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2014.06.05 Thursday

2014年5月に芦屋で開かれた上沼昌雄さんの聖書講演会の記録

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     本日は、2014年5月31日に開催された上沼昌雄さんをお招きして開催された聖書講演会の時に撮ったメモをもとにご紹介致そうかと。基本的に宇治で開かれたセミナーと主要部分に関しては同じなので、そちらの記録も兼ねてます。

    理想と現実のギャップ

     まず、冒頭で、ギャップ問題、特に、自分の理想と自分の現実とのずれについて、どう考えるのか、ということの問題提起がなされた。その中で、ギャップとは、「理想とそれにそぐわない自分の現実のずれ」と言えるだろう。ところで、ギャップは埋められるのだろうか。信仰が深まるとともに埋まらるのだおろうか、埋まらないのだろうのか。最終的なところで埋まるのか、埋まらないのか、ということをどう考えるのか、ということを問うてみたい。

    神学研究が有効でないという行き詰まり

     神学校で教えていたころは、聖書から理解したことを考えを巡らし、それを実行すれば大丈夫ではないか、と思っていたが、それで結局上沼先生は、行き詰ってしまわれた。三位一体の神がおられるから大丈夫、とやり過ごそうとしてきたが、それはあまりご自身にとっても有効でなかったし、牧師になっていった卒業生にも、教えたことが役に立ってない現実に直面した。

    理想的なクリスチャンよりは、
    情けなさを抱えて生きる旧約聖書の神の民

     クリスチャンのあるべき姿論(理想的なクリスチャン人生、教会、夫婦関係)が多く議論されるが、それが人々を追い詰めていくのではないだろうか。いま、なやんでいる牧師たちのための会を5月の中旬に宇治で開催しているのだが、このあるべき姿論が人を苦しめているのではないか。しかし、あるべき姿論ではなく、情けなさをあちこちに抱えた旧約聖書の話に現れる神の民こそ、神の民の現実ではないかと思わされた。

    中間時代の出来事

     旧約聖書が終わってから400年(中間時代)の出来事が、想像する以上にユダヤ教に影響した。

    トルコ(小アジア)を出発としたマケドニア帝国
    ギリシア
    ローマ
    スペイン(地の果ての国)

    アレキサンダーのマケドニア帝国は、ギリシア帝国でもあり、地中海世界に一種の共通語としてのギリシア語が広がった。

    その意味で、イエス時代のユダヤは政治体制においては、ローマ帝国であり、文化的には、ギリシア文化が幅を利かせ、宗教的には、ユダヤ教であった。

     その中で、旧約聖書のギリシア語訳が、アレキサンドリアで行われるが、アレキサンドリアは文化的中心(古代の図書館があった)でもあった。アレキサンドリアにいたプトレマイオス朝の王がユダヤ教に関心聖書に関心をもっていた。そしてできたのがおそらく70人訳なのだろう。

    ギリシア哲学と聖書

     ソクラテスの時代は、エズラネヘミアの時代の前であるが、プラトン、アリストテレスは捕囚後の哲学者である。おそらく、ギリシア哲学、少なくともギリシア文化の影響がユダヤ社会の中に入っている。その意味で、プラトンのイディア論や理想郷の概念が、キリスト教に影響していく。その意味で、近代日本でのキリスト教の多くの部分は、プラトンのイディア論をキリスト教として語ってきた部分があるのではないだろうか。つまり、理想を強く掲げる傾向があっただろう。

    旧約聖書における神とのかかわり

     出エジプトの金の子牛事件では、神にくってかかるモーセが記録されているが、それは神を困らせている感じがする。その意味で、誤解を生みやすい表現かもしれないが、旧約聖書は神が困っている物語であり、神の民自体が神が困っている問題の原因になっている。
     また、多くの場合、神が思いなおされている。その意味で、どうやっても到達しえない理想的な世界を建設する、という思いを日本のキリスト者のうちから取り外しせないだろうか、という問題意識をもっている。

