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2008.11.04 Tuesday

かわいい(?)モーセ

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    10月末の最終日曜日、教会で信徒の皆さんと一緒に聖書をともに学ぶ時間を持った。


     


    ちょうどヘブル人への手紙11章のモーセだったので、出エジプト記の1章と2章(モーセの出生の前後)の中から、3グループ(各グループ6-7人)に分かれて話し合いをしました。


     


     最初のうちは、参加者の我が長女(中学生)から出た、質問へのご回答タイム。結構、変な質問が出ましたねぇ。


     


    「ヘテ人って何?」


      (はいはい、これ、ヒッタイトです。)


     


    「なんで、赤ちゃんを殺そうとしたの?」


     (はいはい、これは、要するにヘブル人は、要するにエジプトと対立関係にあったメソポタミアの関係民族なので、敵対心が強いのですよ。)


     


    「なぜ、全ての民の赤ちゃんを殺そうとしたの?」


     (はい、これも、当時のアメリカというのは、今のカナダとか、アメリカみたいな多民族国家なんです。当時のエジプトには、今のリビアとか、トルコ(ギリシア)とか、イラン・イラクくらいの辺りまでの人たちが流れてできている国なんです。飢饉でくいっぱぐれた人たちが、生存のためにやってくるのが、エジプト。イスラエル人のご先祖様の、イスラエル(ヤコブ)も食いっぱぐれそうになってエジプトに来たの。だらか、エジプトが戦争で負けそうになると、みんなが反逆するわけで、危ないでしょ。男の子は、戦争の時に担ぎ出されるわけだからよ。)


     ここから私の余談。ところで、エジプトは小麦の大産地だったわけで・・・。エジプトをローマが支配するようになってから、パンとサーカスがローマ市民には無料で提供されたわけで・・・。言いはしませんでしたけど、ビールの発祥の地は、エジプトだったりします。いつのまにか、出エジプト記を通しての分かち合いが、なぜか、ローマ史講義になっている。まぁ、いっか。


     


     その後、助産婦の信仰とか、父母の信仰について触れて欲しい、というのが、長老の方のご意向。それも多少配慮しながら、1章の「神を恐れる」についてのお話をしながら盛り上がっていました。


     


     私は特に気にしなかったのですが、赤ん坊であったモーセへの記述に奥さんから疑問符が・・・。モーセがかわいかったので、という出エジプト記の記述。たしかに、ヘブル11章23節にも 「その子の美しい」と新改訳では翻訳してあった。 家内は読みながら、「美しいねぇ」と思っていたので、自宅に戻る途中、質問が飛んできました。出エジプト記を見ていると、旧約聖書の本文中にも「麗しい」(口語訳)とか「かわいい」(新改訳)、「かわいかった」(新共同訳)となっていた。うーん。なんだろう。


     


     私の個人的としてのイメージは、モーセは、ひげを生やした骨太の老人のイメージ。皺に苦悩と指導者としての責任が刻み込まれたような印象の人物。それが「かわいい」は似合わない。かわいいねぇ。そりゃ、子供は概してかわいいですよ。赤ん坊は。誰だって。でも、なぜにモーセだけ、かわいい赤ん坊の記述があるのか。もちろん、出生時のありかたが乗っている聖書の例としては、きわめて少ない。でも、「かわいい」って何?


     


     そこで、ん?とおもったので、原典。旧約聖書のヘブル語版を調べてみたら、Tobe(トーブまたはトゥブ)。あ、これ、創世記の最初で、「○○をよしとされた」とか、「非常に良かった」とか書いてある言葉。また、善悪を知る木の実の「善」がこの「かわいい」と訳出されている言葉。そうなんですよぉ。モーセは、神の眼から見て、「よし・善」とされた。あるいは、「神の器として選び取られたものであった」という意味があったんですね。なるほど。


     


     で、今週は、モーセについての学び。トーブという語と神の臨在との関係をお話しする。神の臨在があることそのものが、トーブであること。そして、出エジプト記の記述を通して、礼拝者としてのモーセ、指導者としてのモーセ、救出者としてのモーセとイエスとの共通性、紅海を渡ることを通してのバプテスマと形を通しての信仰の表現の重要性。半ばエジプト兵に追われた恐怖によるもととはいえ、「紅海をわたる」ことがイスラエルの民として、最初で最後の形を通しての信仰告白であった、という部分は、うちの奥さんに受けてしまった。


