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2014.04.17 Thursday

反知性的なキリスト者はあり得るか・・・我らがキリストとするもの

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     先日、ある方がFacebookで中外日報の4月11日付の社説を紹介していた。読まれたい方、読まれてない方は、こちらをクリック

      宗教界を取り巻く現下の状況とその中に見られる反知性的傾向にどう宗教者が向かうべきなのかの意見が書かれてあった。(主として仏教者に向けてであろうが…)

     これを読んだ時、ミーちゃんはーちゃんは、この記事をシェアするにあたって、次のようにつぶやいた。

    これは大事だと思う。

    ポストモダンに行けない近代人たちが反知性主義に毒されているとしたら・・・

    ポピュリズムと反知性主義がシンクロしたら・・・

    聖書を読む民が反知性主義に毒されたとしたら・・


    怖いよね。ちょっと。いや、だいぶん。


     さて、このことについて、少し考えたい。今回は、かなりガチの演説調(堅苦しい)である。とはいえ、The Simpsonsの引用はあるけど…。

    反知性的であるとされる
    福音派の一員として
     ところで、アメリカ福音派は、その反知性的な傾向で悪口を言われることが多いことを福音派の教会の教役者でもある青木先生は、ご著書「アメリカ福音派の歴史」の中で書かれている。また、アメリカのアニメ、シンプソンズでも、ネッド・フランダースという福音派的な傾向の持ち主の『熱心な』クリスチャンは、反知性的な言動をする存在として描かれている。


    ↑↑ハリーポッターを読み聞かせした後焚書するフランダース氏↑↑


    そのようにカリカルチュア化して描かれるほど、「福音派=反知性的」という理解が米国においては、一般的である。まぁ、多くの福音派の皆様は反知性的ではないが、声の大きな反知性的な福音派はいる。それらの方々の精神世界を詳しく知りたい方は、下部に紹介した、Jesus Camp(左のリンクをクリックしてあらわれる動画は、たぶん、ポルトガル語の字幕つき)をご覧になられるとよい。声の大きな反知性的な方が福音派にもおられること、それは福音派とラヴェルを他の皆さんから張っていただけるグループの一部を形成するものとして素直に認めたい。

    聖書のみと『知性』
     本来、聖書を読む(神と対話する)民であり、Sola Scriptura(聖書のみ)という標語を掲げているはずの宗教改革以降のプロテスタント諸派は、反知性的ではありえないはずである。聖書の文言を通して、その文言の裏にある『神の御思い』を深く尋ねる人々であったはずである。

     しかし、いつのころからか、このSola Scripturaということが、牧師や巡回説教者の講壇から語られる発言に沿って聖書を読むことにとって代わられたのではないか。そして、本来の聖書の読みを丁寧にすることを、聖書の言葉とそこに示された神の御思いを素朴に尋ね求め、静まりの中で神との対話をするという、キリスト者としてのなすべき基本的な作業をキリスト者はしてきただろうか。それを忘れ、牧会者や巡回説教者の語った話のみに耳を傾けたことはなかったろうか。正直に認めよう、ミーちゃんはーちゃんは、かなりの長期間そうしていた。

    繰り返すことによって強化される
    特定の聖書理解への依存症
     牧会者や巡回説教者も日常の時間的制約の中で、その静まりの中で生きることを省略し、安易な道に走り、聴衆に受けのいい聖書理解のみを語り、聴衆が耳を傾ける恐ろしげなる地獄の話、それとコントラストをなす美しく清らかないわゆる『天国』の話を語ったことはなかったか。しかし、それは、神の国を誤って解釈した『天国』に挿げ替えてしまっていたのではないだろうか。まさに、『神の国』偽装事件である。正直に言おう。ミーちゃんはーちゃんはその愚を犯したことがある。

     偽装事件だからと言っても、あまりに定着しているので、マスコミは『冬の佐村河内祭り』ならぬ『夏の神の国偽装祭り』とか、騒いでくれないけど。ミーちゃんはーちゃんは、神の国偽装事件でマスコミの皆さんを集めた緊急記者会見を開きたくはない。

     何、特定の牧師が悪いのでもない。特定の巡回説教者が悪いのでもない。彼らとて、犠牲者なのだ。聖書を誤解して読みこなしてしまった人々が作り上げたちょっこしだけ不純なところを含む教義というドグマの犠牲者なのだ。それを責めるのは、あまりにもかわいそうだし、責めたところで何か生まれるわけではない。悲惨な醜い争いを生むだけだから、そういうことはやめた方がよいと思う。

    依存症的聖書の読み方

     自ら、特定の読み方に沿って、聖書の字面をなぞる作業を唯々諾々としてするなら、それは聖書を読む行為ではないと思う。聖書の文字を見ているに過ぎず、頭の中は、神と対話するのではなく、説教者が同じことを語る映像の流れる壊れたビデオテープかDVDの映像が脳内で延々と流れているを見ているに等しいのではないか。

     あまりに同じことを繰り返していると、依存症状が出てしまう。ウソも1億回言ったら、その人の中では事実になるのと同じである。職業的なウソツキは、ウソを数回言うだけで、それが自分の中で真実として記憶されるという話もあるらしい。

     ある牧師やある説教者、ある神学者がいった内容を、聖書を読むときに毎度毎度「これは・・・・ということだ」と思い出すことを延々繰り返しているならば、それを神と対話する、神と対峙するとは、言わないように思う。それこそ、悪習の中にはまり込んでいるだけに等しいのではないだろうか。言葉が過ぎる、というご批判は甘んじて受けよう。

     これは、ある聖書理解をわれらのキリスト、メシア、王、支配者とすることではあるまいか?

