2014.05.13 Tuesday
「篠田麻里子牧師」再考 21世紀の日本キリスト教会とキリシタン
今回は、緊急公開。通常は水曜日と土曜日にしか公開しないのだが、今回は特例。
今回は、短いしわかりやすいはずだけど、毒はかなりあるかも。
ミーちゃんはーちゃん個人として水谷さんには大変お世話になっているし、尊敬している。その働きは尊いと思っているけれども、今回の記事は、いかがかと思うので、あえて、一言苦言申し上げたい。
多分、水谷潔さんが本心で思っておられることと、この記事の主張は同じだと思うけれども。
「篠田麻里子牧師」!?
水谷潔さんのブログ記事で、
育てよう健全牧師(57)篠田麻里子牧師
という記事が挙げられていた。水谷潔さんによると、「篠田真理子牧師」とは
のことらしい。
これを読んで、こう思ってしもうた。
それ、無理ゲー。それ、NGワード
「 潰れるつもりで来てください」ねぇ。はぁ?
それ、無理ゲー。
それ、NGワードではないかと。
それ、基本、戦艦大和の片道燃料沖縄行きと同じ。
それ、昭和的発想ではないかと。
同記事の中でも、ご指摘されておられるが、昭和的な発想に耐えかねている若い牧師、消耗品のように使い捨てられている若い牧師たちがおられる。人材の使い捨てをするブラック企業並みである。
人材の使い捨て、それ、
神の教会がすることか?
人材の使い捨てを前提にすることは、神に愛されている人を愛するはずの教会がすることだろうか。いかに教会の現実が厳しくとも、それは禁じ手ではないだろうか。それこそ、特攻精神であり、人格の無視、神の主権への侵害ではないだろうか。
確かに厳しい教会の現実
確かに教会の現実は厳しい。「潰れるつもりで来てください」と呼びかけないといけないほど、確かに教会の現実は厳しいのはわかる。しかし、その教会に悔い改めを求めることの方がよほど重要ではないか。そのことこそ、喫緊の課題ではないだろうか。そのことこそ、旧約聖書の預言者として荒野で叫ぶものとしての召命を受けた牧師のなすべきことではないだろうか。言葉が過ぎるかもしれないが。
それを召命もないのに、勢いで献身するようにあおるように呼び掛け、そのうえ挙句の果てに、「潰れるつもりで来ている」ことを若者に求めるとすれば、それは人権上問題があろうし、一般の社会通念の上から言っても倫理的に問題があるのではないだろうか。
昔から厳しかった牧師(司祭)の生活
それを支えたノブレス・オブリージュ
確かに牧師の現場は厳しい。それは、18世紀のジェーン・オースティンの時代からそうであり、司祭(牧師)の娘は、はやくから、メアリー・ポピンズのようなナニー(家庭教師)となり、宿飯付の職業婦人として働きに出されるのが英国でごく一般的に見られた姿のようである。それほど、貧しかったのである。しかし、彼らを支えたのは、彼らの社会階層であり、出自であり、わけわからないラテン語が出てくる説教ばかりだ、と揶揄されながらも、一定の尊敬を集めた社会階層であったからだし、一般市民も牧師や司祭、海外伝道者ということで評価をしたからこそ、彼らは貧しくとも、ノブレス・オブリージュ(地位あるものに伴う責務)が彼らを支え、その結果として悲惨な状況にありながらも奉職したのだと思う。このあたりの精神世界は「炎のランナー」に表れている。あの作品が主張しているのは、実はこの部分なのだ。単なるスポーツ映画としてみてはいかんのだ。この辺、多くの日本のキリスト者はわかってあの映画を見ていないように思う。
しかし、近代の行き着いた先のノブレス・オブリージュが成立しない現代日本という社会の中では、誰も潰れたくないんじゃないですかねぇ。だたでさえ絶滅危惧種のまともな神学生がさらに減るだけではないかと思う。
なぜあなたは牧師を目指すのかが重要では
「神からの招き」と「自分勝手な献身」の区別もつかない段階の若者がむやみやたらと勢いで神学校に行くことも問題だけど、また、牧師という職に永久就職するつもりで神学校に行く人も問題だけれども(これ、現実にあったらしい)、牧師を使い捨てにする教会って、どやさ。
ノブレスであるが故の安息の重要性