    コメント
     ぼくも中学生くらぃになって、やさしぃ先輩にあれこれ質問してみたぃですよ。  つぃつぃ質問できないことがあります、この歳のこの顔つきだと(笑
    • Focea
    • 2008.11.04 Tuesday 21:52
    いやぁ、そんなことは気にせず、知らないことは知らないで、人に聞いて回るのが一番かも。 ただ、自分でちょっとは勉強しないとね。中学生は知らないことを前提にできるから楽でいいよなぁ、と思います。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.05 Wednesday 12:12
     記事について・・・ 「そぅかぁ」とぼくも思い、使徒7:20を読むと・・・  『 ※神の目にかなった、かわいい子で』 となっていて、原文は 『神にかなった、(かわいい子で)』 だそうで。これはちょっと妙ですね。ですから、記事のトーブを照らすと、「なるほど!」、と思います。  ありがとうございました。
    • Focea
    • 2008.11.05 Wednesday 15:56
    あ、どうも。実は、使徒の働きのステパノのモーセへの言及は、2週間前の学びの時間で、別の信徒の方が語っておられたので、ちょっと重複になるのと、露骨にそことつないでしゃべると学んだ内容が不十分という批判と言う誤解を生んでもいけないので、はずしていたのでした。 確かに、ステパノの発言のギリシア語で文章表現を見た時に「かわいい」という表現がなかったので、あ、また新改訳の補足訳・・・。と頭を抱えた記憶があります。それをそのまま信じて、「かわいい」という理解を拡げていくことって、ちょっと問題かな、と思います。よろこび踊っている、という聖書解釈もそうですが。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.05 Wednesday 20:09
    「よろこび踊っている」というみことばは、あちこちで読んだような気もするのですが、その補足訳って、もすこし分りやすくお示しいただければ・・・ 芦にぃっ
    • Focea
    • 2008.11.08 Saturday 18:19
    Foce様 お尋ねの件ですが、喜びに踊っている、という表現が第1ペテロの1章8節にあります。 これ、元のギリシア語の意味を見ると、聖霊に満たされた非常に大きな喜び、といった意味があるように思います。ルカの10章21節などや1章47節で使われている表現だと思います。これ、日本語だけで読んでいると、救われた喜びでうれしくてしょうがなくて踊り始めるような印象があるのですが、ちょっと違うような感じがしています。ある女性信徒の方が、この踊りだす、ということばに基づいてお話されていた時に霊的な喜びと身体的な喜びを混同したお話となっていたので、ものすごい違和感があったので、補足訳かなぁ、と思って調べた記憶がございます。 ただ、詩篇30:11のように嘆きと踊りが対比で捉えられている表現もあるので、それを踏まえた翻訳だとは思うのですが…。誤解を生みかねない訳、と思っています。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.10 Monday 12:31
     とくに女性の場合、身体的な喜びに移りやすい、混同しやすいというのは、なるほどなぁと思います。  ルカの10:21を見ると、イエスさまが喜びおどり始めたのか、ですね。
    • Focea
    • 2008.11.11 Tuesday 02:18
    Foce様 女性特有と一般化できるかどうかは分かりませんが、その方が、喜びおどるについて、喜びの結果、おどりだすほどの喜びといったように、おどるの方に重点を置いたお話をされていたので、?となったわけです。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.11 Tuesday 06:53
    よほど踊るのがお好きな方なのかも知れませんね ^^ じつはきょう、文語訳を持って、クリニックの待合室で読んでいたのですが、たしか1ペテロのはずだったのに、何度読んでもそれらしいところすら分りませんでした。  帰宅して照らすと、文語訳では、「光栄ある喜悦をもて喜ぶ。」となってます。  およそ、踊るとは遠いように思われます。新約のメッセージをするのなら、ギリシャ語辞典を見ずとも、1200円の文語訳一冊(詩篇付き)をさっと見比べてみるだけでも、何か気づくこともあるかも知れない、という気もします。  けれど、使途7:20の「神の目にかなった、かわいい」は、ただ「いとうるわしく」と流されてますし、ヘブル11:23では「そのうるわ(美)しき子」となってますけどね。
    • Focea
    • 2008.11.11 Tuesday 19:44
    Foceさま そうです。文語訳だけでなく、口語訳、新共同訳を比較参照するだけでも、ずいぶん違うんですが。やはり、聖書とはいえ、翻訳本は翻訳本、どの訳にも一長一短があります。全体として、新改訳は読みやすくて良いのですが、時々、部分によっては、超補足訳の場合があり、釈義をきちんとしていく上では、気をつけたいときが・・・。  普通の人なら、ギリシア語まで手を出す必要はないとおもいます。だけど、ブラザレンの信徒は、翻訳本の聖書にも逐語霊感説を適用し読んでいる場合があるので、時々あちゃ〜、の解釈をする方がおられます。逐語霊感は、ギリシア語(アラム語・またはヘブル語)の失われた聖書原文のみ、というのが私の立場です。まァ、言語の違いがあるので、補足は悪くはないのですが、釈義の時には読み込み過ぎないようにしないと・・・。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.11 Tuesday 20:24
     逐語霊感で読んで、そこまでメッセージするのですね(川向さんがおられても)。  ぼくが紹介したある牧師の宣教よりも、ずっとえらいこった、と、お祈りします。  「イエスさまも踊った!」という宣教も、あれば聴いてみたい気もします ^^
    • Focea
    • 2008.11.11 Tuesday 21:06
    はい。私も以前はそうでしたから。日本語訳聖書を逐語霊感で受け取っていました。 日本語訳聖書を詳しく読んでいくうちに、あれ、と思うことがでてきたこと、ロイドジョンズとパッカーを読んでから、日本語訳聖書だけでは・・・と思ったこと、先輩からYoungのAnalytical Concordanceをもらってから、聖書の読み方が変わりました。 私のところの教会は、姉妹には宣教させないので、喜びにおどる、は、第1ペテロの学びに関するディスカッション(分かち合いの時間)での出来事だったのですね。なので、残っておりません。 個人的には、ロイドジョンズの弟子なので、説教と説教者にもあるように、テープで録音したり、それを本にしても、その半分くらいしか伝わらないのでは、と思っています。
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.12 Wednesday 20:03
     姉妹の宣教はないという基本的なことも忘れていました。お察しする分かち合いの時間で、一版の聖書だけで、予習も無しに行くと、ぼくは大暴走することがままありそうな気がします。
    • Focea
    • 2008.11.13 Thursday 03:12
    一つの範の聖書だけを読んで考えれば、だれでもずれる可能性はあると思いますよ。分かち合いとはいっても、基本大切にするのは聖書なので。 -----
    • 芦屋めぐみ
    • 2008.11.15 Saturday 21:29
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