    知性を塵芥にした反知性主義 
     ある牧師やある説教者、ある神学者がいった同じ内容を思い出すだけのことを延々繰り返していること、これは反知性的な行為ではないだろうか。神が与えたもうた、知性というその豊かさを塵芥に等しいものする行為であり、神の与えたもうた人間の権利と神の尊厳を蹂躙する行為ではないだろうか。そもそも、創世記の初めにあるように、われら、人間には、地を治めるための知性を神が与えたもうたのではないだろうか。

    わからないからと言って
    対話を停止することとカリダアデ(愛)
     数学が嫌いな人もいるだろう。科学が嫌いな人もいるだろう。しかし、われらは神が与えたもうた知性の結晶の恩恵にあずかって生きていないだろうか。ガスレンジで湯を沸かし、デジタルテレビを見、自動車やトラクタ、田植機に乗る時、そこに数学的知見や科学的知見が生かされているのだ。

     聖書の主張と合わないと受け止めざるを得ないことを主張する科学者もいるだろう。聖書を否定的に扱う科学者もいるだろう。我らを怒らせる言葉を発する科学者や神学者もいるだろう。しかし、彼らは、われらの隣人なのではないだろうか。その隣人についてイエスは何と言ったか。その隣人を愛せ(大切にせよ、価値あるものと認めよ)、である。あなたに敵対するものを愛せ(神がカリダアデしている[人間には理解できない神の不思議さをもって価値を認めている])が故に大切にせよ、価値を認めよ)、と言ったのではなかったか。彼らと対話しろと。彼らを抹殺、黙殺、無視するのではなく。そして、われらに敵するもののために祈れといいたまいしは、誰であったか。

     祈ることは、関心を持つことでもある。マザー・テレサは、愛の反対語は無関心であると言った(らしい)。自分の考えの違う人を排除し、その言説にことさら、耳を傾けないことはキリスト者のいう愛(大切、他者への価値を認めること)と矛盾しないだろうか。それとも、マザー・テレサは、カトリック教会の修道女であるから、我らプロテスタント派は、その言葉に耳を傾ける必要がないのだろうか。我等は、教皇フランシスのことばを必要以上に重視する必要はないが、彼の真意にちらっとでも思いを巡らすことはしなくてよいのだろうか。

    対話する神
    対話したイエス
     われらは、情の赴くまま生きるようにできていない。神は、情の赴くまま生き、悲惨が起きないように我らに知性を与えたもうたのではないか。神は、最初の殺人者カインに警告を与える際に、言葉で語りたもうた(知性的に語りかけられた)のではないか。 
     
     にもかかわらず、われらが、もし自分の情、気持ち(とりわけ、好悪の気持ち)、感情を重視するのだとすれば、それは、われらがこれらの感情をわれらの王であり、支配者であり、メシアでもあるキリスト、すなわちが本来万軍の主が座るべき神の御座に、これらの感情といったものを置き、それを拝する(すなわち偶像崇拝する)ことになっていないだろうか?我らは、クーデターを神に対して起こしている反乱の徒になっていないだろうか?自らをキリスト者としながらも・・・。

     われらは、もう一度、自らのうちにある人間の弱さの一つである、反知性的傾向に向き合うべきかもしれない。そして、対話をすることの重要性をもう一度見つめなおすべきだろう。ヨハネの福音書の冒頭部で、イエスは知性とのかかわりの深いもの、「ことば」として示されるのではないだろうか?イエスは、叱り飛ばしたパリサイ人とも対話したのではなかったか。ザアカイや取税人、姦淫の場でとらえられた女、スカルの井戸で水を汲んでいた重婚の女性や、盲者、障害者、苦しむひとのみと対話したのではなく。

     そして、そのイエスは、われらと聖書を通して、対話しようとしているのではないだろうか。神は知性的な存在である。パウロも祈りにつぃて、そう述懐している。われもまた、そう愚考する。イザヤ書を引用してこの記事を終わる。

     主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。(イザヤ書1章18節 口語訳による)



    評価:
    価格: ¥5,184
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:言いたいことはいっぱいあるが、まぁ、アメリカ福音派の発展史に関して日本語で読める本でこの本より詳しい本は見たことがない。

    コメント
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2014.05.05 Monday 02:47

    ニコアライド様

    本ブログでは、本文と直接関係のないコメント、とりわけ、同一コメントのコピペ対応は、迷惑行為の一種として、お断りしております。あしからずご了承ください。

    >題:国を守る覚悟・・
    >...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか?)

    結論から申し上げますと、無くせません。

    地上から戦争がなくせるものなら、キリスト者同士の間でなくせているはずなのです。イエスは、他者への愛を語られたはずなのですから。汝の敵のために祈れ、と言われた方なのですから。

    キリスト者がこれほど、分裂し、互いに地で血を流す、I列王記18章のバアルの礼拝儀式でしたような過去の黒歴史はありえないはずですから。

    I列王記
    18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
    18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
    18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。

    ご関心の内容に関しましては、
    Preston Sprinkle著
    Fight: A Christian Case for Non-Violence
    をご推奨申し上げます。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2014.05.05 Monday 15:09
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