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2014.04.26 Saturday

書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その3)最終回

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    さて、これまでに引き続き

    書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その1)


    書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その2)


    八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本

    の書評の続きいたしたく。本日最終回でございます。

    お葬式と新来会者

    新来者とお葬式(p.82) では、

      まず指摘しておきますと、(著者の知る限りにおいて)キリスト教の葬儀の評判は悪くありません。出席したことのある人は大抵よかったとおっしゃいます。そう、それはもちろん「仏教の葬儀に比べて」ということですが。何が好評かと言えば、祈祷の言葉がお経と違って理解可能な日本語である。

    とありました。しかし、ラテン語のミサなんかだと、お経と大して変わらん気もするが、ラテン語ミサはさすがに絶滅危惧種、レッドデータブック記載種に近いほど減っているしなぁ。

     その後の戸惑いポイントとして挙げてある中で、

    ○故人の思い出そっちのけで、神のことを語る説教に違和感。

     これ、実際にあるんです。神のことを語るならまだしも、聖書の誤解に近い内容を延々と語る牧師様もおられた。

     なお、以下で紹介するような特殊な事例は所謂福音派を含め、キリスト教界において一般的(大多数)でないことだけはお断り申し上げておくが、しかし、実際にミーちゃんはーちゃんが直接出会った事例であることも申し上げておく。


     あるバプティスト派の牧師さんが司式したミーちゃんはーちゃんのかなり近い親族のお葬式に出たとき、まさにこの現実に直面しました。実におどろおどろしい地獄行きと天国行きに二手に分かれる図を示しながら、その牧師様がお考えの「福音」と称するもの(地獄と裁きの話 あんたは、ジョナサン・エドワーズか?)を延々20分以上語られた牧師様が居られましたとさ。その時の解説で用いられた絵の元絵がこちら。

    http://www3.telus.net/eddie_w/tworoads.jpg

    ほら、すごいでしょ。ね。なお、この画像の元リンクはこちら

     まぁ、親族以外は福音派の信徒さんがほとんどだったんで大きな問題にはならずにはすみましたが、「これ、福音でも何でもないじゃん。せんせー、福音の再発見、読んでくださいよ。お願いですから。」といいたくなってしまった。

     あ、バプティストといっても、津のH先生は、バプティスト派の牧師さんをしておられますが、穏健で頑健な教理にお立ちの方ですしぃ。バプティスト派の皆様もコーパスクリスティの一部をなされる方として尊敬いたしておりますです。はい。

    斎場で万歳三唱!?
    祝電もどきの弔電!?

     イースターも過ぎたので、ついでに復活と葬儀がらみの日本のある福音派系の教会で起きたことについて書きたいことがもう少しあるんですね。

      現実にあったこととして衝撃的だったのが、斎場で万歳三唱を唱え参加者にも、それを求めた教会の責任者の存在なんですね。MJD。これは、実話です。ね、すごいでしょ。

     他人の葬儀で万歳三唱する方々の精神世界を考えれば、死亡した信者は天国(ちなみに、この文字通りの単語は口語訳聖書にあっても、新改訳聖書や新共同訳聖書内にはないはず)に行っているから万歳三唱、という精神性はわからなくはありません。ですが、嘆き悲しむ親族の前で万歳三唱すか?MJD?

     おまけに、葬儀会場となった教会に大量に押し寄せる祝電もどきの弔電の文章。

    「御岳父様の天への凱旋を覚えまして主に感謝します」
       (はぁ?遺族は信者でも悲しいんですけど…)、

    「○○兄様との天での再会を心待ちにしております」
      (はぁ?勝手に心待ちにしないでほしい。愛する親族がいなくなって悲しい遺族の前で・・)

    など、ものすごい親族への思いやりとお励ましにあふれた弔電の数々が寄せられることも。

    (なお、これらは、現実に某教会で弔電として読まれたことのあるもの を下敷きにしている)これらの弔電の文言を見た瞬間、ミーちゃんは以下に示すような、コンドリーザ・ライス嬢のような顔になりそうになった。


