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2013.07.10 Wednesday

福音派と聖書 米国の場合 その3(2)

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     さて、引き続き、福音派と聖書について、ゴンビス先生がお書きになっておられるものの日本語変換を載せながら、少し思うところを書いてみようかと。今回はオリジナルの3つ目の投稿の後半部分から。

    この前を読まれたい方は、こちらから。

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    時間をかけて学んでいく聖書
     私のアドバイスは、聖書を時間をかけて知っていくことだ。何十年もをかけて。聖書の知識を簡単に知るために5つの段階というものはない。これまで学生には、5年間ごとに聖書の知識の増加を考えるように言ってきた。そのことを言った時、ほっとした声を聴いてきた。

      聖書を知る目的は、教会外に出て戦うための装備を身につけるためでも、影響力を与えるためでもない。

    時間をかけて
    聖書を読む目的・知る目的
      聖書を知る目的は、神をより誠実に愛することと神を知ることができるように聖書に基づく精神を育て、また、ほかの人々をより創造的に愛することができるように変容されるためである。聖書知識の目的は、良い点をより豊かにするためのものである。そして、その豊かにするプロセスは、かなりの時間をかける中でのみ起きる何かなのだ。

     学ぶというプロセスそのものが我々を変化させるのだ。だからこそ、我々は、我々がある段階に達することで、完成されたものとか、社会に出て証しをし、我々の知識を効果的にするための完全装備状態であるとか、考えるべきではないのだ。

    福音派であることと聖書
     福音派であることの美点は、聖書のテキストの前に謙虚であるということであり、必ずしも、一般のことについて、答えるための準備が完全にできているということを意味していない。

     我々は、生涯をかけて学び、探し求めるものとして、聖書の前に座り、学ぶものではないだろうか。我々が謙虚に学び、我々に生き生きと喜びをもって聖書の主張を自分自身のものとするときに、神に栄光が帰されるのだ。


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    ミーちゃんはーちゃん的感想

     前回、かなり、書きたいことは書いたのであるけれども、今回も少しだけ書いておこうかと。

    わかったふりをしないことの大切さ

     聖書は簡単にわかるものではないし、わかるものではないから、長い時間をかけて、そして、毎日思いをめぐらすものだと思う。もし、簡単にわかってしまうのだとしたら、その程度のものである、ということでしかないのだと思う。だとすれば、わかったふりをしないで、様々な理解の可能性に目を広げ、より深い理解に達することは大事ではないだろうか。

     聖書は非常に複雑な内容と表現を持った書である。聖書のことば自体はあまり変わらないが、受け取り手の側が時間の経過とともに変わるし、受け取り手である読み手が置かれた社会、経済、自然環境によって受け取られる内容が変わってくる。

    音読に聴く聖書のことば
     別の話になるが、近代になって、文字が普及した社会において、聖書の音読の伝統、音読を聴くことによる味わう伝統は消えてしまって、文字だけに頼る習慣ができてしまったのは、少し残念な気もする。いったん、文字を離れて、語られた言葉、宣言された言葉として聖書を聴く、聖書に聴く、ということは、時々でよいから、試みられても悪くないと思う。そうすることで、見えてなかったものが見えてくることもあるように思うのだ。自分以外の声で、聖書のことばを聴くことを通して。

    米国的現象としての福音派
     福音主義がその活躍の場を北米を中心とした関係で、この前の福音主義神学者についての神学者トレカ遊びでも、ドイツ人0、イギリス人2、アメリカ人14であった。もちろん、この神学者トレカ(下欄リンク参照)が米国Zondervanから発行されている、という側面はあるだろうけれども、この数字を見る限り、アメリカ固有の現象であったと思う。

     アメリカ人的なプラグマティズムと、マニュフェストディスティニーの考え方、また、回心主義が流行ったこともあり、一種の折伏的な福音伝道が行われたと思う。そして、Jesus Campに出てくる子供のように(映像はこちらから。)、だれかれ構わず、押し売りのように福音を語って、それで、よかったよかったといっている精神性があるのだと思う。この厚かましさというのか、暑苦しさというのか、押し売りみたいなところが、かなわないなぁ、と思うところである。

    まとめ
     いつしか、聖書を語ることに熱心なあまり、ク○セード(だってこれは十○軍のメタファーじゃん)戦闘的なキリスト者集団としての性格ができてしまい、本来のものと離れてしまったことをゴンビス先生は、「おれたちこのままで、大丈夫かな?」といっておられるようでもある。血の気を失った死体のような色の顔面塗装をした上で戦場に臨むスコットランド戦士(詳しくは、Braveheartで動画を検索!!)のようではなく、神の前で生き生きと生きるキリスト者でありたいとミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。



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    My advice is to get to know the Bible over time―like, over decades.  There aren’t five easy steps to Bible knowledge.  I’ve told students in the past to measure their knowledge of the Bible in 5-year increments.  And when I’ve said that, I could hear sighs of relief.


    Remember that the aim of getting to know Scripture is not to be equipped to get out there and have “impact.”


    The purpose of knowing the Bible is to develop Scripture-shaped minds so that we get to know and love God more faithfully, being transformed so that we love and serve others more creatively.  The goal of Bible knowledge is the cultivation of virtue.  And this is something that only happens over time.


    And the learning process itself transforms us, so we shouldn’t think that at some point we’ll be finished, “fully equipped” to get out there and put our knowledge to effective use.


    Evangelicals are at our best when we’re humble students before the text, not necessarily when we’re out there giving well-prepared answers to common objections.

    We sit before the Bible, then, as students-for-life, always learning, always searching.  And we honor God when we humbly learn and resolve to embody what Scripture says creatively and joyfully.
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