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2014.05.05 Monday

福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙

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     今回の記事は、長いけど、読みにくくないと思います。ミーくさんへのコメントへのお返事ですから。コメント欄で書ききれそうにないので、記事に昇格いたしました。

     今回、こどもの日スペシャル、緊急公開でございます。

    meek様

     meekさんも福音の再発見を気にいって頂いたようで本当によかったです。

     あ、ちょっとね、マクナイトさんて乱暴もんなんですよ。その辺ミーちゃんはーちゃんと似ていて、「マクナイトせんせ〜〜〜、もうちょっとまともに書いてくださいよ〜〜〜〜」って思うところ多々あるんですね。

     その点、年内に出てくるはずのNTライトの著作は、かなりリジットに作業している感じはします。

    カレドニア様のコメントに至る
    一件の経緯


    >そこでCaledonia様とのそのそもそもの発端となったコメント欄を読んでみたい
    >と思うのです。こちらのブログは膨大な情報量がございますね。どちら にその
    >Caledonia様とのコメント欄があるのか、自分で見つけることができませんでし
    >た。お手数ですが、どの部分を読めばそのコメント欄にたどりつ けるか教えて
    >いただければうれしいです。

     数量的に膨大なのは、水谷潔さんの方。私のは単にたらたらと書く悪癖があり、一つの記事が長いだけなんですけど。

     では、ご要望にお応えして、Caledoniaさんとの出発点になったのは、

    そもそもの出発点はこの記事で、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=262
    これに、mさんというわが教派の方がコメントくださったことが遠くの出発点につながっているのです。

    mさんのコメントがあまりに大事な内容を含んだものだったので、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271
    ↑に、Caledoniaさんが最初にコメントくださったのが始まりです。


    そして、Rob BellのLove Winsで発想が広がり(というよりは拡散して)、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=275

    さらに、その記事から発展して、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=277

    それから、また発想が広がり、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=278

    そして、マクナイトの本の紹介に
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=280

    全体のある段階で以前の整理したものがこちら。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=284

    晴佐久さんの紹介なども。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=292


    律法主義・道徳主義の侵入の要因

    >わからないのは「救い」とは本来、神様の恵みが人に及ぶことなのに、それが
    >人の営みとしての「文化」になる時(確かに矮小化されてしまうかもしれない
    >けど)なぜ律法主義とか、道徳主義が入り込んでしまうのだろう?ということです。

     救いの文化に律法主義や道徳主義が侵入していく、その入り方ですが、救いの文化というのは、パターン化された福音の述べ伝え方の行動パターンのことだと思うのです。つまり、ありていに言えば、「カミ・ツミ・スクイ」の三段論法的な伝道お便利ツールをそのまま無批判に受け入れ、そして、それを繰り返し繰り返し語っているうちに福音の本来の豊かさが、単純化単純化により落ちていき、かなり変質してしまう。そこに、本来の福音とのずれが生じてしまいます。

    チキンカレーによる
    福音の文化への変容の説明


     わかりやすいたとえとして、チキンカレーライスのカレーを考えましょう。日本のチキンカレーライス(福音の文化)は、オリジナルであるはずのインドのチキンカリー(福音そのもの わかりやすくするためにカリーと書きます)の一種異形の発展形だとおもうのです。確かに、日本のカレーにも、香辛料や野菜、チキン(神も罪も救い)も入っているし、もともとのインドのカリーにも、これらのものは入っている。

    インド人から見たらカリーではない日本のカレー
     しかし、インド人に日本のチキンカレーライスは、インドのチキンカリーとおなじものですか?って聞いたら、彼らはこれは私たちの食べているチキンカリーではないというでしょう。似ているけど。下手したら、日本のチキンカレーのほうがおいしいというかもしれない。

     では、どこが違うのですか、って聞けば、

     「日本のチキンカレーには、ジャガイモとかニンジンなんかが入っているし、インドのはもっと辛いしサラサラしている。こんなねっとりはしてないから、違う」

    って言うと思うんです。(実は、インド風カレーフリークなんで)

    日本で独自に発展したカレーのルー
     でも、日本人は、チキンカレーと言えば、ジャワカレー(ジャワって確かインドネシアですよね)とか、バーモントカレー(これにいたっては、アメリカの地名ですよね)にチキンを入れて作るカレーがチキンカレー。彼らのチキンカリーみたいに何種類もの香辛料から作らないから、結構どろどろの小麦粉や増粘剤入りのカレールーで作ったお手軽カレーをカレーと総称してしまう。

    本物見るまでわからないカリー
     この問題と似てると思うんです。インドに行って、インドのレストランに行って、インド人相手に商売しているインドカリーを食べるまでは、チキンカレーってジャワカレーなどのルーと野菜とチキンを煮たものになってしまいます。

    福音の文化というお便利ツールに
    入っている小麦粉や増粘剤にあたるもの

     したがって、本来の福音には含まれていたものの量が相当落ち、含まれていなかったはずのものが含まれているという問題です。カレーのたとえで言えば、含まれているはずの肉や野菜がちょっぴりになり、含まれていなかったはずの小麦粉や増粘剤などに当たるものがふくまれてしまう。例えば、本来含まれていたはずの旧約聖書のメシアや人々の間におられる神にして王としての部分が落ちていく。そして、その代わりにギリシア哲学からの要素やヨーロッパの歴史的経過の中で含まれて行った歴史的経緯から生まれた神学的思惟(たとえば、義認についての代罰説の一部の偏った解釈論やリバイバル神学で語られた地獄概念やディスペンセイション神学から生まれてきた特殊な終末論である携挙論)等がたっぷりと加えられます。これが増粘剤とか小麦粉に当たる部分だと思います。
     そして、その増粘剤や小麦粉の部分が聴衆のウケがよいから、と増粘剤部分を増やしていく。そして肥大化して、増粘剤(聖書の本来的な主張とは、かなり違い神学的理解)だらけのカレールーで神・罪・救い、そして人と共に歩もうとした王としての神をほんのちょこっと申し訳程度に入れたカレーを「これがカレーであるぞよ。控えおろう」という福音の文化が出来上がってしまう。

