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2014.04.29 Tuesday

昭和の日スペシャル! スターリン牧師と衆愚政治教会 私考 

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     ここのところ、乱暴なネタが続いたので、ちょっとまじめな記事も。

    また、この前、水谷潔さんの教会を船に例えるとシリーズを読んでいたら、「いや、もう、現状を言えば、教会(特に都会地以外では)は泥船状態ではないか」と、FBで遊んでいたら、変な炎上しかけてしまいました。水谷潔さんをはじめとする皆さまに大変多大なご迷惑をおかけいたしました。本記事を通して、お詫び申し上げます。
                        亭主敬白
    -------------------------

    で、今回の記事である。今回の記事は、軟弱じゃないよ。かなり硬派。そして、いつものように長い。

     とはいえ、実に昭和の日スペシャルと呼ぶにふさわしい記事かもしれない。平成になって20年以上たち、「昭和は遠くなりにけり」ではあるがどっこい生きてる昭和の思想をおもちゃに戯れてみたい。


     敬愛する水谷さんの先日のブログ記事に

          どっちが怖いか?「スターリン」VS「禁断の多数決」

    という記事があったが、それをよみながら、そーいやユシフ(ヨセフ)・スターリンは昭和を生きた人物でもあった、という感想をも持ったのだ。

    スターリン型牧師の形成要因

     スターリンを生んだ旧ソ連邦は、正式名称、ソビエト社会主義共和国連邦であり、共和政を主張する名目上は民主的な国家の連合体であった。ソビエト社会主義連邦の代表は、一応は民主的な手続きを経て選出されたと想定されていた。選挙人団を粛清しながら、ではあったけど。
     いちおう、手続論的にはソ連邦の憲法に従い、ソビエト民主主義の議会を経て選出された代表者が、独裁者になったのだ。その意味で、ユシフ・スターリンは、名目的には民主的手続きで選ばれた、民主的国家の元首であった。その意味で、スターリンを生み出したのは、いわば、(血の粛清付きの)禁断の多数決でもあるのだ。

    独裁的指導者型牧師の形成要因

     しかし、カルト教会に見られるように、牧師が独裁的な指導者になるケースというのはないわけではないらしい。本人がそれを目指して牧師になる悪辣なケースがどの程度あるかはミーちゃんはーちゃんは知らないが。

     しかし、周りの教会員がおだて、ちやほやすることが教会文化として定着してしまった結果、牧師の絶対権力化が起き、そして独裁へとつながるケースの方が多いのではないか。きちんと調査したわけではないので、何ともいい難いが。
     御本人は誠に善意に富み善人であるのではあるが、教会員がその善意や善人であることを利用し、善なるもの極み、絶対善として持ち上げてしまう。金の子牛事件と同じ構造があるのではないだろうか。これは、牧師の信徒集団による集団的崇拝であり、牧師に対する個人崇拝であるという意味で、牧師の偶像化でもある。スターリン時代や、これまた昭和時代に起きた文化対革命も左様である。あのころは、国内は自然災害でボロボロであっても、中国のある地方では毛沢東主席の指導のお陰で、食物は大増産と北京放送は伝えていた時代がかつてあった。
     信徒による牧師への集団的崇拝を止められなかった牧師にも責任があるが、牧師の偶像化を行った会衆にも責任があるケースが多いのではないか。そして、それをだれ一人として止めようとしなかった会衆の責任は問われるであろう。

    我が国における儒教の影響と徳治制度

     日本では儒教的な年長者による徳治政治(対話によらず指導者の個人の感覚に頼る政治)が長期間定着し、中学校クラブの先輩後輩関係から、旧大日本帝国陸軍(批判的な意味で用いている)における先任下士官問題、大は、大手銀行における入行年次による社長就任劇に至るまで、あちこちで見られる現象である。
     ある人は、ギリシアのストア派的な哲人政治との類似性を指摘するかもしれないが、哲人政治は、思考と対話による政治であるが、徳治政治は、感性と黙認による政治であり、両者は明らかに別物であろう。我が国の教会人の中にも、この徳治政治への憧憬の情念はいまだに見られるがゆえに、牧師の個人崇拝と絶対化が起きやすいのではないだろうか。そして、場合によっては、スターリン型牧師への形成へとつながりかねない。

    徳治政治の象徴としての天皇制とキリスト教会
    教会内小天皇としての役割を与えられる牧師

     教会の中での徳治政治の象徴としての小天皇としての牧師の存在については、Ministry 6号(2010年夏号)の 辛淑玉さんの発言P95 で次のようにふれられている通り。

     日本の場合は、キリスト教も天皇制って感じがする。天皇主義的キリスト教から出てないから、いつまでたっても、対等とは何か、平等とは何か、教義とは何か、それをいかに伝えていくのかといったことに対して先に進んでいかないんじゃない?