       えぇぇぇぇ、それが弔電?
    (なお、写真は、コンドリーザ・ライス嬢である。)

     確かに、「イエスは死に勝利した」とは第Iコリント15章の終りの方で、パウロさんは書いていますよぉ。しかし、だからと言って、某阪神球団が十数年ぶりに優勝したときのような祝電もどきの弔電を遺族に向かって打電する神経や感性ってドヤさ、とミーちゃんはーちゃんは思うのですね。

     また、それを打電する際にNTTの局員が不審そうな対応をした、ということを大勢の会衆の前で得々と語られた巡回説教者の方もおられた。

      天国理解(そもそも、この用語がそもそもちょっこしマツガッテいるかも、と思う。イエスは、神の国はあなたのただなかにある、とおっしゃったではないか?)や死後の世界の理解、いや、現世でのキリスト者の聖書理解がおかしいのは、本ブログの下部で紹介するSuprised by Hopeという本でNTライトさんの指摘するとおりなのではないだろうか。神の国理解がおかしいのは、日本のキリスト者に限らず、大英帝国人でも、死後の理解がちょっこしビミョ〜〜〜なキリスト者は少なくないらしい。

    書評らしい書評

      おふざけモードはこの辺にして、さて、以下ではまじめに本書についての「書評らしい書評」を記載しておこう。

    外部者ゆえの視点

     ここまで本文を引用しながら紹介してきたが、本書は、八木谷さんという外部者であるがゆえに、内部者である教会人がなかなか気づきにくい、教会の教理に支えられているとはいえ、外部者からすれば疑問を覚えかねないような現実の信者の独特の行動パターンなどを明確にかつクリアカットに示しておられる。外部者であるがゆえにクリティカルな視点で確認できる立場をお持ちになっており、また、外部者であるが故に気づく素朴な疑念を憶することなくご指摘になっておられるのだと思う。

    教会の態度の現れと宣教論的視点

     教会人(特に牧師)が「教会外部の人にアウトリーチすることが重要、伝道が重要」といいつつも、様々な側面で、教会全体としてアウトリーチする姿勢が形としてあらわれているだろうか、ということを素朴に、現実的側面に即して指摘しておられる。そして、教会のあり方、教会と教会員の態度そのものが日本社会の一般的な人にとって、教会の敷居を高いものにしていることを、この本で紹介された事例は物語っているのではないか。これらの点を、様々の観点から、勇気をもって指摘しているという点において、本書を高く評価するとともに多くのキリスト教関係者に推奨したい。外部の方の視点からとはいえ、この本は、非常に重要な宣教論的視座を有する書籍であるといえよう。

    教会論超入門

     また、本書では、外部者であるがゆえの誠実さ、観察者としての客観性をもちながら、一般にはなかなかその内実、その思想性の違いがあり一般化しにくい教会というものについて、教会の仕組みやそこでの信徒の行動、その背景にある精神世界がどのようなものであるのか、ということを教会人にではなく、外部者である一般の方々に向けて、丁寧に説明しようと試みるという意味で、非常にユニークな教会論的視座をも持った本であるといえよう。

    つぶやき、茶飲み話からの脱却

     このような視点を我が国の教会人は本書が出るまで放置してきたのではないだろうか。むろん教会内でのつぶやきや、牧師会などでのお茶飲み話の話題程度でとどまっていたのではないだろうか。

    教会という建物の持つ宣教的側面

     先日のNTライトの講演(リンクはこちら)の朝のセッションの17分前後で、教会の建物そのものが持つ、イエスが神であり、王であることを示しているという宣教的側面を触れていたが、教会人は、そのことにもう少し配慮が必要かもしれない。(以下はその動画。冒頭部分は無音で映像が変わらないので、少し先に進めるとよいと思われ)