    代々薄まっていく野菜や肉のエキス
    代々薄まっていく福音のエキス

     そして、その前の代が「これがカレーであるぞよ」と、次の代に言えば、次の代は次の代で「これがカレーというものか」と受け取り、さらに、肉と野菜と香辛料を減らしたものを、「ひかえぃ、控えぃ、控えおろう。このカレーが目に入らんか」と、またまたカリーから遠くなったものを、カレーと称して提示する。つまり、劣化が始まるんですよ。

    聖書のみ、聖書に戻れの重要性

     だから、Sola scriptura(聖書に戻れ、本源に戻れ)を言わないといけないが、それって結構面倒なので、先人の出したカレーにさらに増粘剤と水入れて、「はい、これがカレーです」って、「カレーうろん」のカレーより薄いカレーで作ったカレー汁をご飯にかけたものを、カレーライスだって恥ずかしげもなく出しちゃう。

    とりもろす!福音そのものを
     福音の文化には、福音の要素は確かに入っているのだけれども、本来的な福音でないものまでが含まれて行ってしまうのです。それを引っぺがして、本来の福音を「とりもろそう!」、そして、神が王として人と共に歩まれ用としておられる、という旧約聖書との一貫性を持った神と人が共に生きるという生き方を含めた本来の神の主張をもっと強調しよう、本来の福音を「とりもろそう!」というのが、福音の再発見の面白さ、なんです。出している方が言うのも変だけど。

    繰り返しコピーでの画像の劣化と
    繰り返しコピーによる福音の劣化

     別の例でいえば、コピーしたものをさらにコピーして、またそれをコピーしてって作業を100回くらい繰り返した状態。以下にデジタルコピーの劣化が少ないからって言っても、100回もしたら、劣化して使い物にならなくなる。それとおんなじなんです。

     そういえばね。うちの教派で大阪方面にやたらと若者を中心に影響力の強い巡回伝道者がいるんです。その方がね、北関東の教会でお話になられた。そうしたら、次の週、その教会の若い信徒さんが突然関西弁で、日曜学校だか何だかで、その影響力の強い巡回伝道者そっくりの口調で話し始めたそうで、そこの教会の責任者が、唖然としてあいた口が・・・なったそうです。

     それと同じことが過去にも福音の文化の形成でおきたんだろう、とは思います。

    家電系メーカのおまけのたっぷり付いた家庭用PC
    専業メーカのおまけのないベアボーンPC

     別のたとえを使うと、PC系の用語で言うと、おまけソフト捨てて、ハイスペックのベアボーンPCを作ろう、というのがマクナイトの主張なんです。PCのメーカーだと、Nとか、FとかのPC買うと、いらないおまけソフトがいっぱいいっぱい、初心者の方にも使いやすく、って親切ごかしについてくる。

     プロはそんなものいらんから値段下げてくれ、スペック上げてくれ、なんですよ。こちとら、そんなんあるだけ邪魔。そしてDとかMとかにプロは走るんですよ。

     福音の再発見は、その世界とよく似てますね。親切心で付けたとはいえ、それが、本来のPCを使う上での仕事を邪魔しているとしたら、それは排除して、本来的な目的を達成するために充実したものにしたほうが、よいだろう、ってことだと思うんですよ。

     カレーの場合でも、本来のインディカ米で食べたり、ナンで食べる場合、ねっちょりしたカレーよりもサラサラのカリーのほうが、カリーとしては美味しいハズ。それが、福音の再発見なんです。

    とりもろす!ホンマもんの福音を

     しかし、あのCFが自由民●党から流れた選挙の後、この本の企画会議してたら、間違いなく出してたなぁ。タイトル案として、「福音をとりもろす」 キリ新の担当さん真面目だから却下されただろうけど。



     とりもろす。福音をとりもろす。とりもろす。神のメインの主張をとりもろす。
     とりもろす。生き生きとした信仰者の姿をとりもろす。とりもろす。福音の再発見。


    ってパロディCF作りたいくらい。

    福音の文化にも要素は入ってるんだけど
     先にも書きましたように、マクナイトの議論をごくごく単純化してしまうと、福音の文化にも福音の要素は入っているので、「本来の骨太の福音にいろんなものが1世紀以降に押し込まれているんで、それ外そうよ。そして、本来のすっきりとした福音にしてはどうか。そして、その要素をもっと大きなものとしてみましょうよ」ってことなんですよ。ごくごく概観的に議論してしまえば。

    マクナイトとNTライトの違い
     それをかなり荒っぽい論理構成の方法論で作業した、つまり木工で言うと鉈と斧で作業したのが、マクナイトだと言ってよいと思います。その意味で、ざらざら感があり、どうしてもmeek様のような疑問が残る。同じことをするにしても、のこぎりやら、カンナやら、鑿やら、彫刻刀やらで、十字架時代のナザレのイエスの主張に近づけようと、かなりち密な作業をしたのが、NTライトの書籍だと言えば、あたらずも遠からずや、くらいだと思います。

     でも、マクナイトは、実践的な牧会の現場にどちらかというと関心が強く、NTライトは歴史神学に関心が強い。二人は同じことしなくていいと思っていると思います。それが本での味わいの違いになっている。もちろん、マクナイトがアメリカの福音派のコンテキストで書かれていて、その意味で、アメリカの福音派と神学的味わいの近い日本の福音派で悲しむ人たちには、NTライトの議論は少し遠いような感じがする、というのもあるんですよね。

