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2013.06.22 Saturday

2013年6月に開かれたNTライト読書会参加記 その3

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     前回の続きでござる。この3回の記事は、完全に内輪ウケ用(あと、読書会に参加できなかった方向け)の記事ですので、ご関心のない方には、何、コ レ?のはずです。しかし、ご関心のある方向けに、ミーちゃんはーちゃんが参加した読書会の記録を残しておこうかと。個人用のメモの意味もござるし。

     一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。

    では、ディスカッションの内容をご紹介いたしたく。

    キリストの信仰か、キリストに対する信仰か
    Faith of Christ, Faith in Christ



     信仰を持つことにかんして、福音(euangellion 本来は信仰の布告)を聞いて、その布告を信じたから、永遠の命をもらえる(決心主義)という理解があるが、これだと、信仰の結果として、永遠のいのちとなってしまうことを、暗に皮肉っているように思われる。『救い』に関する理解を、人間の信仰中心から、神中心にNTライトは、戻そうとしているのではないか。

     神のことばが述べ伝えられた人に聖霊が働いて、信仰が起きる。効果を持つ役割を果たすもの(Effective Agent)あるいは関係の回復のカギは神の側にあるとしている。信じない人の存在も神の責任になる。

     福音の大切さと、個人の覚醒の大切さ、を伝えている。ローマ書の3章28節では、神の誠実さ、神の真実を信じる人に与えられる、すなわち、神の真実を信じる人が義とされるの意味ではないだろうか。

     Sola Scriptura, Solus Christus, Soli Deo Gloria,  Sola Fideに、Solo Spirituをライトが独自に付け加えているが、福音は、聖霊が与えられることで理解できるようになるから、というライトの考えが反映しているのではないか。
     さらに、ローマ8章をクライマックスといっている。

     終末論(eschatological)なポイントから見ると、聖霊の働きが重要にかかわってくる。聖霊が勝手に働いて、自動的に変えるのではなく、人間の意志とか努力と聖霊が共に働き、聖霊がそれを認めているという形ではないか。Justificationという本で、そのことについて語っているライトの文章は非常に美しいと思う。

     この辺のお話しをお聞きしながら思ったのは、神の一方的な宣言(契約)という概念は、非常に重要だと思うのだが、いつのまにか、個人の関与、参与が「神とともに生きるという」ことを超えて、神のために何かする、神のために何かしたい、という思いに変わっていってしまい、非常にまずい結果を生み出したているように思う。カルト化した教会などでの背景にあるのは、この一方的な神の宣言(人間側には一切関係のない契約)の弱体化であり、Perticipation(参与、関与というよりは、一緒に旅をするというような感じが一番近いかも。その意味で、指輪物語やナルニアのメタファーは極めて大事だと最近気づいた。)がContribution(貢献、具体的な行為による利益提供)という概念に代わってしまうという本当はまずい傾向なのだと思う。


    ただ信仰によりて
    Sola Fide


     Extra nosは私たちの外という意味であるが、これは、自分たちの内側に義がないということであり、外側(神)に義があるということを理解することは大事ではないか。
     大切なのは、十字架だけでない。むしろ復活の重要性を言っているように思う。しかし、多くの場合、十字架だけで救いや聖書について、議論している。この辺をライトは皮肉っているように思われる。
     個人主義的な救いばっかりを言っているから、という皮肉をNTライトさんは言っているのではないか。特に、西洋の個人主義の上で聖書理解をしている人々について、JustificationばかりいっているひとはMe & My Salvationをいっているに過ぎなくて、コミュニティというか共同体の概念がない。

     そうなんだよね。これ、ヘンリーナウエンのナウエンと読む福音書を読んだ時に、ショックを受けて、しばらくナウエンばっかり読んでいた。そのうちジャン・バニエとか手出しをしたが。そして、ナウエンのこの杯が飲めますかとマクグラスの「聖餐」のDVDを見ながら、ほぉ、なるほどと思ったことがある。ミーちゃんはーちゃんは、聖餐式の意味を完全に誤解していたし、誤用していた。ぶどうの木の例えをもう少し考えなおしてみると、確かにイエス(幹)と私(枝)なのだが、実は、幹を介して枝同士がつながっているのだ。そのことをすっかり認識していなかったミーちゃんはーちゃんの黒歴史。


     歴史が受容してきたものは、リバイバルにしても、ある種その時代における必要があって醸成されてきたものであるが、そのことが生んだ副産物についても刈り取りをしないといけないのではないだろうか。

