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2013.06.29 Saturday

福音派と聖書 米国の場合 その2(2)

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     前回に引き続き、「それは聞いたことがない」ということの背景について、の部分の後半部分をご紹介いたしたく思います。

    まずは、ゴンビス先生がお書きになられたものの日本語変換(翻訳ではない)をば。

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    文化的闘争への熱情
     大変残念なことに、文化的闘争への熱
    は、聖書に関する非常に残念な態度を我々に強いる。聖書の背表紙によって我々が打ち破ろうとした敵の中に我々自身のすがたを見るのである。

     そのような状況の中で、私の聖書に対する役割とはどのようなものだろうか。私は、真実の戦いや、文化における正義の理由のゆえに、聖書を武器
    (主の剣)として用いるのだろうか。

    「私は聖書的だ」と主張することと聖書の目的
     そのような聖書への態度は不適切であろう。私たち自身が「それはすでに知っている」ということは、それはそれで、自分からおバカになることになるのではないだろうか。「私たちはもう聖書的なのだ」「聖書を学ぶ必要があるのか」「我々は既によく知っているのだ」「我々のなすべきことは、それに従うべきと他者にいうことだ」「彼らは、神がおっしゃることに耳を傾けていない者どもだ」と言ってないだろうか。

     しかし、我々の聖書の目的というか究極的な意味は、他者に対する武器として聖書を取り上げ用いることではない、のではないか。私(ゴンビス先生)にとっての聖書の目的というか究極的な意味は、自分自身を形作り、変容させ、自分自身を反省させ、またそれと同時に慰め、知識を与え、知恵を与え、自らをきちんとさせるためのものである。

    我々は何者か?聖書の主張に耳を傾けること
     これらのことは、私自身が聖書にとって正しい態度をとった時のみに起きるのだ。私は、聖書に従うように身をかがめる。熱心に学び、聖書の主張に従順に耳を傾けつつ、私は聖書とともにあろうとしている。

     私たちは、聖書によって探し求められ、聖書が何者であるかを明らかにし、聖書にさらされるべき存在である。そして、(聖書によって)変容させられる(神の)働きの対象なのである。聖書の人と呼ばれる人々は、聖書が語っているあの方(神)が望まれるように行動する人なのであり、そのお方(神)は、その命を、そのお方の敵のいのちのために与えられた方なのだ。

    私たちのいらつきの原因と社会

     文化的闘争の強さの程度 ー 問題視されているという感じ ー  は私たちの聖書への理解への攻撃があるが場合に私たちをいら立たせる。そして、私たちが学ぶのをやめないように、そして、私たちが、聖書の言うことの私たちの理解を常に見直しているように仕向けるのだ。そして、聖書が変容させようとしている対象が私たちが自分自身であることを思い出すのだ。

    神の警官?
     もし、私たちが、神の警官や神が他者を変えるために選んだもののようであることに心地よさを感じるなら、それは問題である。

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    ミーちゃんはーちゃん的感想

    文化的闘争の背景

     文化的闘争については、ここらにも書いたが、北米大陸で、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ文化というかアメリカ文明に内在する思考におけるプラグマティズムへの傾倒もあるだろう。さらに、学問世界の中で、20世紀的な科学性があり、科学や技術が社会や学問の世界で神のような座を占めたこともあり、科学が神の座を占めるという偶像崇拝に対抗するという文化的闘争に北米のキリスト者は巻き込まれ、科学性を重視する東部や都市中心部に住むいわゆる『リベラル派』と呼ばれる人々に対抗したグループが、西部および南部のちょっと田舎っぽいところや都市の郊外で形成され、それが『福音派』と総称的に呼ばれたのだと思う。

     ところで、いまだにアメリカと日本の福音派の信徒さんの一部にリベラル派キリスト者を、蛇蝎のごとく嫌う習慣、悪しざまにいう習慣が残るのは、この米国での不幸な黒歴史の悪影響であると思う。同じキリスト教徒(それがリベラル派であれ、福音派であれ)で、
    そこまで反目しあわなくとも、と思うのだ。近親増憎悪という言葉が頭をよぎった。

     ところで、文化的闘争って、ゴンビス先生は言っておられるが、実相としては、東部の中産階級や資産家階級(リベラル派が多い)と中西部・南部の農民層・中小商工業者や工場労働者など(福音派が多い)の地域間闘争というのか、階級間闘争(うわ、めっちゃ懐かしい響き)に信仰理解の違いが利用されたという方が近いと思う。

     何事も政治的アリーナで考えるのが大好きなアメリカ人故に、どちらが勢力を占めるのか、が重要であったし、そのため、進化論がどうのこうのというスコープス裁判が開かれた。茶番劇でしかなかったと思うが。


     ところで、この闘争に巻き込まれたのが、Machen先生。おかわいそうに。

     参照 福音派が生まれたころの世界むかし話(10)

    「私は聖書的だ」と主張することの背景 
     その文化的闘争(地域間闘争というか、経済階級間闘争というか)の中で、自分の正統性を主張するための一番手じかな方法が、「私は聖書的だ」と主張することであったし、何でもかんでも、もっというと、こじつけでもいいから聖書の一部を持ち出し、「ほれ、斯様に聖書に書いてあるではないか。ほれほれ」と主張することが多く見られたと思う。そのため、聖書に関する知識の造詣の深さ(個人的には、聖書を切り貼りして何でも聖書からこじつけで回答する能力のレベルではないかと思うが)が問題になり、自己を聖書の権威性を不当に利用して(これは少し言葉が過ぎるかも)、正当化するために、「聖書に通暁している」ことが重要であったし、また、「聖書を持ち出すこと」、「聖書的であることが重要であった」のだと思う。それから、次第にずれてきて、「自分は聖書的」という概念が「聖書的であることを神の座につけてしまう」という残念な現象が生まれているように思う。

