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2013.08.07 Wednesday

一つになろう、について、たらたら再考した ―広島の事件を思いながら―

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     一つになろうというのは美しいか、ということを以前に書いた。思うところがあるので、少し書いてみたいとおもう。

    美しく見える「一つになろう」
     一つになろうってのは、ある面、美しく見える表現である。ある面、一つであることは美しく見える。強く見える。そして危機のときには頼もしく見える。そして理想に見える。

    そこから生まれる醜さ
     しかし、それがもたらすものは、結果として見るに堪えないというか、醜い、米口語でいうuglyで表現したくなるようなものが多いことは世界の歴史を見れば明らかである。これは洋の東西を問わない。

     最近で言えば、911テロ後のアメリカ、ルワンダ、中南米の軍事的独裁、中国の文化大革命、ロシア革命、大政翼賛会、ナチスドイツ、フランス革命、共和政ローマ。まぁ、キリスト教も例外ではない。それなりの黒歴史は持っている。プロテスタント・カトリック問わず。所詮、一つということの魔力、真円の理想化されたものの魔力に引き込まれ、そして理想化された対象が焦点化するあまり、理想から外れたものを排除し、圧迫し、そしてそれでも変わらない場合は、命を奪うという強制的な方法で、言論や存在を圧殺する。

    ナザレのイエスの周りの「一つになろう」

     大体、ナザレのイエスの殺害自体、ユダヤ社会のこのような一つであろうとする動きの結果生まれた部分もないわけではないような気もする。律法学者や祭司長の言動を見る限り、そんなにおいを感じなくもない。

     その筋の研究者ではないので、よくはわからないが。

    バベルの塔じゃね?

     聖書の中にも、一つになろうとして怒られたバベルの塔の話がある。当時は、創世記の表現によれば、一つの国民だと騒ぎ、一つの国語だったので、我々がいつも一つであるように、とバベルの塔を作っちまったような気がする。

     バベルの塔を作っちまった結果、ことばに混乱が起き、人々は全地に散らされて行くことになる。そして、現在に至る。このバベルの塔の理解にはいろいろあるだろうが、個人的に思うのは、散らされることは神の愛あるいは、あわれみのあらわれであったと思うのだな。神が人間が一つであり、神に対抗しようとすることを怒られた、神への反逆を防止され、神が一つであろうとした民に対して怒られて散らされた、というよりは。

     我々は、一つであることを感じ、一つであるようになりたいと感じた結果、結果として非常に醜いものlook uglyを生み出すのかもしれない。であるからこそ、1か所にとどまり、お互いに憎み合うよりも、地に分かれ住むことで、「かけ(罪)」のある人間がかけから生じる不幸を生み出さぬように神の愛や憐れみの結果として、様々な地域に出ていくようにされたのかもしれない、と妄想している。

    自己と他者がもたらす悲劇的構図
     一つであろうとする以上、自己と他者という存在を生んでしまう。人は「かけ(罪)」がある存在なので、どうしても、自分を中心にし、自分が考えていることを無批判によいものと思い込む傾向があるように思う。そして、他者を劣ったものと考え、そして、抹殺しても仕方がないものと考える。ひどい場合は、抹殺されるべきものと考えるようである。時に自分自身を含め、抹殺したくなるようになるのかもしれない。

    ホテル・ルワンダでの自己と他者との関係
     この辺のことで少し考えたい方には、ホテル・ルワンダを見ることをお勧めする。自分以外の民族をゴキブリと呼び、「ゴキブリを殺せ」と叫ぶ人間の「かけ(罪)」がもたらすものを少し考えてほしい。まぁ、このアフリカの不幸と悲惨の背景には、旧宗主国による支配の構造の結果のひずみや、軍事政権、独裁政権下に生まれた社会のひずみももちろんあるのだが。

     まぁ、映画であり、事実ではない、描き方がひずんでいる部分はあろう。しかし、あの映画で描かれた問題のコアの部分は普遍的なことだと思うし、どこでも起きることだと思う。日本でも非国民と人々を呼んだ黒歴史があることを忘れてはなるまい。

    広島で少女が起こした「自己と他者」の構造での悲劇

     当事者ではないので、何とも言えないが、最近広島で16歳の女性(少女)が少年少女たちによって殺害された事件の報道される範囲を見ていると、どうもこういうことが起きたのではないか、と思う。もちろん、水谷先生が記事で指摘されている様な特殊接客業という側面や家庭内での虐待としてのネグレクトがもたらす問題、様々な家族関係の問題もあろう。しかし、それだけに帰すのも問題であると思う。それよりも、人間が一つであろうとし、そして、そうなったときに少数者や自分以外のものをどう対応するのか、そして、排除したいと思う結果、多くの悲劇を生んでいく姿があの時間にも、あの場所で起きたのではないかと想像する。

    前向き信仰と一つになろうのダブルパンチ
     教会内での前向き信仰と合わさったときに一つになろうは、実は非常に恐ろしいのではないか、と思う。ある方向に向かって一つになろうという時に、前向き信仰(反省のない根拠のない自信だけで進むことが『信仰的』とされる信仰形態)が合わさると、冷静な判断や慎重な意見は無視されがちという状況で済めばよいが、そんなことにはならずに、異論をもつ方々に対して、「不信仰」「非クリスチャン的」であるとラベルが貼られ、教会内で居辛いことにならないか、ということを思うのだ。不信仰でもなく、ただ、冷静に考えているだけなのに。

     わが国には、つい60年ほど前に、異論をもつ人々を、異なった信仰をもつ人々を「非国民」だと排除した黒歴史がある。最近、その時代を知るキリスト教徒も少なくなってきた。戦争協力が至上命題とされた時代でもあったようである。同じことをキリスト教界の中で「前向き信仰」を高く評価するあまりに、ある面「一つになろう」ということを強調するあまりに、「互いに愛し合う」ということを教えを聞いているはずのキリスト教会で、60年ほど前の黒歴史を繰り返すのはどうかなぁ、と思う。

     ポツダム宣言受諾記念日も近いことだし。

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