    恵みについて
    >すくなとも「救い」は「律法主義」や「道徳」とは正反対であるはずの「恵み」によるものなのではないのだろうか?と思いまして。

     救いは、神の一方的な恵みの計画による。そうなんです。でも、その恵みすらも、誤解され、誤用される。

    本日、

    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271#commentsno

    コメント欄でお返しした、maririnさんなんかの関係者なんかは、完全に、ゆるしや恵みを誤解し、そのうえで誤用しておられる。

    結局残念さを生む人間の罪
     でもね、これ誰が悪いわけでもないんです。人間が神からどうしても離れざるを得ない、罪ある者だから。神と一つには、この地上ではどうしてもなれないこと、完全な形での神との聖なるコミュニティは形成できない。だから、このような無駄の繰り返しが続くんです。

    それでも受け入れたもうYHWH
     そうであっても、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神はそれすら良しとされる。YHWHは荒野で裏切られても、カナン定着前後でイスラエルの民がひよっても、カナン定着後王であるはずのYHWHを捨て、おれたちが目に見える王様が欲しいとサムエルを介してねだらせる。それでも、神はサウルを王として与えたもう。王が与えられた、その挙句にバアルだのアシェラだのに心奪われる。バビロンからやっとの思いで帰ってきても、今度は、トーラーの体系化に現を抜かし、神の御思いの精神を忘れる。イエスが来ても、何それ、おいしいのをする。それでも耐える寛容の神、怒るに遅い神なんですよ。

    神の豊かな慈愛と寛容と忍耐
     昨日私のところの教会で、ローマ書2章の1-4節をお話ししたんですが、われらは、どうしても、「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじ」たいわけじゃないのに、軽んじちゃうんです。どうしようもない罪ある人間であるがゆえに。しかし、神は、その我らに向かって、わが子よ。帰って来い。神のかたちよ、帰って来いとおっしゃる。

    放蕩息子に示されたYHWHの悲愛
     それどころでなく、汝に服を着させ、足に靴を、そして、手の指には、正式な継承者としての指輪まではめようぞ、って方なんですよ。放蕩息子みたいに。もう、絶望的な愛というか、悲しみの愛(悲愛)と憐れみ(スプラングニゾマイ)で圧倒してこられる。もう、ミーちゃんはーちゃん降参です。神様、わかりました。あなた様がそう呼んでいいとおっしゃっておられるので、今日から、あなた様のことをアッバと呼ばせていただきます、としか言えないんです。多分、これが恵みだと私は思うんです。

    我らの言う恵み
    YHWHの圧倒的な恵み

     我等は、それをあまりに軽々しく、どっかの試験に合格した、とか、たまたま、いい仕事が見つかったとか、預金通帳の残高がゼロでないとか、病気が軽くなったとか、本来『恵み』とすら呼んではならないものを実に軽々しく『あ〜恵みですねぇ〜』と呼んじゃう。あまりにことばが軽々しい。そして、繁栄の神学なんて、いい加減なものを作っちゃう。
     そんな神の恵みが真剣に迫ってきたら、恐ろしくて、ミーちゃんはーちゃんなんざには耐えられませんぜ。本気で神の恵みが迫ってきたら、「恐ろしいからおやめ下され〜〜〜、ギブアップです」って叫びたくなっちゃう。

    ラインホルド・ニーバーの祈り
     最後にニーバーの祈りの英文と私訳とを紹介して終わります。前半部分が、アルコールアノニマスなどの自助グループで使われるので、有名ですが、この祈りのピークはどちらかというと後半で、最後の部分に、ニーバーの祈りにおける幸福の理解がよくあらわれていると思うので、ご覧いただければ、幸甚。




    ニーバーの静謐の祈り


    God, give us grace to accept with serenity
    the things that cannot be changed,
    Courage to change the things
    which should be changed,
    and the Wisdom to distinguish
    the one from the other.

    Living one day at a time,
    Enjoying one moment at a time,
    Accepting hardship as a pathway to peace,
    Taking, as Jesus did,
    This sinful world as it is,
    Not as I would have it,
    Trusting that You will make all things right,
    If I surrender to Your will,
    So that I may be reasonably happy in this life,
    And supremely happy with You forever in the next.

    Amen.

    神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
    静穏のうちに変えられないものを受け入れ
    変えるべきものを変える勇気を
    そして、変えられないものと変えるべきものを
    峻別する知恵を私に与えて下さい

    一日を瞬間瞬間生き、
    一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
    平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
    ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
    この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
    私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
    あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
    あなたの御思いに身を委ねることで、
    私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
    そして、あなたの隣に私をおらせ、
    これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。






    コメント
    ミーちゃんはーちゃんさん

    私のリクエストの答えてくださり、こんなにも詳細な読書ガイドを一日で作成してくださり、まことにありがとうございます。m(_ _)m

    「福音の再発見」出版に至る経緯に、これだけの物語が、実に3年越しの物語があったのですね。

    本文の記事と、各リンクを大まかに朝3度読み、午後からもういち度、ざっと概観させていただきました。本当に連休の終盤を飾るすばらしい超ド級大河ドラマのプロローグをみさせていただいた気分です。

    あらすじは概観できたので、今後この読書ガイドをツールにもう一度「福音の再発見」に取り組んでゆこうと思います。

    興味深いのは、私自身クリスチャン2世ですし、同時にAC的な要素は結構強いほうだと思います。

    NTライトさんの翻訳書も今年でるのですね。楽しみです。
    • meek
    • 2014.05.06 Tuesday 13:50
    meekさま

    コメントありがとうございました。お喜びいただけたようでなによりでございました。また、読みにくいものを繰り返しお読みいただき、本当にありがとうございまいた。

    >本文の記事と、各リンクを大まかに朝3度読み、午後からもういち度、ざっと概観させていただきました。

    対話の経緯を残しておいて、よかった、と思った瞬間でございました。お読みいただきありがとうございます。

    物語の真実性(ここに書いたのは修正のない事実の記録ですから、後のねつ造ではないです)は、本来人をひきつけてやまないはずです。ですから、旧約聖書は、モーセ5書は、物語と一体化していますし、福音書は物語になっている。