    出て行くことにまねかれている信仰者

     創世記15章には、アブラハムの物語がえがかれているが、そこで、神はアブラハムに対して「出て行きなさい」とおっしゃっておられる。その意味で、ユダヤ人の信仰でもあり、クリスチャン信仰でもそうであるはずだが、本来的には、留まらず出ていく信仰であろう。
     そして、天の星を見せて、「この星々のようになる」と神はアブラムに仰せになるが、そんなことを、誰が信じられ要か。しかし、それでもアブラムは波乱から出て行った。その意味で、神は、アブラハムへの契約をいまでも守る神の誠実の神である。

    ギリシア的な理想世界では
    理解不能な旧約聖書

     ギデオンはえいゆうであるが、子供のアビメレクが70人の異母兄弟を殺している。また、士師記の最後では、レビのところにいた女性が、実家に帰っているが、この女性を実家のところに行った時、このレビ人と女性はベニアミン族のところで宿泊する。すると、ベニアミン族のワイルド・ヤンキーの皆さんがレイプして殺してしまう。これはどう考えても宗教書の記述としてはありえない話だろう。

     ところで、ベニアミン族、パウロの出身部族でもある。パウロが、「私たちの不真実があっても、神の真実は変わることがない」というとき、パウロは自民族の過去の歴史を知りぬいていた上での発言ではないだろうか。

    理想通りいかない神の民

     エゼキエル書14章の中にある神の中の正しい人物としては、ノアとダニエルとヨブが描かれているものの、全体としては、とんでもないユダヤ人の状態になっている。 
     異国の民は、天国のイメージで神の民の麗しい姿を期待するが、出エジプト、バビロン捕囚のような情けない状態は避けられないのではないか。そして、旧約聖書は祝福と呪いが並行しているというところに着目したい。

    ホロコーストで地に落ちた
    ヨーロッパのキリスト教

     キリスト教界も状態は似たようなものではないか。既に、ホロコーストを経験したヨーロッパのキリスト教はヲワコン化が進んでいるのではないか。クリステンドムが崩壊している。その背景には、ホロコーストを阻止しなかったどころか、教会は概ね加担した。そして、ヨーロッパは、ポストキリスト教の世界になっている。

     しかし、アメリカはそれを経験していないので、未だ、理想、理念系を追っている。こうすればOK、マニュアル化したキリスト教になってないだろうか。クリスチャンの集まりに行っても私たちの現実は全く変わらないという現実があるのではないか。それを自分たちで変えようとするのは無理なのではないか。むしろ、そのダメさ加減を受け止めること、そして、ダメなものはダメなものであっても、それを、生かそうとしておられる神ではないか。神の慈愛の招きの中でのみ、生きることができるし、そのために生かされているのではないか。

    キリスト教徒とパラレルな
    旧約時代の神の民

     旧約の現実の姿は、我々の姿であるだろう。信じられないことが書いてあるが同じようなことが起きるのではないか。神は神の真実を変えられない。誠実であるがゆえに、別の人を選んで何かをなさしめようとすることをなされない神であるのかもしれない。どんな状態であっても我等を愛し、回復させようとする神であるだろう。

    とはいえ、キリスト者の意義

     イエスご自身が我等を天幕として私たちのうちに住まれるのである。単なる過去からの連続ではなく、イエスを通してあたらいしいわざが与えられるし、新しい望みがかなえられる。キリストと同じように歩むことができるということは重要な側面だろう。

    イエスと旧約聖書

     イエスキリストと新約聖書、旧約聖書を考えてみたい。我々は、モーセの律法は終わったととっているが、イエス自身も律法の一点一角も落ちない、とおっしゃっておられる。むしろ、律法の要求が私たちのうちに実現するとおっしゃっておられる。

