伝達されてしまい、信仰継承の妨げになりかねません。極論すれば「いい子、優等生で、教会に行け」というメッセージばかりが伝達され、「悪い子のまま愛されているから大丈夫、そのままでイエス様信じよう」というメッセージは伝わりません。

     さらに、信仰が道徳化されると、外面的行動が内面より重視されるようになります。たとえば「礼拝、聖書、お祈り、奉仕、献金」の5点セットの実行が、信仰のアイデンティティーとなってしまいます。つまり「行動義認」となり、「信仰義認」の真逆となります。この五つの行動をしていれば、逆にそれをする際の心や動機は問われないのです。動機となるはずの愛は子どもに伝わりません。これは、「仏作って魂入れず」ならぬ「信仰生活作って愛入れず」と言えるでしょう。
    ということで、さらに、津ののらくら者先生の

    文中で指摘のあるピューリタニズムと、ピューリタン神学総説の本とかに見るピューリタン(たち)の姿が大きく違うんですよね。そう言えば、ロイドジョンズ牧師は「最後のピューリタン」と呼ばれてました。

    というご指摘を受けて、水谷さんは次のようにお書きでもある(のらくら者先生、書名入れました。ご容赦を)。
     どうも、佐藤優氏が見抜いたのも、私が論じたのも、いかにもの「日本に出回っているピューリタンのステレオタイプ」のようです。もしかすると、そもそも日本に出回っているピューリタニズムが真正ではなく、ステレオタイプなのが、問題なのかもしれませんね。神学に疎いところへの援護射撃に感謝します。私の見解は、この記事の見解を参考にして、ご検討ください
    という追記を入れておられる。

    こうなった背景

     こういうピューリタン文化的なキリスト教が生まれた背景は、どうもアメリカという国ではないか、と思うのである。

    ピューリタンとは何か

     ピューリタンの発祥の地は、イングランドであり、イングランド国教会及び大英帝国内各国の国教会(日本では聖公会がそれに相当する)からの分離派がそもそもピューリタンである。神に純粋に従おうとした人々であり、それが故に国家と対立するほどに戦った預言者的な人々であったのである。

     この辺の世俗の権力とキリスト者の関係についての議論は、ウォルター・ブルッグマン著 鎌野先生翻訳の「預言者の創造力」がよいのでそちらを参照。

    ピューリタンが建国した神の国アメリカ

     このピューリタン精神をもった人が、移住し、純粋に神とともにあろうとする自分たちのコミュニティを作ろうとしたのが、アメリカ合衆国という国であり、それは建国の精神となっているのである。この辺りに関しては、森本あんり著、『アメリカ・キリスト教史 理念によって建てられた国の軌跡』やリチャード・ニーバーの『アメリカにおける神の国』等を読んでいただくとわかるだろうし、古典ではあるが、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」等を読んでもらえばよろしい。

    アメリカという国家の二面性

     アメリカでは、裁判所から紙幣、コインに至るまで、「In God We Trust」という政治的声明を書かないと、気分が落ち着かない国なのである。その意味で、ピューリタン・キリスト教的精神とピューリタン的倫理で外面を装うことが幅を利かせている国なのである。その意味で、アメリカは確かにある面で、ピューリタン的キリスト教国ということに間違いはない。アメリカに生まれたから自分はクリスチャンだ、ということを真面目にご主張される向きが出るほど、キリスト教国なのである。

     しかし、忘れてはならないのが、実はアメリカは単なるキリスト教国ではなく、ローマ帝国のご子孫様なのでもある。ローマ皇帝を限りなく求める国家でもあるのだ。とりわけ指導者層も、そして、それはアメリカンドリームとして、指導者層以外の人々も、ミニ皇帝を目指すのである。そんな証拠がどこにある、とおっしゃるかもしれない。いや確かにあるのだ。以下の図を見られよ。


     鷲の紋章は、ローマ皇帝の紋章でもあった。もちろん、強さの象徴としてアメリカンイーグルを示しているという部分もあろう、しかし、ローマ皇帝の紋章でもあるのではないか。別に強さの象徴であれば、National Forest ServiceのマスコットであるSmokeyやカリフォルニア州旗に大書されている熊でもいいとは思うのだが。