     しかし、ゴンビス先生、手厳しい。文化的闘争に勝つために「聖書を神の剣とすることが望ましいことか、聖書の主張か、考えろ」「イエスはどうか」って言っておられる。そのうえで、『神の警官』って態度とるのがいいことなのか、それもまずいんじゃないか、ということを言っておられる。

    アメリカにおける警察官(法執行官)

     アメリカ人の中では、Law Enforcement Officer(Cop)に非常にアンビバレントなイメージを持っている国民であるという印象をミーちゃんはーちゃんは持っている。一面尊敬しつつも、一面腐敗とか、権利蹂躙とかでバカにしている部分もある。特にリベラル派の人々は、Law Enforcement Officerにいい印象を持っていないことは確か。その反動として、福音派の人たちは、Law Enforcement Officerに対してかなり評価が高かったりもする。

     典型的には、Copsという警官もの(テレビ番組)が大好き(というよりは視聴者としてのターゲット)なのは、中西部や南部の労働者クラスではある。映像は
    こちら。

     この番組を徹底的にバカにしたのが、マイケル・ムーアのこの番組。映像は
    こちら。でも、マイケル・ムーア的手法って、どっか福音派の精神性と共通するんだなぁ。他人をバカにした態度とか(人のことは言えないミーちゃんはーちゃんではあることは承知の上ではあるが)。

     アメリカという国家の外交での態度において、世界の警官然たる言動が見られるし、異教というか、邪教(他宗教)に対する神の警官的態度は、結構北米からの宣教師などの関係者に時に見られる。誰とは言わないけど、某超有名伝道者の息子君とか。

    マニフェスト・ディスティニー的な
    宣教方法からの脱出の必要はないかな?

     西部開拓からいまだに完全に抜け出しきれず、マニフェスト・デスティニィー的な精神構造(これは、森本あんり先生の下のリンクで紹介する本参照)を抱え続けている米国型の宣教手法をこれまで日本ではいろいろ手を変え品を変えしてきた結果、神の宣教(イーウワンゲリオン あるいは 福音)としての本質を見失ってしまったのではないか、というのが、福音の発見で明確に指摘はしてないものの、スコット・マクナイト先生がお取り上げになっておられる内容だと思う。

     そこで、ゴンビス先生がおっしゃる通り、自己のありさまを哲学的に反省(吟味)し、自己を見直し、神を喜び、神に慰められ、神の愛をとらえ、知り、味わうために、聖書に素朴に聞く、味わうということが大事だと思うのだ。他者を論破するために聖書を使うのではなく。

     日本のキリスト教界は、北米との関係がこれまで、強く、特に戦後のGHQ占領政策の一環として、GHQ支援の下、宣教されたこと(まぁ、神を知る人を増やしたという意味ではよかったのだが)の影響が今なお続いていることを見ながら、自分たちがどのように神の民として生きるのか、ということを、神と共に歩む旅の仲間(まぁ、荒野を旅したイスラエル人みたい)のような生き方をどうするのか、ということが問われているような気がするが違うかなぁ。

    じゃ、どうすりゃ?

     これといった方法は、自分たちで、素朴に考えるしかないのかもしれない。ミーちゃんはーちゃんには、答えはないから聞かないでね。皆様、ご自分で考えませんこと?

     そして、できることから、失敗してもいいからはじめませんこと。失敗を恐れる必要はないと思いますよ。どうせ、失敗だらけなのが、人間ですし、そのため、旧約聖書にしても、新約聖書にしても、残念な人たちや弟子たち、イスラエル人たちを例示しているじゃないですかねぇ。ねぇ。


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    Unfortunately, the passionate heat of the culture wars has forced us into some unfortunate postures relative to the Bible.  We might find ourselves facing our (perceived) opponents with our backs to the Bible.


    In such situations, what is my role relative to the Bible?  I’m there to wield the Bible as a weapon (the sword of the Lord?) in the battle for Truth and for the cause of righteousness in the culture.

    Such a posture toward the Bible is inappropriate.  We can fool ourselves into thinking that we already know it.  We’re already “biblical.”  “What, we need to study the Bible!?  We already know it!  It’s our job to tell others to be in subjection to it!  They’re the ones who aren’t listening to what God says!”

    But the end or purpose of the Bible is not for us to take it up as a weapon against others.  The end or purpose of the Bible is for me to be shaped, transformed, rebuked, comforted, informed, enlightened, and rectified.


    And this happens as I adopt appropriate postures toward it.  I sit under it in submission to it.  I sit long with it, studying diligently, listening obediently with an eager readiness to do what it says.


    We are the objects of Scripture’s searching, revealing, exposing, transforming work.  “Others”―”those people,” “out there”―are the objects of our love and service.   Those who claim to be people of the Book ought to behave as those claimed by the One of whom the Book speaks, the One who gave his life for the life of his enemies.



    The intensity of the culture wars―the feeling that there’s so much at stake―can frustrate us when our understanding of Scripture is challenged.  It can make us impatient that we never stop learning, that we must always be willing to re-shape our understanding of what the Bible says.  It reminds us that we are the first targets of the Bible’s transforming work.

    It’s a problem if we’re more comfortable being God’s cops, his specially appointed agents of the transformation of others.
    評価:
    森本 あんり
    新教出版社
    ¥ 1,785
    (2006-05)
    コメント:アメリカのキリスト教史概観には、一番、読みやすいしとっつきやすい。社会経済構造とのかかわりが弱いのが難ではあるが。

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