     ただし、すべての牧師が、小国家としての各教会における小天皇であるといはいわない。そうでない例外をたくさん知っているから。

    徳治と仁徳と古代天皇

     徳治と言えば、古代のオオキミの一人は、まさに『仁徳(人徳より大きいらしい)』という名をもっている。国内最大級の古墳、大仙山古墳(宮内庁によると仁徳天皇陵とされている)は仁徳(人徳)の極みのオオキミであると想定されるがゆえに、古代文献資料的にはその陵墓と比定するには本来的には難のある大仙山古墳を明治期の儒教的精神になじんでいた宮内省の官僚は、仁徳天皇陵と比定したのではあるまいか(これは想像。歴史学者ではないミーちゃんはーちゃんは歴史学の論文ではないブログ記事であり、こういうあそびをしてよいと思っている)。


    大仙陵古墳2007年 国土地理院 空中写真大仙陵古墳 1948 米軍撮影 空中写真
    2007年国土地理院撮影の大仙山古墳と1948年米軍撮影の大仙山古墳
     (米軍は15年戦争後、戦略爆撃の効果検証のため撮影を実施)

    天皇制の原型となったキリスト教の神
    精神的支柱であった天皇の代わりなった牧師

     なお、岡田明著 みなみみなみ画による、「タイムっち」(これまた、今年のキリスト教本屋大賞エントリー作品。高いけど、良い。)では、戦前(一部戦後を含む)の天皇の徳治制度はキリスト教を換骨奪胎したものであることが示されている。

     こうなると、もう、日本の教会は、

     キリスト教の神 ⇒ 天皇制 ⇒ キリスト教会の牧師
     

    という構造になっていることになる。一番の問題は、人格より優れているとされる『仁徳(一般に人徳よりすごいらしい』をもつ存在としての天皇と同じように、仁徳をもつ牧師という牧師理解へと変質し、牧師は立派な仁徳をもたなければならない、完全無欠のスーパースターでなければ、という理念系、理想モデルとして語られる場面があるのではないか。
     戦前、戦中、戦後ちょこっとあたりの人々の精神的支柱であった天皇制と牧師制度が、現在の日本の教会では入れ替わっている場合もあるのではないか。もしそうであれば、大変残念なことだ。教科書黒塗りくらいでは、解決しなかったのだな。

    予算も行政機関もないのに人柱となることを要求される牧師

     しかし、現行の天皇制度には宮内庁という行政執行機関が措置されており、また、そのための予算も措置されているが、牧師には、行政執行機関もなければ、下手をすると予算措置もあまり十分でない教会群も少なくないと聞く。これでは牧師はもたないだろうし、まったく予算も人的措置もなく、コミュニティの精神的かつ現実的支柱としての人柱の役割を教会が牧師に無理にになわされている牧師がいるとすれば、その牧師と、特にその家族があまりにもかわいそうでならない。

    民意、このどうしようもなく残念なもの

     先にふれたとおり、スターリンも(粛清付き)民意で選出された指導者であったし、ナチスドイツのヒトラーも民意で選出された指導者であった。

    神意なき民意による統治と牧会者

     神意なき民意による統治も、会衆の問題でもあるが、牧会者の問題でもある。確かに制度上は、会衆制度をとる教会群であれば、会衆に最終的決定権があり、責任があるはずであることは間違いない。しかし、会衆は概して決定する者の責任を引き取らず、責任をたらいまわしにして、時間を過ごすことも少なくないのである。であるがゆえに、牧会者は預言者的性格をもたねばならない。たとえ、それが荒野の声になろうとでも、である。

    昭和の時代に出されたバルメン宣言から80年

     ワイマール帝国下において、民主主義的制度を経て、ナチスドイツは生まれ、ヒトラーとゲッペルスというアジテーターを得て、一党独裁へと急傾斜していったドイツの歴史はよく知られたことである。これに反し、80年前、バルメン宣言がドイツにおいての政治的動きに上がらうために教会人から出されたものの、それを無視するかのようにドイツはナチスドイツ一色に塗られて行った。表面上、民主主義の形をとりながら。バルメン宣言は結果的に預言者的宣言、荒野に叫ぶ声とはなってしまった。

     バルメン宣言の時代に相前後して、我が国においても、大日本帝国議会と言うまがりなりにも一応の民主主義制度を経て、治安維持法も生まれたし、八紘一宇の精神も、「パーマネントはやめませう」、「贅沢は敵だ」、「鬼畜米英」、「出て来いニミッツ、マッカーサー」というポスターも生まれたのである。ちなみに、出て来いニミッツ、マッカーサーと言ったら、本当にボロボロになった我が国に占領者としておふた方が出てきたという笑えない痛い事実。

     独裁と政体論にまつわる雑談はさておき、確かに、水谷さんが指摘する最後の部分はその通りである。

      新約聖書においては、パウロや使徒たちは、指導者がスターリンとなる危険性も、会衆が「禁断の多数決」をしかねない危険性の両者をを常に覚えていたように読めます。新約聖書は、指導者にも会衆にも、絶えず神意を知り、神意による教会形成を勧めていたようです。

     決して、スターリンに変貌しない指導者、決して、禁断の多数決を実行しない会衆政治。そんな当たり前のことを願うとともに、この危険性が常にあること、また、お互いは、意外なまでにこの危険に陥りやすい罪人であることも自覚したいものです。
    教会とは何か?
    我々の愚行と対話の必要性