牧師になった後、ノブレスとしての評価のかけらも存在しない、信徒のレベルに議論と基準を無理やり引きずり落とすことを悪としない社会の中で、自己研鑽の時間と機会奪えば、牧師が充電切れ直前の携帯電話状態になるのは当たり前。プロテスタントの牧師には、相談する先すらないのが牧師の現実。
そうであるとするならば、安息(サバティカル)は、牧会者のための霊的充足のためにあるような気がするなぁ。実に。
信徒もすなり牧会
いろいろご高説をお持ちの信徒の方には、一度、司牧職をしていただく方が、よほど健康的な解決策ではないかと、個人的には思う。「そこまで言うならやって見なはれ」と。そのうえでどうするかを検討してみればよいのではないか。
最近はやりの中学生の就業体験の生徒さんを10年くらい前に職場で受け入れたことがあるのだが、その時、中学生が中学校の教師を軽くバカにしていたので、「そんならお前さんらに大人の前での講師させたるわ」と10人くらいの中学生に、「なぜ、中学生が学校に行くのか」ということを日本国憲法、教育基本法やそのほかの本を読ませ、考えさせたうえでPowerPointのスライドを作らせ、30人くらいの大人の前で20分くらい話させたことがある。彼らは、「二度とこんなことをしたくない」と言っていた。人前で自分の人格をさらしてしゃべることの現実の恐ろしさを味わったようだ。付言しておくと、その中学校からは翌年から私のところの職場に就業体験に来なくなった。
キリシタンの時代に戻したら?
キリシタン時代、迫害に耐えたのは、神父なしに教会運営ができたのは、コンフラリアという信徒共同体が存在したかららしい。上智大学の川村先生によると。当時のキリシタン信徒の数に比べて、司祭(神父)の数は極端に少なく、その結果、司祭たちは、日本国中の教会から教会へと(といっても九州中心)を走り回っていたらしい。そして、自分たちで自分たちのためのミサを自分たちでできることを実現できるように、各地に信徒集団であるコンフラリアを形成していったらしい。
いま、わが国では牧師の数は激減しており、現実的に共同牧会や巡回牧会が地方部では当然になっている。そうであるとすると、それこそコンフラリアをどう形成するのか、そのためにどう司牧たちが動くのか、そのためにどのように信徒のための自立及び自律教育を進めていくのかの具体的な方策を考え、設計図を描く作業が、現在の日本で司牧達に喫緊の課題として求められているのではないだろうか。そして、司牧が司牧の本来の業務に立ち戻り、司牧としての役割をとりもろし(安部ちゃんふうで)、信徒と司牧の共依存関係(信徒は神の代わりに目に見える敬愛の対象として司牧を必要とし、司牧は自分の感情のはけ口、本来の聖書的でない愛や感情を向ける対象としての信徒を必要とするという共依存関係)を脱するために。
目指せ、コンフラリア。
今回は、短いしわかりやすいはずだけど、毒はかなりあるかも。
ミーちゃんはーちゃん個人として水谷さんには大変お世話になっているし、尊敬している。その働きは尊いと思っているけれども、今回の記事は、いかがかと思うので、あえて、一言苦言申し上げたい。
多分、水谷潔さんが本心で思っておられることと、この記事の主張は同じだと思うけれども。
「篠田麻里子牧師」!?
水谷潔さんのブログ記事で、
育てよう健全牧師(57)篠田麻里子牧師
という記事が挙げられていた。水谷潔さんによると、「篠田真理子牧師」とは
「潰れるつもりで来ている」牧師のこと。つまり、厳しい昨今の状況を把握しており、牧会現場に遣わされていく際に「潰れるつもりで来ている」牧師
のことらしい。
これを読んで、こう思ってしもうた。
それ、無理ゲー。それ、NGワード
「 潰れるつもりで来てください」ねぇ。はぁ?
それ、無理ゲー。
それ、NGワードではないかと。
それ、基本、戦艦大和の片道燃料沖縄行きと同じ。
それ、昭和的発想ではないかと。
同記事の中でも、ご指摘されておられるが、昭和的な発想に耐えかねている若い牧師、消耗品のように使い捨てられている若い牧師たちがおられる。人材の使い捨てをするブラック企業並みである。
人材の使い捨て、それ、
神の教会がすることか?