    ご指摘いただいて、物語の強さ、というのを感じました。

    また、この一連のものがたりは私が物語っているのではなく、Caledonia様、m様、ヤンキー牧師こと水谷様、巣鴨のTaka先生、塩屋の舎監先生、そして訳者の中村様、他の読者の皆様、そしてmeek様が関与したからこそできた皆さまの物語であることにハタと思いいたりました。そして、神の介在の物語でもあることを感じます。素晴らしい気付きを与えるコメント、ありがとうございます。

    私も、母親だけがキリスト者であるキリスト者2世で、生き方に迷いかけたものでありますが、大学時代の聖書学関係の恩師にも、そうでない世俗の学問体系の恩師の方々にも拾っていただいて、助けられたことを思い出します。

    NTライトの本ですが、出るといううわさは流れているのですが、確証はありません。うち1冊に関しては、これから、編集に入るような状況かも、というようなお話が流れております。早く欲しいなぁ、と読者としては思っております。ワクワクドキドキしながら待ちたいと思っております。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.06 Tuesday 21:24
    その後も、繰り返し読み返しています。少しづつ細部にも理解が及びつつ、同時に全体像も明確になりつつあります。

    Caledonia様のコメントは、多かれ少なかれ、2世以降のクリスチャンが経験する痛みを、多くの人が共感できる言葉にされた、だから、多くの人の心を動かした、私にはそう思えました。

    さらに2世でも自分に子供ができると、基本的には親から受けた嫌なことは、3世である自分の子には避けてあげたいと思っているにもかかわらずに、気づかないうちに、同様のことをしてしまっていたり、また違った痛みを与えてしまっていたり、さらに、それではいけないと思いつつ、どうすれば良いのか途方にくれていたり、、、という側の心にも、子供を理解したり、子供と関わっていく上で、「ヒント」にもなれる言葉ではないかな?と思いました。

    そんなCaledonia様の言葉が、ミーちゃんはーちゃんをはじめ、多くの人々の心を動かして、「福音の再発見」という本の邦訳へと「かたち」になって現れた。

    それは、さらにひろがって、日本のキリスト教会のリーダーたちの間にもひろがっていますね。

    ネット検索してゆくと「日本福音主義神学会」の内容にも、「福音の再発見」やNTライト関連の話題にふれられる中で、そういった「再発見」「再確認」を求める声に応えてゆこうというような文章をも目にしました。

    そこまでCaledonia様の言葉の影響がひろがっているんですね。

    それは、今度は、傷んでいる、2世、3世たちへの影響へと戻ってきて、彼らにイエス様がふれようとされる一つの手と用いられるのかもしれません。

    「救い」の誤解・誤用に関しては、わからなかった点が、自分なりにクリアになれた気がしました。

    自分なりの言葉にしてみると「福音の再発見」のいう「救いの文化」とは、「救いを個人的なことだけに限定してしまい、共同体がもたらす豊かさから分離して理解してしまう弊害による文化」と少し長いネーミングをして、その省略形としてとらえてゆけば、自分なりにスッキリするかなと思いました。

    「福音」と同様に「救い」という言葉自体にも「共同体との関わりの中で」というニュアンスが含まれているように感じますので、そのような弊害に「福音」との関係にのように「救い」という言葉を使われているように感じてしまって、そこが自分的にはスッキリしなかったのだと気づきました。

    「福音派」じゃなくて「救い派」という言葉に対しても同様の感じを受けていました。

    「救い派」と名乗ったところで、「救い」自体にも「共同体との関わりの中で」というニュアンスあるので、「救い派」であっても何が問題なのだろう?と感じてしまったのだと思います。

    「救い(を共同体との関わりを無視し、個人的なことがらだけに限定してしまった)派」として捉えると、自分的にはスッキリできるような気がします。

    長ったらしいけど、そうしてゆかないと「救い」というすばらしい神の賜物であるはずの言葉に、ネガティブなイメージがくっついてきてしまって、それが自分的には違和感を感じていたのだと思いました。

    自分的には、スッキリできてきました。

    ありがとうございました。
    • meek
    • 2014.05.08 Thursday 09:15
    先ほどのコメントの補足です。

    「福音の再発見」ページ47〜48

    「しかし、アメリカ人ではない人たちに言わせれば彼らにとっての「救いの計画」は、私にとっての「イスラエルの物語」と「イエスの物語」を足したものに近いものを想起させるそうだ。

    ここでは海外の人たちには失礼ながら「救いの計画」を先に述べたような、個人の救いに特定した意味として用いたいと
    思う。」

    とありました。

    マクナイトさん、親切にも、ちゃんと解説してくれてました。m(_ _)m

    私の感じた違和感は、私がアメリカ人ではなく、また、アメリカ的な「救いの計画」を個人に特定させていたのではなかったからだったのかなと感じました。
    • meek
    • 2014.05.08 Thursday 10:53
    meek様

    コメントありがとうございました。

    今回、本体に乗せにくいのもあるので、長いですが、全編コメントでお返しします。
    申し訳ありませんが、お付き合いいただければ、と。

    >Caledonia様のコメントは、多かれ少なかれ、2世以降のクリスチャンが経験する痛みを、
    >多くの人が共感できる言葉にされた、だから、多くの人の心を動かした、私にはそう思え
    >ました。