    National Forest ServiceのマスコットSmokeyとカリフォルニア州旗

     なお、ナチスドイツもこのローマ皇帝紋章にこだわったのだ。



     こんな動画を紹介したくはない。ミーハー氏はナチスなるものが大嫌いである。しかし、ナチスドイツがローマ帝国を強く意識していることを示したいんで、ご紹介する。上記映像の冒頭部で、やや下方に下げられているナチの標章の先端部分には鷲の像がついている。45秒ごろの階段を登るシーンでそれが確認される。4分30秒ごろに出てくるでっかい鷲の像もローマ皇帝の象徴である。

     その意味で、第2次世界大戦(これは、ヨーロッパでの戦争であるので、15年戦争とは言わない。)における欧州戦線でのドイツ軍と米軍の戦いは、この鷲の紋章の継承者の正統性を武力で証明しようとするた戦いであったともいえる。いや、ヨーロッパのほとんどの戦争は、自国のローマ皇帝の後継者としての正統性をめぐる戦闘であったのだ。

     ナチスドイツもローマ帝国の正統な後継者であろうとしたし、現在のアメリカも、自らローマ帝国の後継者でありたいという意思が表れているように思うのだ。

     そして、近年のロシアも、東ローマ帝国の末であることを、鷲の紋章を使いながら主張しておられる。いまのウクライナ紛争も、そう見ると、ローマの正統な後継者とはだれか問題を武力により答えを出そうとしていると思えてならない。


    ロシア大統領旗

     ところで、アメリカの裁判所にはIn God We Trustと書かれている割に裁判所の前には、こんな正義の女神像 Lady Justiceが置かれているのを皆様ご存知であろうか。



     アメリカは、In God We Trustと裁判所に大書する精神性を保持する国であると同時に、ローマ帝国、そして、その先にある人間が中心であり、人間を崇拝してきたギリシア文化をこよなく愛する国家なのでもある。さらに言えば、アメリカの法体系は、ローマ帝国由来の法体系なのでもある。

    何が言いたいか
     余談が続いたのでわかりにくくて申し訳ないが、要は何が言いたいか、というと、アメリカは、聖書を大事にするピューリタンの国でありながらも、ローマ帝国の末裔でもあるという2重性、複雑な精神性をもつ国だ、と言いたいのである。この二重性が存在する国だと思って見ていないと、誤解するし、アメリカのキリスト教は、この二重性の中で生まれた(発酵した)キリスト教であるということをも忘れてはならない、ということなのだ。

     何、ミーちゃんはーちゃんは、アメリカという国が嫌いではない。好きなのだ。たまらないほど。

     アメリカ人に対しても、一部に「あぁあぁ」と思うことは時にあるけど、基本好きなのだ。

     しかし、アメリカ人が「これが聖書理解だ」と思っていることが必ずしも聖書そのものの主張なのではなく、どこかローマ文化、ギリシア文化の影響を無意識的に受けたキリスト教となっているのだ。それは福音派のアメリカ人、メインラインと呼ばれたりリベラルと呼ばれたりするアメリカ人のいずれでもかなり影響を受けてしまっているのだ。もちろん、人による影響の深刻さの程度は違うが。

    アメリカの二重性が生んだピューリタニズムの誤解

     アメリカ人がローマ帝国、そしてその先にあるギリシア文化への憧憬を含む、その視線の中にギリシアへの憧憬を含むことを指摘したが、その本質はストア哲学なのだろうと思う。昨日紹介した沼先生の講演録でも上沼先生のお考えを軽く紹介したが、キリスト教の中に、すでに新約時代、ギリシア哲学が70人訳聖書(新約時代に多用されたギリシア語訳の旧約聖書)に侵入し、パウロやペテロの聞き手でもあった初代教会の母体となったギリシア世界のユダヤ会堂参加者に浸透しており、そして、それがアメリカという国で、人間賛歌が基調にあるギリシア哲学を理想とする社会におけるキリスト教に影響するとしたらどうであろうか。もともとギリシア哲学と親和性が高いところに初代教会時代に70人訳聖書で持ってこられていたキリスト教の基礎が、さらにアメリカ人のギリシア哲学への傾倒により、人間中心主義的な側面が一層強化されることにならないだろうか。