人材の使い捨てを前提にすることは、神に愛されている人を愛するはずの教会がすることだろうか。いかに教会の現実が厳しくとも、それは禁じ手ではないだろうか。それこそ、特攻精神であり、人格の無視、神の主権への侵害ではないだろうか。
確かに厳しい教会の現実
確かに教会の現実は厳しい。「潰れるつもりで来てください」と呼びかけないといけないほど、確かに教会の現実は厳しいのはわかる。しかし、その教会に悔い改めを求めることの方がよほど重要ではないか。そのことこそ、喫緊の課題ではないだろうか。そのことこそ、旧約聖書の預言者として荒野で叫ぶものとしての召命を受けた牧師のなすべきことではないだろうか。言葉が過ぎるかもしれないが。
それを召命もないのに、勢いで献身するようにあおるように呼び掛け、そのうえ挙句の果てに、「潰れるつもりで来ている」ことを若者に求めるとすれば、それは人権上問題があろうし、一般の社会通念の上から言っても倫理的に問題があるのではないだろうか。
昔から厳しかった牧師(司祭)の生活
それを支えたノブレス・オブリージュ
確かに牧師の現場は厳しい。それは、18世紀のジェーン・オースティンの時代からそうであり、司祭(牧師)の娘は、はやくから、メアリー・ポピンズのようなナニー(家庭教師)となり、宿飯付の職業婦人として働きに出されるのが英国でごく一般的に見られた姿のようである。それほど、貧しかったのである。しかし、彼らを支えたのは、彼らの社会階層であり、出自であり、わけわからないラテン語が出てくる説教ばかりだ、と揶揄されながらも、一定の尊敬を集めた社会階層であったからだし、一般市民も牧師や司祭、海外伝道者ということで評価をしたからこそ、彼らは貧しくとも、ノブレス・オブリージュ(地位あるものに伴う責務)が彼らを支え、その結果として悲惨な状況にありながらも奉職したのだと思う。このあたりの精神世界は「炎のランナー」に表れている。あの作品が主張しているのは、実はこの部分なのだ。単なるスポーツ映画としてみてはいかんのだ。この辺、多くの日本のキリスト者はわかってあの映画を見ていないように思う。
しかし、近代の行き着いた先のノブレス・オブリージュが成立しない現代日本という社会の中では、誰も潰れたくないんじゃないですかねぇ。だたでさえ絶滅危惧種のまともな神学生がさらに減るだけではないかと思う。
なぜあなたは牧師を目指すのかが重要では
「神からの招き」と「自分勝手な献身」の区別もつかない段階の若者がむやみやたらと勢いで神学校に行くことも問題だけど、また、牧師という職に永久就職するつもりで神学校に行く人も問題だけれども(これ、現実にあったらしい)、牧師を使い捨てにする教会って、どやさ。
ノブレスであるが故の安息の重要性
牧師になった後、ノブレスとしての評価のかけらも存在しない、信徒のレベルに議論と基準を無理やり引きずり落とすことを悪としない社会の中で、自己研鑽の時間と機会奪えば、牧師が充電切れ直前の携帯電話状態になるのは当たり前。プロテスタントの牧師には、相談する先すらないのが牧師の現実。
そうであるとするならば、安息(サバティカル)は、牧会者のための霊的充足のためにあるような気がするなぁ。実に。
信徒もすなり牧会
いろいろご高説をお持ちの信徒の方には、一度、司牧職をしていただく方が、よほど健康的な解決策ではないかと、個人的には思う。「そこまで言うならやって見なはれ」と。そのうえでどうするかを検討してみればよいのではないか。
最近はやりの中学生の就業体験の生徒さんを10年くらい前に職場で受け入れたことがあるのだが、その時、中学生が中学校の教師を軽くバカにしていたので、「そんならお前さんらに大人の前での講師させたるわ」と10人くらいの中学生に、「なぜ、中学生が学校に行くのか」ということを日本国憲法、教育基本法やそのほかの本を読ませ、考えさせたうえでPowerPointのスライドを作らせ、30人くらいの大人の前で20分くらい話させたことがある。彼らは、「二度とこんなことをしたくない」と言っていた。人前で自分の人格をさらしてしゃべることの現実の恐ろしさを味わったようだ。付言しておくと、その中学校からは翌年から私のところの職場に就業体験に来なくなった。
キリシタンの時代に戻したら?