    そうだと思います。詩篇19篇にアクセスが集中するまでは、この記事は、結構このブログのトップアクセス数を誇る人気の記事だったのです。水谷潔さんのお化けブログ『命と性の日記』にもご紹介いただいた、ということも、無論大きく影響しておりますけれど。

    http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=2830


    >さらに2世でも自分に子供ができると、基本的には親から受けた嫌なことは、3世で
    >ある自分の子には避けてあげたいと思っているにもかかわらずに、気づかないうちに、
    >同様のことをしてしまっていたり、また違った痛みを与えてしまっていたり、さらに、
    >それではいけないと思いつつ、どうすれば良いのか途方にくれていたり、、、という
    >側の心にも、子供を理解したり、子供と関わっていく上で、「ヒント」にもなれる言
    >葉ではないかな?と思いました。

    左様心得ます。これに関しては、Sojournersで面白い記事を見つけましたので、近日中にご紹介いたしたく。

    >そんなCaledonia様の言葉が、ミーちゃんはーちゃんをはじめ、多くの人々の心を動
    >かして、「福音の再発見」という本の邦訳へと「かたち」になって現れた。

    そもそもは、この本を最初に日本で紹介されたのは、巣鴨聖泉キリスト教会の小嶋崇先生なんです。

    http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2011/09/blog-post_13.html

    で、お願いされておられる。それもあって、そんなに面白い本なら読んでみよう、と思って読んだところが面白い。そして、カレドニアさんのコメントでした。火をつけたのは。でも、福音派ディスリマクリングになりかねないこの本、いのちのことばで
    は厳しい。この種の問題を抱えているのは福音派に多いとはわかっていてもおそらくいのちのことばは無理そうだと判断。新教という手もあったのですが、新教で出しちゃうとあれ、リベラルの本でしょ、って福音派は読まない。「あめんどう」も考えたけど、ナウエンの本で一定の評価を得ているあめんどうさんに、ここまでの論争的な本をお願いするのは厳しい。Ministryの編集長とは、やり取りがあったんで、おねだりしたら、その編集長が社内で稟議にかけますと言ってくれた。キリスト新聞社の企画で出してくれるか、と思いきや、それはNGで自費出版の扱いで、となってしまった。


     しかし、そうであっても、この本を出す意義はある、という思いから、自費出版扱いでこの本出しちゃった。3年くらいかけて1000部売れれば、と思っていたら、発売から数週間で、おそらく在庫が間もなくなくなります、と連絡。じゃ、勢いのあるうちに、ということで追加1000部でということで、合計2000部なんですよ。

     こんな自費出版の本でもあり、日本では全く無名のマクナイトというおじさんの本が売れちゃったもんだから、日キ販の人が目を白黒。なんですよ。バルトでもなく、マクグラスでもなく、C.S.ルイスでもない。それが昨年5月、いきなり流通量で3位。カトリックの渡辺シスターの「置かれたところで咲きなさい。」、聖書協会の「Glo」、その次が「福音の再発見」でしたから。日キ販の人に、「意外」ってFacebook上で書かれてしまうほど。

     一応、ちゃんと、売らないといけない(売り切っても赤字体質)のもあるので、そりゃ、タカ先生、中村さちさん、ミーちゃんはーちゃんでFacebook上の秘密の会議室で、マーケティング戦略練りまくり。ステルスマーケティングどうするか、影響力のあるブロガーにどう紹介してもらうか、なんてことを相談しまくりまして、ちゃんとマーケティングしたんですよ。自費出版で売れ残りを出さないためには、それくらいしないと、ね。

     CLCでやったインストアライブも、機器から交通費まで、全額全員自腹。といっても訳者の中村様は日本でご用事があったので、それに合わせて、ではありましたが。あ、打ち上げでは、キリスト新聞社さん持ちだったです。ごちそうさまでした。

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.08 Thursday 22:51
    続きです。

    >それは、さらにひろがって、日本のキリスト教会のリーダーたちの間にもひろがって
    >いますね。

    そうですね。ただ、この本の内容が牧会の現場にまで降りてこないことには問題の根源的解決にはならない、と思ってはいます。それには、あと30年かなぁ、それ位かかりそうです。

     この本を出すときに、大変ご支援いただいた鎌野先生(帯の推薦書いていただいた先生)にこの本出そうと思うんですがと、ご相談に行ったところ、「この本出しても、いいけど、それで、日本の教会は変わらないよ。」とはお言葉をいただいたのです。おそらく、この本に耐えられるだけの牧師の数は限られるよ、ということだったろうと思います。

    >ネット検索してゆくと「日本福音主義神学会」の内容にも、「福音の再発見」や
    >NTライト関連の話題にふれられる中で、そういった「再発見」「再確認」を求め
    >る声に応えてゆこうというような文章をも目にしました。

    そうですね。実は小嶋先生は、重量級のNTライトが出る前の前座としての役割をマクナイトの本に見出しておられたようです。ライトとマクナイトはどうも仲がよいみたいなんです。マクナイトはアメリカの神学会での発表の討論者を「ライトに頼みたいなぁ、トムにお願い。」って言ったらしいですから。

     マクナイトに耐えられない牧師先生が多いとすると、NTライトはほとんど耐えられないと思います。特に日本の福音派の牧師先生の間で人気のあるジョン・パイパー先生との対論での義認論が以前話題になったこともあり、NTライトの義認論に疑問をお持ちの先生方も多いはずですから。ただ、日本で批判されている方は、NTライトをかなり読みこんで批判しているか、って言うと、おそらくそうしておられる方は、津ののらくら者先生と後数名の先生方くらいではないかと。

    ただ、英米では、Christianity TodayがNTライト特集を最近しましたが、

    http://www.christianitytoday.com/ct/2014/april/

    特集が出た、ということは、その方の旬は終わりかけているということにもなりかねないのですが、日本ではほとんど知られてない、というあたりがね。

    津ののらくら者先生は、フランス先生ご推奨なんですが、優秀な学者のわりにフランス先生は、日本では、あまり知られてない。この辺りが、やはり日本の福音派なんじゃないかと。