    軽々に神意をもちだす愚

     しかし、問題の本質は、神意が安易にそれも軽々に語られすぎる点にはないだろうか。それを言い出すのが牧師であれ、会衆であれ。「××が神意だ」ということは、下手をすると自らの情や理解を神の座に据えることに他ならないのだが、これが実に安易に行われることもあるのではないだろうか。「神意」は錦の御旗、葵の紋どころではない。



     まずもって、「神意」、そして、いとも容易に、意図も安易に「神意」をもちだす我を疑ってかかるべきもののような気がする。

    責任のなすり合いをする愚

     重要なポイントは、独断専行を許すどころか、独断専行すら時に賛美の対象とする個人崇拝という偶像崇拝の結果として生まれる独裁であれ、集団的感情が支配する集団的感情に対する偶像崇拝の結果として生まれる衆愚政治であれ、いずれの場合であれ、これらの偶像崇拝の結果から生まれる悲劇をどう防ぐのか、それが重要ではないか。

     それを「牧師が悪い」、「会衆が悪い」と、悪者探しに終始し、責任転嫁の泥仕合を繰り広げるのではなく、信徒であれ牧師であれ、一人ひとりの問題として、そして、多くの信徒と牧師からなるHoly United Community(神の霊に支配される形での聖なる多様性をもつ人々が、神によってまとめられた社会集団)をなすものとして神の前に自分たちに神から与えられし課題として考えるべきなのではないだろうか。

    神によって多様な人々が寄せ集められた
    神のコミュニティとしての教会

     先にも、『反知性的なキリスト者はあり得るか・・・我らがキリストとするもの』の記事で所感を述べたが、聖書という言葉に立つものとして、知性を神から、神のかたち(エイコーン)を与えられたものとして、愚かしくあっても、愚行を繰り返すようなものであっても、神からあたえられしことばを用いて、対話(ディスコース)による他者理解と他者の包摂(Embracement)を基礎とする多様なものが集められた公共圏(ハーバマスによるPublic Sphere)、あるいはUnited Communityが神の霊において統合されたものが教会、あるいは公会であることを認識することが重要なのではないだろうか。盲目的に何か、誰かに従うのではなく。
     そして、その公共圏、あるいはUnited Communityを構成する個々の一人ひとりが、神によって神のもとに寄せ集められることによってはじめて形成されるHoly United Communityであるコーパスクリスティの一部をなす教会、すなわち、それぞれの地域にある教会が神の支配をうける者として、聖書に基づき何をなすべきかを求め、そして、自らが限界あるものとは知りつつ、この地上に神の愛を示し、その愛によって、人々がもつ神の不在という罪を神の支配によって埋め、神の目から見て、義(神の目から見て受け入れ可能である状態)となるように、本来の神の形(エイコーンとしての)人間性を回復するように人々を招くことではないだろうか。(あー、なんてNTライト風。下記の参考文献の一番最後のウェブサイトでの発言を完全にパチっている。www)

    昭和を生きた英国の政治家の政体論

     最後にウィンストン・チャーチル(英国の元海軍大臣にして、後の英国首相、大日本帝国にポツダム宣言を受諾させ、無条件降伏を求めた国連の初期の形成国の一つでもあり、ABCD包囲網を形成された国家連合(国連)の指導者のお一人)の戦後の議会での答弁の一部を紹介して終わる。
    “Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.”

     これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも罪(神の不在)と悲痛な叫びにみちたこの世界で試みられるであろう。民主制が完全なもので全て賢明なものであるというフリをすることは誰にも出来まい。実際、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主制以外のあらゆる政治形態を除いて、ではあるが。

     人間的な仁徳による対話の不在となる教会が形成されるのではなく、神の民の中での、神のことばを介した対話、すなわち、神の平和のうちにある牧会者と信徒、信徒同士の対話、そして非信徒と信徒との対話が、神のことばでもあるナザレのイエスが愛した教会の中で、我が国のみならず、よそ様の国を含め、この地において一層促進されることをこころからミーちゃんはーちゃんは、祈念するものである。

     ネ、昭和の日にふさわしいでしょ。

    参考文献など
     ユルゲン・ハーバマス コミュニケイション的行為の理論 上 未来社
     ユルゲン・ハーバマス コミュニケイション的行為の理論 下 未来社
     岡田明 みなみみなみ タイムっち マンガで読む日本キリスト教史
                  なぜ天皇が神サマになったのか キリスト新聞社
     ユルゲン・ハーバマス 公共性の構造転換 市民社会の一カテゴリーについての探究 第2版
                            未来社
     NTライト March 27, 2014, The Evening Lecture,
        St. Mellitus Theological Centre Inaugural Lecture Series,

        http://www.stmellituskc.com/landing/  (2014年4月26日 アクセス)
     


    評価:
    価格: ¥5,184
    ショップ: HMV ローソンホットステーション R
    コメント:名著であるが、ドイツ語が難しいことを難しく表現するのに非常に相応しい言語であることが翻訳を通しても伝わってくる本。

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