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2014.08.23 Saturday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1)

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     今回からのシリーズは、かなりハードかもしれません。入口は思いっきり下げてみようかと思いましたが、かなり難解。ミーちゃんはーちゃんの問題というよりは、お化けのような神学者、ジョン・ハワード・ヨーダーの問題かもしれません。

    Yoda?Yoder?
    Master Yoda 最近、ジョン・ハワード・ヨーダーに関心を寄せている。面白い御仁らしい。このヨーダーさんなかなか魅力的。

     ヨーダーと言っても、緑色したスーパーマンとも称される、隣の写真に示すようなMaster Jedi Yodaではない。

     ちなみに、個人的に、Master Jedi Yodaは嫌いではない。

     スターウォーズで個人的には、ダース・ベイダーに続いて、好きなキャラクターかも。
     
     そうそう、ダースベーダーって、こういう気の抜けたのもいいやね。この栗コーダーカルテットって人たちはやたらと技術レベルが高いのに、こういうことしてくれるのが、いいやね。

    栗コーダーカルテットによるダースベーダーのテーマ

    神学者 ジョン・ハワード・ヨーダー

     このヨーダー(神学者のほうね、左の写真に出てくるYoderさんのほう)さん、結構ファンがいるらしい。このヨーダーさん、後に紹介する本によれば、メノナイト・ブラザレンというかなりマニアックな少数派のキリスト者集団のご出身らしい。

     それより少数派のプリマス・ブラザレンのミーちゃんはーちゃんがが言うなって?

     それは御説の通り。

    ファンの多いジョン・ヨーダーさん

     ツイッターでミーちゃんはーちゃんがフォロー中のJohn H.Yodaさんの5月4日の投稿が次の画像。JodaとJoderの合成写真、おもろすぎワロタ。ミーハー氏とギャグやらなんやらの感覚が一緒。痛いほど似ているのもね。

     
     ところがである。この神学者の方の、John H. Yoderであるが、平和主義・非暴力主義をかなり言った神学者であるものの、セクハラ疑惑・暴行疑惑が付きまとっているらしい。Wkipedia情報。

     そういう意味で、神学者の方のJohn H. Yoderさんであるが、倫理学関係の研究者でありながら、というあたりが神学者、倫理学者としての取り扱いがどうもいろいろ悩ましい、らしい。いろいろありすぎて、正面切って応援しにくい事情もあるらいい。

     
    Yoder入門書?
     とりあえず、原著に手を出してもいいのだけれども、その前に、という意味で入門書ということで「どこが入門書?」という思いもしなくもない東京ミッション研究所 編のジョン・H・ヨーダーの神学 −平和をつくりだす小羊の戦いー を読んだ。いくつか言いたいことはあるが、何となくヨーダーという巨人の全体像を見るには、非常によい本のような気がする。(新教出版社のステマではなく)この入門書のフリをした論文集、第2章から第5章までが秀逸。(第1章は、まとめのまとめなので、つまらなく見えるだけなので、第1章がよくないという意味ではない。)

     この本の中からいくつか拾ってみたい。(今回は、第2章 中島真実論文から)

    ヨーダーの教会論

     ヨーダーの教会論について、同論文では、次のように紹介されている。
     
     ヨーダーは、キリスト者にとって世界の見方と行動の仕方を訓練する共同体とは「イエス・キリストが主」と信仰告白する教会なのであるという事実に注目する。すなわち、イエス・キリストが主であるということは、イエスの出来事において創造主なる神が歴史的に決定的な形で(終末論的に)ご自身をあらわされたということで、そのことを信仰の告白となし、それに基づいて存続する共同体としての教会がキリスト者の生き方を方向づけるのであり、これこそが「神学的」倫理学においてまず注目されるべきことなのである。(p.35)

    と述べたうえで、同論文では、ヨーダーからの次のような引用をしておられる。
     教会の自己理解に関いて一貫性を与えている理法は演繹ではなく物語である。(p.36)

    とか紹介されている。教会が物語として神を語るというのは違和感があるかもしれないが、以下に紹介するように、それはヨーダーの神学においてこの物語という概念要素は、極めて重要な役割を果たすようなのである。

    物語と教会のアイデンティティ
     さらに、物語と教会のアイデンティティについて次のように記述されている。
     
     ヨーダーが着目するのは教会の特殊な物語とアイデンティティである。しかし、彼はそれらが特殊だからと行って、ある特殊なグループの内部に閉じ込められるようなものとはみなさない。むしろ、後述のようにそもそもそれは表現され、伝達され、継承される性質のものであるし、そのように扱われるべきものである。ただしその手段もやはり一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定することよりはむしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語ることなのである。ところが、こうした物語は一貫した概念や筋道をもっている一方、物語る形式は語り手の時と場所によって多様である。
     (中略)
    このように、物語という形式は、統一性と多様性の構造を教会の指針伝達に備えさせるのである。即ち、教会にとってのこの一貫性は自らの特殊な物語を貫くイエスは主と言う信仰告白を通して与えられ、もう一方でこの告白がそれ自体の豊かな内容を教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示するのである。(pp.36-37)

    というふうにヨーダーの教会理解が紹介される。このなかで、「一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定する」ということで、一般化した形で、教会ってこんなところですよ、と教会を語ることや、そういうものとして教会について語ることがキリスト者にとって多いかもしれないが、そのことの問題点を指摘しておられれる。多くの場合、メタ思考(メタ思考ってのは、問題を一旦はなれてその周辺を見て考えること)ができないので、語られる方も、語るほうもそれで満足してしまう。そして、その問題設定の枠組みから出れなくなってしまう。

     ところが、メタ思考ができているヨーダーにとってみれば、そんな一般化した議論は無意味であって、それよりも、ヨーダーの諸論によれば、「むしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語る」ことが重要であるらしい。それを、「教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示する」ことにミーちゃんはーちゃんが取り組んでいるか、と聞かれると、非常につらいものがある。これには、こころがグサグサ。

     ちなみに、メタ思考、本当はもっと複雑なんだけど、わかりやすく示していたサイトがあったのでご紹介。

    メタ思考では、いったん自分の視点を離れて、もっと自分の頭のうえの高いところに視点を移してみるのです。まるでヘリコプターで上昇するように視界を拡大してみるのです。 

    眼下には相手である顧客が怒っている姿が見えます。対応に困っている自分の姿が見えます。その後ろには、会社の上司たちの姿も見えます。

    このように高い視点から俯瞰してみると、今までと違った考えが湧いてくることがあります。 なによりも状況を客観的に眺められるので、それまでの閉鎖的環境から抜け出て余裕ができるのです。新しいアイデアがひらめいたりします。

    視点を変えてみる、こと


    概略をつかむうえでは、これでOKではないかと。

     次回へ続く。


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