    津ののらくら者先生からいただいた神学のブラックジョークではありませんけれども。

    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=534

    「神学は、ドイツで興り、イギリスで変容し、
     ついにアメリカで堕落する。」
    「そして堕落したものが、日本に来る(!!)」

    続きます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.08 Thursday 22:55
    続きです。

    >そこまでCaledonia様の言葉の影響がひろがっているんですね。

    そうですね。結果としては、そうなってますね。

    >それは、今度は、傷んでいる、2世、3世たちへの影響へと戻ってきて、彼らにイエス様が
    >ふれようとされる一つの手と用いられるのかもしれません。

    左様祈りつつ期待しております。

    >「救い」の誤解・誤用に関しては、わからなかった点が、自分なりにクリアになれた気が
    >しました。

    それはようございました。出版の実労を取った甲斐があったというものでございます。

    >自分なりの言葉にしてみると「福音の再発見」のいう「救いの文化」とは、「救いを個人
    >的なことだけに限定してしまい、共同体がもたらす豊かさから分離して理解してしまう弊
    >害による文化」と少し長いネーミングをして、その省略形としてとらえてゆけば、自分な
    >りにスッキリするかなと思いました。

    上記適切なものかと思います。マクナイトは、霊性の神学とも深い関係にあり、どうもNTライトもそうではないか、と睨んでおります。だからこそ、霊的共同体、すなわち多様なものが一つとされた霊的共同体、が重要なのだろうと思います。

    >「福音」と同様に「救い」という言葉自体にも「共同体との関わりの中で」というニュア
    >ンスが含まれているように感じますので、そのような弊害に「福音」との関係にのように
    >「救い」という言葉を使われているように感じてしまって、そこが自分的にはスッキリし
    >なかったのだと気づきました。

    このあたり、meek様の過ごされた、過ごされている教会とその神学体系も影響すると思います。多くの福音派はアメリカ経由で入ってきていますし、日本で出版される書籍も基本アメリカ型の聖書理解が多い。アメリカでは、コミュニティそのものが流動的であり、教会というコミュニティを形成する信徒もかなり流動性が激しい。そうなると、どうしても、
    共同体性の問題は弱くならざるを得ない、ということもあるとは思います。

     これに関しては、後から頂いたコメントで、「福音の再発見」ページ47〜48をご参照頂いた通りです。

    >「救い派」と名乗ったところで、「救い」自体にも「共同体との関わりの中で」という
    >ニュアンスあるので、「救い派」であっても何が問題なのだろう?と感じてしまったの
    >だと思います。

    まぁ、「救い派」という用語自体、ちょっと、ディスっている側面もあるラベルなので、どうかとは思いますが、「救い、救い」と強調するものの、その内実があまり説明されない方々も多いので、「救い派」と呼んでいるのだと思います。マクナイトの自己反省を含めて。

    >「救い(を共同体との関わりを無視し、個人的なことがらだけに限定してしまった)派」と
    >して捉えると、自分的にはスッキリできるような気がします。

     そうですね。あと、この「救い派」の形成においては、終末論、天国理解が大きく影響致しておると存じます。いま、Facebook上のNTライト読書会では、それに関するNTライトの書籍を読んでおります。訳者の中村さちさん、小嶋先生、鎌野先生や、一般信徒の方も含めて、ROMの方も大変多いのですが、かなり活発な議論があっち行き、こっち行きしながらも続けられております。もしご興味がございましたら、内緒で、御連絡下さい。コメント欄に内緒、とかいていただけましたら、非公開にし、読書会への御案内作業終了後、速攻で削除しますので。

    >長ったらしいけど、そうしてゆかないと「救い」というすばらしい神の賜物であるはずの
    >言葉に、ネガティブなイメージがくっついてきてしまって、それが自分的には違和感を感
    >じていたのだと思いました。

    実は、この救い派をどう訳すのかで、小嶋先生、訳者の中村さちさん、ミーちゃんはーちゃんで結構頭を悩ましたのも事実です。しかし、もともとのことばに近いことばで、ということで、「救い派」ということに三者の協議でこの語を用いることにいたしました。

     実は、この議論もほとんどすべて、Facebook上の秘密の会議室機能を利用してやったんです。実は、Facebookあってはじめて、「福音の再発見」がでた、というのもあるんですね。とっても、21世紀初頭的現象でしょ。


    あと、この辺りをご覧いただくと、いろんなことが分かるかも、ですので、併せてこちらもご覧いただければ。涙ぐましい、マーケティング活動の様子が。

    http://kingjesusgospeljapan.blogspot.jp/2013_06_01_archive.html

    そうそう。関係者全員の動画像も出てきます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.08 Thursday 22:59
    ミーちゃんはーちゃんさん

    Facebookのお誘いをありがとうございます。
    ですが、私はFacebookにはどうも馴染めず、、、一度は入ってみたのですが、一瞬恐怖心を感じてしまい、速攻で退会してしまいました。今後もFacebookはできないと思います。時代に取り残された古い人間ですね。mixiまではなんとかついていってたのですが、それも退会しちゃいました。

    トークイベントの動画紹介もありがとうございました。実はすでに前半は視聴していまして、それで、大まかな出版に至る経緯を知りました。それで動画は一旦休止で、こちらのブログでもう少し出版に至るまでの経緯を確認しようと読みはじめたのです。ですが2008年からの大量な情報量で最初からコツコツ読んでいたのですが、中々そこまでたどり着けませんでした。今回この記事で目次のようにわかりやすくしてくださって本当に感謝です。これでまた動画の続きを視聴しようと思います。

    「物語」「ナラティブ」な視点ということですが、今日県立図書館で「物語としてのケア〜ナラティブアプローチの世界へ〜」野口裕二著という本を借りて読んでみました。クリスチャンの本ではなくて、心理社会的な臨床援助に関する本ですが、現在、人文科学・社会科学の分野で「物語」という視点から捉えなおす作業が活発化しているそうで、科学的説明と物語的説明と対比させてその違いを説明していました。