キリシタン時代、迫害に耐えたのは、神父なしに教会運営ができたのは、コンフラリアという信徒共同体が存在したかららしい。上智大学の川村先生によると。当時のキリシタン信徒の数に比べて、司祭(神父)の数は極端に少なく、その結果、司祭たちは、日本国中の教会から教会へと(といっても九州中心)を走り回っていたらしい。そして、自分たちで自分たちのためのミサを自分たちでできることを実現できるように、各地に信徒集団であるコンフラリアを形成していったらしい。
いま、わが国では牧師の数は激減しており、現実的に共同牧会や巡回牧会が地方部では当然になっている。そうであるとすると、それこそコンフラリアをどう形成するのか、そのためにどう司牧たちが動くのか、そのためにどのように信徒のための自立及び自律教育を進めていくのかの具体的な方策を考え、設計図を描く作業が、現在の日本で司牧達に喫緊の課題として求められているのではないだろうか。そして、司牧が司牧の本来の業務に立ち戻り、司牧としての役割をとりもろし(安部ちゃんふうで)、信徒と司牧の共依存関係(信徒は神の代わりに目に見える敬愛の対象として司牧を必要とし、司牧は自分の感情のはけ口、本来の聖書的でない愛や感情を向ける対象としての信徒を必要とするという共依存関係)を脱するために。
目指せ、コンフラリア。
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- コメント
- 苦言としてではなく、補足訂正として読ませていただきました。あくまで伝道者希望者に向けて書いた記事で、厳しい現状を伝える意図の記事です。実は、一般の読者には、あえてNGワードを発信することによって、教会側の伝道者を潰す体質やベテランの牧師の無理解などを浮き彫りにする意図があったの記事です。
文字通りお読みになれば、苦言をいただくのは当然のことです。そのように読まれた読者には申し訳なく思っています。そして、既に見抜いておられるように、本心で思っていることは、同じなのですね。その意味で、今回の苦言は、私が受ける誤解を解いて下さり、なおかつ、本当に発信したかったことを伝えて下さったという意味で、苦言ではなく、最高のサポートして、感謝しています。 -
- 水谷潔」
- 2014.05.13 Tuesday 08:47
- 水谷潔様
意図を正確にご理解いただき、御礼申し上げます。
ただ、あの文章、正確に意図を見抜かず読むと、「つぶされるために献身者となれ」というふうに読めるのです。ご主張の本義的には正しくても、そう誤解された牧会関係者がおられたので、補足する意味でも、あえて苦言と書きました。
それにですね、J-Passionとやらの最後で、あまりに安易な献身者への呼びかけがどうもあったこともあるらしく(参加いたしてないので正確には、わかりませんが)、若者の素直な情熱と熱心だけに訴え、献身を呼び掛ける新手のBill* Graha+ 風のメッセージには、正直違和感を感じます。そしていたいけな若者が多く消耗戦に突入されて行く姿は、まるで学徒出陣。この国はいつまでたっても学ばないのか、と実に残念に思っております。
そのため、宇宙戦艦ケンシンシャ
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=554
という替え歌まで歌わねばならぬほどだったのです。(半分冗談としても)
それもありまして、毒を吐きました。
本当はね、ノブレス側である現行のノブレスであるはずの牧師先生の一部のあまりの不勉強にも絶望感を抱いているのですよ。たたき上げであられるのは結構ですが、少なくとも、高学歴化が進んでいる現代において、もうちょっとノブレスと呼ばれるにふさわしい、聖書的教養はもちろん、聖書外のこともご発言になられるのであれば、聖書以外のことに関する教養、できますれば日本の近現代史、日本の宗教思想史などを含め、これらの涵養と思索の時間をお取り下され度思っておりますのは、伊那谷牧師と同じでございます。
サポートとしてのご理解、深く感謝いたします。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.13 Tuesday 12:51
- 実際に、そのように読まれた教職がいるのでしたら、改めて苦言を感謝します。私の表現力と配慮の欠如です。後記で呉解が起こらぬよう本来の趣旨を記しました。また、「篠田麻里子牧師」の記事のフォローであり、それと対をなす記事を予定通り今夜アップします。ご一読いただければ幸いです。
-
- 水谷潔
- 2014.05.13 Tuesday 16:28
- 水谷潔様
真摯なご対応いただき、いたみいります。先の篠田真理子牧師の記事に対して、実際に貴ブログ記事をFB上でご紹介した際に、誤読された旨のご意見をお伝えいただいた教職の方がおられましたので、真意はこの辺りではないか、ということをFB上で申し上げました。