    誤って理解されたキリスト者像としてのピューリタン概念

     それが、人間的な努力で、禁酒、禁煙、厳格な教育方針、親の人間的努力による信仰の無理やりな押し付けにつながっていないだろうか。そして、それが日本での外見的な目に見える「聖さ」(禁酒、禁煙、勤勉、厳格な教育…)のみを求め、本来の聖性でもあるへき「信仰者への内実としての神への依存、あるいは、神への立ち戻り」ではなく、外面的なものに置き換え、内面の聖性そのものを妨げさせるピューリタン的なキリスト者イメージを作り出すとしたらどうだろうか。勝手に目に見える聖性をおき、すべての人に人間的に生み出されたイメージから導かれる標準を強いるというのは、どう考えても問題なのだと思う。

     人間的な努力により、人間的に見て美しいとされる生き方に従うことを一方的に求めさせるピューリタニズムは、津ののらくら者先生ご指摘の通り、ちょっと違うのである。

     人間が中心になってしまったという意味で、キリスト教ですらなく、もはや人間教あるいはヒューマニズム教になり下がってしまったキリスト教のような異教なのではないか。

     中村うさぎさんは、この誤ったキリスト教のお面をかぶったヒューマニズム教の犠牲者なのだと思う。

     以下余談であるが、そもそも、禁酒が言われたのは20世紀初頭に限ったことであり、婦人参政権運動の一部としての政治的論点の一つであった。禁酒運動以外にも、廃娼運動(日本では婦人矯風会というのができた。矢島さんという方が先頭を走った。)も政治的論点になったのだ。



    当時の婦人参政権運動をほうふつとさせるMary Poppinsの動画

     禁酒運動は、アメリカではMobsとも呼ばれるマフィア排除をも目指したものであったが、それは半面後発でアメリカに到着したイタリア人とアイルランド人差別などの民族差別的なものも含まれていたのだ。つまり、プロテスタント的ピューリタニズムを背景にした集団とカトリックを背景にした集団の国家における社会的分断でもあったようにも思うのだ。禁酒法自体は、イタリア系Mobs(マフィア)を追いこめようとした結果、マフィアは地下に戻り、飲酒自体はなくならず、アルコール飲料の価格を向上させ、そして、イタリア系マフィアの代表格であるアル・カポネをのさばらせ、そして、イタリア系移民によってラスベガスが大きくなるということにつながっていくのだ。

    本来のピューリタン的生き方

     本来のピューリタンは、自分の情けなさを抱えつつも、ふがいなさを抱えつつも、それを日々自らの残念さとふがいなさを自ら見つめ、反省し、神に立ち返るべく神を求めつつ、それでも神はわれを愛したもう、というそこにかけて生きる生き方をする人々のはずであるし、そうだったと思うのだが、水谷さんご指摘のように、「信仰が道徳」化してしまったら、それは信仰ではなく、マニュアル化された「救いの文化」(スコットマクナイト著 福音の再発見から)でしかなく、もはや、福音でもなければ、神の力に頼らないという意味で、信仰でもないのだ。だからこそ、我々は、ウォルター・ブルッグマン著訳鎌野先生翻訳の「預言者の創造力」で指摘されている預言者の想像力をもって、既存のものを疑いつつ、もう一度、本来の神の御思いに立ち戻ろうとするピューリタンとしての生き方を取り戻すべきなのではないか。

     ギリシア哲学や人間中心の哲学、自己による成長という概念に自分のキリストへの信仰を置き換えるのでもなく、自分の力で神のようになるという偶像崇拝をキリスト教と呼ぶのでもなく、神と神の力を求め神と共に歩むということを。



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    コメント:絶賛。ただ、内容的に読みやすくはないし、思考力が用され、かなり背景知識が必要とされるが、重要な指摘がある本。

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    コメント:神の国を建設するという理念によって建設されたアメリカという国の宗教史。非常にコンパクトにまとまっている。そしてアメリカという国の残念さも。

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