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2013.09.04 Wednesday

「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。

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    たまたま、愛読しているブログが二つ、たまたま、「喪失」の問題を取り上げておられた。

    喪失について

     一つは、いつも拝読している水谷先生の記事、老いに伴う喪失とその受入れを巡る記事である。



    であり、もう一つは藤掛先生の海外生活が終わり、そこから切りはなされることの喪失とそれを記憶することを巡る記事である。



    である。上記の水谷先生の記事に関しては、神から強制的に取り上げられることに関する『老化』と『聖化』の問題である。下側の藤掛先生の記事は、切り離されることに対して、それを簡単に捨て去るのではなく、捨て去られると同時に、残されたものを味わうことに関する記事である。

     ある面、失うことは手放すことでもある。あるいは、最下部に示すナウエンの本の表現を借りれば、神を受け入れるために手を開くことである。The Peanutsに出てくるライナス君のように握りしめ続けてきた自分の湿気た毛布を、我々が自ら、あるいは強制的に手放すことであるのかもしれない。ナウエンの本(両手を開いて)では、握りしめた手のなかの汗で湿ったコインの話として出てくるが。


    上記画像は、http://images1.wikia.nocookie.net/__cb20090301044431/peanuts/images/0/07/Meet_linus_big.gif
    から。

    喪失と受け入れ
     そして、そもそも握りしめていた自らが慣れ親しんだ、そして自らの手に握りしめることで湿気た毛布を握る手を放し、握りしめていた手が開かれることで、神の開かれた手に向けていくことでもあるだろう。そして、その開かれた両手に神の手を受け入れることなのかもしれない。それが水谷先生のおっしゃる聖化ということであろう。

     本来、開いた両手は、神の手を受け入れるための場所なのだから。握っていたものを手放し、両手を開くことは、神が主権者として我々とともにおられることをじっくり味わうことなのだから。そして、その開かれた手で新しい生命(人々)を受け入れていき、祝福する、そして、自分が握りしめていたものを、握りしめ続けるようにさせるのでもなく、その人々を迎え入れるために開くことが求められているのではないだろうか。

     だれも、握りこぶしで迎えられたいとは思わないだろうし、迎え入れる相手に対して敵意のある場合は別として、だれも握りこぶしで相手を迎えないだろう。放蕩息子の父は、握りこぶしで息子を迎えただろうか。我々は、神を握りこぶしで迎えるだろうか。

    喪失と引き継ぐこと
     喪失は、他者に引き継ぐことである。あるいは、他者に明け渡していくことでもある。決別するとともにそっと両手を開いて自分の周囲の人々にそっとトラディシオしていくことなのかもしれない。大音声で騒ぐでもなく、わめくでもなく、あじるでもなく。Missioとは、そっと手渡すことなのかもしれない。そっと手渡し、そっと分かち合うということなのかもしれない。

     トラディシオ(引き渡す)ということは、以前のままの形で化石化するように保存することは意味しないように思う。日本の場合、どうしても、伝統というと、昔(といっても、ほとんどそんな昔ではなく、大概は高々20年ほど前)のままをそのまま守る、維持する、保存する、化石化させていくという側面が強いようだが、しかし、手渡されたものをどう生かすのか、どう考えるのかを含めて、それは手渡した側の問題ではなく、手渡された側にとっての問題ではないか、と思う。

     もう少しいうならば、トラディシオとは、そっと楽譜を残すようなものかもしれない。楽譜(精神)はそっと置いておく、あるいは残す(トラディシオする)が、それをどう演奏(どのように現代に提示し、現代に生きる人々の間で共有するか)するかは、演奏者にとっての問題であり、その余地を後世の人々に残すことではないか、考え、思いをめぐらす余地を残すことではないか、と思うのだ。演奏された当時のスタイルの楽器を使って演奏することもできるし、現代の楽器で演奏することも、現代に生きる演奏者に許された裁量の範囲だと思うのだね。

     これらの二つの記事を読みながら、手を開くということ、引き渡すということ、手放すということを含めて、手を開き神と人とを迎えること、手渡しすること、手を放すこと、そして、神を受け入れるとともに、新しい人とともに受け入れることが大事なのかもしれないと思った。

    引き継いでいくこと
     そして、トラディシオされた人たちは、トラディシオされたものをどのように現代に生かせるのか、自分たちに与えられた資産、あるいは遺産としてどのように見るのか、どのように活用するのか、どこが時代の限界であり、どうリノベートしていくのか、ということに関する思いを問われるのかもしれない。特に偉大な指導者が出ると、それをトラディシオされたものではなく、それを後生大事に握りしめ、偉大な指導者の猿真似するようなミーちゃんはーちゃんのようなバカ者が出てくる。関連記事はこちら。


    ちなみに、下の2冊は非常によい。特にこぐま社さんの「闇への道 光への道―年齢(とし)をかさねること」は、一部ちょっと???のところはあるけれども、老いについて考える上では、非常に良い本だと思う。老人だけが醸し出せるユーモアとか・・・。出版社在庫なしなんでねぇ。


    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,260
    (2002-10-07)

    評価:
    ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
    こぐま社
    ---
    (1991-12)

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