記事紹介のFB上でのミーちゃんはーちゃんのコメント
---------------------
潰れるつもりで来てくださいねぇ。
それは無理ゲー、それ、NGワード。
それ、基本、戦艦大和の片道燃料沖縄行きと同じ。昭和的発想ではないかと。
ノブレス・オブリージュが成立しない社会の中では、誰も潰れたくないんじゃないですかねぇ。だたでさえ絶滅危惧種のまともな神学生がさらに減るだけではないかと。
英国での17-19世紀に貧乏司祭が制度としてかろうじて成立したのは、司祭になる社会階層の精神としてのノブレス・オブリージュが彼らを支えたからではないかと。
「神からの招き」と「自分勝手な献身」の区別もつかないで神学校に行くことも問題だけど、牧師になった後、ノブレスへの評価のかけらも存在しない社会の中で、自己研鑽の時間と機会奪えば、充電切れ直前の携帯電話状態になるのは当たり前。
安息(サバティカル)は、牧会者のための霊的充足のためにあるような気がするなぁ。
いろいろご高説をお持ちの信徒の方には、一度、司牧職をしていただく方が、よほど健康的な解決策ではないかと。
目指せ、コンフラリア。
---------------------
ある教職の方からのコメント
---------------------
どうもこのブログ主の方の言い分は、私にはついていけないものがあるんですよね。どこがどうだから、というのはよく分からないんですけどね。この人が「教会」とか「牧師」とか言っているときに、その「教会」や「牧師」の中に自分自身が含まれていないかのような書きっぷりのように、私などには感じられてならないんですよね。自分自身はぜんぜん痛み、感じてないでしょ。少しでも痛み感じたら、そういう書き方できないよね、という書き方を平気でしてます。
----------------
それを受けてのミーちゃんはーちゃんのコメント
----------------
これ「いいね」じゃないんですよ。ほんとは。「あかんで」なんです。逆いいねがほしいんだけど、それがなかったんで、こんな感じに。
結局、神からの招き理解がいい加減な神学生の方も多いし、そして消耗している。そして、牧会者と会衆と言う間で生まれるダイナミズムが日本の教会でないことが一番の問題だとにらんでいます。
日曜日は、伝道者や牧師の独演会を聞く場になっているのかもしれません。残念なことに。しかし、そうであっても全ての教会で語られる神の言葉に力があることを信じ、神がダイナミズムを生み出されることを信仰によって確信したいと思います。
-------------------
続きます。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.13 Tuesday 17:05
- (承前)
というやり取りがあったので、もう少し、こう書けば水谷先生のご真意が伝わるか、と思い、大変失礼ながら記事にて、ご諫言申し上げた次第。
この教職の方、先生のブログをお読みいただいたことが初めてであったために、このようなことになられたのではないかと存じます。以前から読んでおられたら、水谷先生の危機意識を十分共有していただけて、ひざを打っていただけたかと思うのですが、今回初めてで、従前のコンテキストなしに読むとこうなると思うのです。
ご寛恕賜れば幸甚。
今夜の新規のご投稿楽しみにいたします。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.13 Tuesday 17:09
- はじめまして。
「真実なクリスチャンライフを求めて」というブログを書いております仁保と申します。
時々、検索結果として覗かせていただき、私にとって大変勉強になっております。感謝申し上げます。
恐らく私も水谷先生には当事者意識が無いと誤解していた一人です。しかし、ミーちゃんはーちゃん様のこのフォロー記事を見ても確認できましたが、「篠田麻里子牧師」の記事だけは初めから私は誤読していなかったようです。
問題は深刻ですね。
-
- 仁保裕介
- 2014.05.14 Wednesday 01:28
- 仁保裕介様
はじめまして。ミーちゃんはーちゃんでございます。コメントありがとうございました。仁保様のブログ、私も時々拝見させていただいております。
最近、あれ?と思う記事も時々出てきてましたので、ご諫言申し上げた次第。水谷さん、何度かリアルでご交流があるので、大丈夫だろうと踏んでのことでございます。
水谷さんのブログ、キリスト教業界のお化けブログなだけに、影響計り知れず、ということで今回の顛末となりました。
仁保様の上に平安がございますように。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2014.05.14 Wednesday 04:48
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