    これを読んで、この「科学的説明」を「教理的説明」に置き換えて、「物語的説明」に対比させてみると、すごく自分の中で腑に落ちてきました。

    >あと、この「救い派」の形成においては、終末論、天国理解が大きく影響致しておると存じます。

    「福音の再発見」の範囲では、終末論・天国理解に関しても、従来の理解を「否定はしない」と繰り返し、書かれているので、そんなに大きな影響はないように自分には受け取れました。救いが死後の魂の行方だけに限定されてしまって、それで良し、とする人は多くないと思いますし、それ自体をマクナイトさんは「否定はしない」と繰り返し書かれているのですから。

    しかし、N.T.ライトさんがルター以来のプロテスタントの義認理解に修正を求めているということを知った時には、正直大変ショックでした。それにともなって終末論・天国理解も修正が要求されてゆくことでしょうね。

    しかし上記のように単に「教理的説明」としててではなく、「物語的説明」として受け止めてゆくことが、もしも許されるなら、案外、そんなに根本的な修正ではなく、むしろ本来ルターが伝えたかたったことに近づいてゆくのではないだろうか?と、勝手な憶測をしています。

    上沼昌雄先生のブログで、「ルターがアリストテレスの哲学を神学と一直線に結びつけたスコラ神学の「総合」を切り離うために命懸けてプロテストした〜中略〜しかし、プロテストしたその相手にあっという間に飲み込まれてしまう。ルターとほとんど同時代のメランヒトンによってルターの教えがスコラ化され体系化されていくのです。すなわちプロテスタント・スコラ主義です。それによって、プロテスタントで組織神学が可能になったのです。」

    と書かれてあるのを見つけました。

    http://druenuma.wordpress.com/2013/09/

    もしかすると、ルターが伝えようとした「物語」がメランヒトンによって「教理」へと再構成され、後の「組織神学」にまで発展させてしまったのかもしれない、と。

    私は英語ができないのでN.T.ライトの現在唯一翻訳された「コロサイ・ピレモンティンデル聖書注解」を読んでいますが、

    2:14の注解で

    「ルターが「喜ばしい交換」と呼んだことを、時折なされてきた誤解から、この文脈は守っている。神ご自身が贖いのわざの源である。〜中略〜メシアであるイエスは、彼の民を本当に代表しているので、彼らの身代わりとなることができるのである。」

    と書かれていました。この人はルターを修正しようとしているのではなく、ルターの後に形成されたルター神学を修正しようとしているのではないだろうか?と感じました。

    このルターの「喜ばしき交換」という表現が私はとても好きで、結婚すると、相手のものは私のものになり、私のものは相手のものになります。交換といっても、共有ということです。私たちはキリストの花嫁ですが、個人としてではなく(もしそうなら、キリストは一婦多妻になってしまいます。)教会・キリストの体として・頭であり、夫であるキリストと結ばれるのですよね。

    しかし私は神学についてまったくの素人ですので、確かなことはわかりません。私の理解の間違いかもしれません。ただ素朴に信じて喜ぶ者です。
    • meek
    • 2014.05.09 Friday 21:06
    meek様

    またまたコメントありがとうございました。
    Facebookの件、拝承しました。ご無理をお願いするつもりはございませんのでお気持ちを大事になさってくださいませ。

    >2008年からの大量な情報量で最初からコツコツ読んでいた

    お付き合いいただいて、ありがとうございます。何と申し上げてよいやら。心より御礼申し上げます。

    >現在、人文科学・社会科学の分野で「物語」という視点から捉えなおす作業が活発化
    >しているそうで、科学的説明と物語的説明と対比させてその違いを説明していました。

    この辺だと、キリスト教業界では、藤掛明先生ですかね。一番のカッティングエッジだと存じます。
    いいですよ。藤掛先生の本は。

    >これを読んで、この「科学的説明」を「教理的説明」に置き換えて、「物語的説明」に
    >対比させてみると、すごく自分の中で腑に落ちてきました。

    「科学的説明」というのは、多分「啓蒙主義的説明」かもしれませんね。今朝、ツイッター上で「科学的」云々というの話が出てきましたのですが、今だと、「科学的」に代わって「間主観的」という言い方がよいかとかいろいろ話題になってました。科学は、本来限界があることはもう少し理解されてもいいかな、と思います。なお、科学は、もともと自然神学から出発した、とマクグラス先生が書いておられました。(神の科学)

    >救いが死後の魂の行方だけに限定されてしまって、それで良し、とする人は多くない
    >と思いますし、それ自体をマクナイトさんは「否定はしない」と繰り返し書かれてい
    >るのですから。

    確かにマクグラスは否定はしていませんが、私としては、かなり影響はあるように思えてなりません。といいますのは、私のいるところが、終末論で一時期熱狂したからなんですね。オウムが屋久島に移住するという構図を見た時、デジャブか?と思ってしまいました。福音の再発見の出版という冒険に最初からお付き合いいただいているTaka牧師はこの経験をお持ちでなかったので、この辺りのことは、あまり意識がないご様子です。
    影響がない方はそれでいいのだと思います。この辺も教派的誤差による誤差の範囲かもしれません。
    まあ、天国観、終末論までやってしまうと、焦点ぼやけますし、1冊にはおさまらないですし。

    >N.T.ライトさんがルター以来のプロテスタントの義認理解に修正を求めているという
    >ことを知った時には、正直大変ショックでした。それにともなって終末論・天国理解
    >も修正が要求されてゆくことでしょうね。

    多分、100年後にならないとわからないかもしれませんねぇライトの主張が正しいかどうかをそれこそ間主観的に見ないといけないですから。彼は頭一つか二つ飛び出した人のようなので、他の聖書学者が追随してそれを埋める必要があろうかと思います。検証に要するのが、20年くらい。一般に普及するのが、その後80年ほどかけてではないかと。