    教会は、神の国(不完全であっても神の支配が及んでいる教会)がいまここにあり、そこのドアは、一般に向けて、開かれており、神の愛の支配の中に神が招いていることをもう少し思いめぐらしたほうがよいのかもしれない。

    宣教態度と今日的状況

     教会は、「新来会者よ、来たれ」といいつつも、教会人は、「来るなら来い、我らには永遠に価値あるものがあるぞよ」という態度であったのではないだろうか。そして、その結果、我等は、若い人が教会にいないと、今哀歌を歌わざるを得ないのではないだろうか。

     暇を持て余した大学生が大量に放っておいても到来した時代の伝道の態度としては問題なかったとしても、バイトやネット、携帯ゲームで遊ぶのに忙しい(勉学で忙しくはないらしい。まぁ、ホイジンガ先生によると人間は、ホモ・ルーデンスらしいから、仕方がないかも。ミーちゃんはーちゃんは、ホモ・ルーデンス族であるがゆえにそのことはよくわかる) 大学生や高校生が大半である現状においては、そのような教会の態度は、もはや、伝道としての有効性を失っているではなかろうか。

    文化人類学的フィールドワークの結晶
     これまで同書の一部をご紹介してきたが、所謂一見さんとして、多くの教会をご訪問になりながら、綿密な調査に基づき体験的に書かれた実に見事な文化人類学的フィールドワークの結晶としての本書の内容は、実に厚みがあり、説得力があるのではなかろうか。自分以外の教会と教会文化を知ることの少ない日本のキリスト者にとって、新たな発見、まさに目からうろこ、そして、自らが井の中の蛙であることを反省することができるのではなかろうか。

    新たなる教会論的視点の提示

     その意味で、本書は、宣教とは何か、一般の日本人にとって、教会はどのように映っているのか、という考現学的観点からの教会論的視座をもつ書籍であると言えよう。

      このような視点をもつ本やサイトは、評者(ミーちゃんはーちゃん)が管見する限りにおいて、あまりなかったように思う。だからこそ、キリスト教本屋大賞(なんて狭い世界や)にノミネートされたと思料する。

     上述のような八木谷さんのような視点から、「教会とは何か」を内部の信者にも、教会外部の一般の人々にわかりやすく語ってこなかったこと、伝えてこなかったことを、教会人の一人として、評者は個人的には深く恥じ入っている。

    永遠の宣教地としての課題

     日本は宣教開始から、カトリックを含めても400年弱、プロテスタント諸派は、160年弱しかたっていない、まだまだ未開の宣教地にとどまり続けている現実がある。宣教地である現状があるがゆえに、宣教に熱心であるあまり、これらの本来教会とは何であるか、ということに関して、深く思いを巡らしてこなかったのではないだろうか。

    教会人に再考を促す一冊

     これまで、コーパス・クリスティの概念が曲がりなりにも存在し、共有されている欧米の教会論をそのまま我が国に持ち込む、という愚を我が国の教会人は繰り返してきたのかもしれない (似たようなことは、数理経済学の分野などでも時々実際に管見されるので、教会人だけではないようだが…)。教会人にこれまでのあり方の再考を促す一冊と言えよう。
    --------------

     福音と世界の書評風に書いてみました。おー、なかなか硬派な書評らしい書評になった(8888888888と自画自賛しておこうwww)。

     しかしさぁ〜〜。この本って、「おおさまは裸だ!」って教会人に向かって叫んだ子供と同じ構造ではあるよね。でも、八木谷さん、叫んでくれてありがとう。ちなみに、このブログ記事の一部も、「ひょっとして、おおさまは裸なんじゃね?」っていう記事も時に載せますです。ハイ。

      じゃ、またね。




    評価:
    N. T. Wright
    Zondervan
    ¥ 2,873
    (2010-11-16)
    コメント:キリスト者の死後の世界観が聖書から本来的に導けるのか、を問い直す本

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