     旧約が生きているといっても、儀式とかのすべてではなく、中心的な神の思いが実現するのである。旧約で何が大事か、ということに関しては、「こころを尽くし神を愛せ、自分人を隣人のように愛せ」と言っておられる。マタイの福音書では、イエスに律法学者が尋ねているが、ルカの福音書では、律法の専門家が試そうとしておられる。そこで、律法学者がイエスに「永遠のいのちを自分のものとするためにどうすればいいか」と聞くが、イエスは聞いた律法学者に「あなたはどう考えているのか」と聞き返す。するといえすは、「神を愛すること、隣人を愛することの2つともが大事であり、それをすれば、命を得る」と言っておられる。

     この「隣人を愛せ」はレビ記の中の一か所でしか言われてないことである。在留異国人が決して飢えることのないように、やもめとみなし子が飢えることがないように配慮せよと続いている。その背景には、あなた方ユダヤ人も在留異国人であった。これらの社会的弱者を保護しなければ、神は「殺す」と厳しい言葉で言っておられる。

    旧約律法のユニークさ

     どうしたら、ギリシア人がうまく治められるか、ということで政治哲学が生まれてきたが、しかし、ギリシアの政治哲学には、在留異国人や、やもめの存在が入ってないのである。また、7年目には、「土地を休ませよ。奴隷を解放せよ。」とおっしゃっておられる。また、7年の7倍49年の翌年がヨベルの年。50年目に土地の売買があっても原状回復せよとおっしゃっておられる。これは資産配分の偏りを防ぐためであったのではないか。近年国際債券市場で行われた後発国家への債権放棄は、国連におけるヨベルの実現なのである。

    やもめとイエス 

     この律法における、買い戻しの権利、異国人、やもめが全部出てくるのがルツ記である。このルツからボアズが生まれ、エッサイ、ダビデ、そして、その後継者としてのイエスへとつんがる。
     また、ルツは、モアブの民であり、不品行的な行為で生まれたモアブの出身である。

    出ていくように
    招かれているキリスト者

     「愛することと生きること」と「平気でうそをつく人たち」を書いたスコットペックは、カウンセリングを行った人であるが、彼が指摘していることは、愛するために自分の殻を破りでていったのがイエスであり、精神的に成長するためには、イエスのように外に出ていくことが重要である。自分から外に出ていくことがイエスの行為である。と、スコットペックは、クリスチャンでなかった時に書いた。そして、クリスチャンになって書いたのが、「平気でうそをつく人たち」という本であり、この平気でうそをつくのは自己愛に浸っているからであり、何でも他人が悪いと片づけてしまうナルシストなのである。

    神に手を伸ばして
    出ていくべきキリスト者
     その意味で、自分から神に向かって手を差し伸べていくのがキリスト者であろう。私の現実をみて、ダメだ、ダメだというのではなくて、自分のふがいない現実を通して神のいのちが我々に浸透していくのではないか。

    大体こんな感じのお話しでした。

    まとめとその後の
    ミーちゃんはーちゃんの中での共振

     なんか、これ書きながら、沼田先生の先日の説教を思い出しましたし、また、ヤンキー牧師の中村うさぎさんとの関係で書かれていたピューリタン的な自己を自己努力で霊的な純化というか聖化を進めていこうとすれば、それは、そもそも無理ゲーであるし、その無理ゲーのひずみが、厳格なほぼ無理ゲーの生き方を求める親をもつキリスト者2世を苦しめ、そして、その生き方を求める親であるキリスト者自体をも苦しめるし、結果として、日本のプロテスタント教会関係者における閉そく感をもたらすのだろうなぁ、と思いました。

    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,296
    (2002-10-07)
    コメント:翻訳に癖があるが、神に向かって手をひらいていくことが示されている。

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    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:旧約聖書的な世界と村上春樹の世界を対比させながら、われらが闇の住民でありつつも、神がそこにイエスとして降りてこられたことの意味をご指摘。名著。

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