    >「教理的説明」としててではなく、「物語的説明」として受け止めてゆくことが、もしも
    >許されるなら、案外、そんなに根本的な修正ではなく、むしろ本来ルターが伝えたかたっ
    >たことに近づいてゆくのではないだろうか?と、勝手な憶測をしています。

    この辺は、高橋先生にお聞きいただければ、と。ただ、ライトの聖書理解は、これまで論文を読んだり、本を数冊読んだりすると、かなり複雑だという感じはしています。ルター大好き高橋先生も、芦屋に11月に来られますよ。

    >上沼昌雄先生のブログ

    上沼先生は、近代キリスト教とギリシア哲学の関係を考えてみるというご構想をどうもお持ちではないかと。

    そうそう、5月31日の午前10時30分から、私のおります芦屋恵キリスト集会で上沼先生のご講演と昼食会がございます。もしよろしければどうぞ。
    http://ashiya-megumi.at.webry.info/201404/article_1.html

    >ルターが伝えようとした「物語」が・・・

    ルターは、私にとって、かなり遠い人(私自身は、神学変容させるのが得意なイギリス系統の教会の背景を持つので)ですし、個人的な関心が近代社会とその背景となる思想とキリスト教の歴史が主要関心分野なので、この分野に知識がなく何ともお答えできかねます。申し訳ありませんが。

    では、よい週末を。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.10 Saturday 00:06
    ミーちゃんはーちゃん、
    お付き合いくださり、ありがとうございます。

    >一般に普及するのが、その後80年ほどかけてではないかと。

    う〜ん。確かに、私なんかに理解できるのは、、、
    この地上の生涯では、、、無理そうですですね、、、。

    私なんかルターも日本語の本数冊読んだだけの知識なので、ルターも、N.Tライトもちゃんと理解できていないと思います。専門の先生に会って聞くほどでもない者です。わからないことは、わからないままにしておきます。

    でも、私にN.T.ライトさんが理解できなくても、ミーちゃんはーちゃんや、はちこさんのことは、理解してゆけると思いますので、続けてブログを読ませていただきます。それで間接的にN.T.ライトさんのことも学んでいこうと思います。背伸びせずに。

    >私のいるところが、終末論で一時期熱狂したからなんですね。オウムが屋久島に移住するという構図を見た時、デジャブか?と思ってしまいました。

    わかる気がします。わかる気がします。
    10月何日に再臨が起こると預言した韓国の異端を信じていた人と間近に話をしたことがあります。すごかったです。その場合はその日が過ぎると嘘だったということがわかりますので、、、、その人すごく辛かったそうです。

    それではおやすみなさい。
    • meek
    • 2014.05.10 Saturday 00:49
    meek様

    すみません。昨日、コメントお返しした後、爆睡してしまいました。


    >う〜ん。確かに、私なんかに理解できるのは、、、
    >この地上の生涯では、、、無理そうですですね、、、。

     ミーちゃんはーちゃんなんざ、理解どころか誤解だらけかと。
     ただ、私にとってのNTライトさんの書かれたもののすごみは、「牧会の現場」のリアルで有用だから、ということなんです。
     実は、お隣の市でナウエン研究会を定期的にしているんですが(原則月2回高齢者の女性が主要参加者)、そこでリアルに持ち込まれるご質問やお悩みに対して、かなり有効かなぁ、と思うところがあるのです。
     ミーちゃんはーちゃんは本業が技術屋なんでもう実際的有用性だけで判断しちゃうので、「あー、この人のこういう考え、技術的に有用だわ」と思うともうしびれちゃう。そんな感じでしょうかね。基本、「うまいもんはうまい。」の人なので。

    >わからないことは、わからないままにしておきます。

     そうですよね。わからないものはわからない。わかろうとしない。背伸びしない、ってのが大切ですよね。無理は疲弊するだけですから。

    >それで間接的にN.T.ライトさんのことも学んでいこうと思います。背伸びせずに。

     そうですよね。NTライト読書会のWeb主催者の先生、まじめでコツコツな方なんで、大事なこと書いているのに面白みがなさすぎ(最近、面白表現に慣れてこられて…、コーヒー吹きそうになることが増えていますが)なんで、それを面白表現にして遊ぶのが、ミーちゃんはーちゃんの役目と心得ております。世の中には、ピエロもいるってことでね。

     私は自覚的アルルカン(英語では、ハーレクインとな、ゲゲッ。女性向けちょっこしエロ小説シリーズの由来って、これだったのね…(爆))なので。

    >韓国の異端を信じていた人と間近に話をしたことがあります。すごかったです。その場合はその日が過ぎると嘘だったということがわかりますので、、、、その人すごく辛かったそうです。

     私のところは日本の異端ですね。wwww いいんです。黒歴史は黒歴史。それを含めて受け止めるのが、神であられるから。
     だれだって異端に引っ掛かれば、本当につらい。そりゃそうでしょう。だって、その人の根幹をなす理解システム、真理観が雪崩のように一気に崩壊するんですから。経済的には、全財産なくす人もいますし。知り合いで、この再臨熱に高校生の頃、浮かされて、大学受験あきらめた人とかもいるんで。人生が狂うんですよ。

     もう本当に、人生幸朗師匠のように「責任者でてこ〜〜い」とああ言いたい。そして、「赦しますが、私は忘れません。」と言いたい。

     この辺、日本には、本当にこの辺までがギリギリキリスト教としてOKという基準が定着してなさすぎですもの。最初に出会ったキリスト教が異端であろうが、異教であろうが、私小説に基づく妄想であろうが。それがキリスト教になっちゃう。こういう悲惨な目にあう方が増えないようにしたいです。

     またまたのコメント、ど〜もど〜もど〜もでした。

     では、よい週末と主日をお迎えされんことを。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.10 Saturday 06:14
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