     キリスト教を大衆に受け入れさせる意味では、リバイバル主義的なこれまでの義認論は意味があったけども、それはFull Gospelではないのではないか。

     ここでいうリバイバル主義は、近年流行りらしい第●の波とかとは関係がなくて、北米で見られたジョナサン・エドワーズ以来、現代(典型的にはフ○ンクリン・グ○ハム、あ、かいちゃった)にいたるまでにみられる決心主義的な回心を迫るあのやり方である。確かに、わかりやすさの意味はあったんだけど、そこで、止まっちゃって、大量に回心したのに、気がついたら、あれ、教会堂は翌週ガラガラ、なんてことが起きたのだったのですね。
     そして、その影響下に生まれたミーちゃんはーちゃんも、その副産物、ミーちゃんはーちゃんがまいたんじゃねぇんだけどなぁ、とも思いながら、必死に地道に副産物を回収中。しんどいなぁ。


     その意味で、神が関与される新天新地におけるNew Creationの強調が重要であろう。特に、イエスの復活(Resurrection)を出発点とする新しい創造をどう考えるのかが問われているのだろう。イエスの復活から出てくる新しい創造であるNew Creationは重要で、そこに基盤を置くから福音が重要になってくる。

     E.P.SandersやD.A.Carsonは、ライトの理解に関して、結構えげつない批判している。そこまでいうといいすぎというD.A.Carsonへの批判もあるくらいひどいものであったのではないか(ということらしい)。

     その辺のひどさは、のらくら者の日記から、どうぞ。こちらのリンクでございます。 この話を読んだときに、あれ、南部にいるという噂のある白いシーツ来て夜中に火遊びする不良のおじさん達のことみたい、と正直思ったのだな。その映像がこちら。映画ミシシッピーバーニングのTrailerでござる。なお、類似テーマを扱った映画としては、他に、評決のとき(これは若いサンドラブロックが出ている)、なんかもある。

     ところで、法廷的義認論を言ったのは、メランヒトンである。さらに言えばNew Creationは改革派の人がよく言うのであり、福音派は人たちはあんまり言わない。

     D.A.CarsonのChrist & Cultureを読んでいる限りにおいては、あんまり変な感じはしなかったのだが、まぁ、大学者も賞味期限があるってことで。ま、しょうがないんだよね。人間だから、次第に心の柔らかさが失われて行くってのはさ。さ、体も心もストレッチ体操しとこう。(意味不でスマソ)


    NTライトの死生観
     天国とは何か。New Creationにしても、死者の復活は終末の終末に起きることが、先行して最後の出来事が起きたのがイエスの復活だろう。新しい創造がイエスの復活から始まった。
     単なる死生観は思弁ではない。パウロは、イザヤ書にみられるような聖書理解をしているとNTライトは言っているようである。最終的には、New Heaven and New Earthであるのであり、死後の世界の天国は最終的な目的地ではなく、テンポラリーなものであるという理解であろう。
     最終的な死者の復活が起きるまでは、休んでいる、というイメージではないか。キリストにある死者として眠っているということなのだろう。最終的に残ったものはトランスフォームして新天新地に移るということだと思う。そして、全体としての新しい天新しい地における回復があって、死んだ人も新しい創造を楽しめ、被造世界が回復されるというイメージではないか。その意味で、全世界の救いがメインテーマになると考えているのかもしれない。

     復活、十字架をどう考えるのか、というのは意外と複雑なんだよね。いや、実は面白い話なんだが。

     いつ律法が終息したのか。新しい神の支配が生誕の時点で始まったのか。十字架での死亡の時点を持って始まったのか、いやいやそうではなく、死からの復活したイースターの朝に始まったと考えるのがよいのか、まぁ、いろんな所説があるらしい。まぁ、一平信徒(ま、牧師先生の見よう見まねでたまには説教もどきもするけどさ。あ、The Simpsonsに出てくるフランダースほどひどくはない、と自分では思っている。)としては、そんな神学的遊びも面白いんだけど、何より大事なことは、神とともに生きる
    新しい生活、神の霊とともに生きる生活が始まったし、今もそれができるし、今ここでそのことがミーちゃんはーちゃんは十分味わってないけれども、その神が共に歩まれるってことを、体験することかも、って思うのだな。(といっても、金粉は降ったためしがない。多分信仰が弱いのだろう。)

     死亡をどうとらえるのかは、埋葬や葬儀の形式や様式にもかなり影響を与えるばかりでなく、志望する前の生き方や遺族の生き方そのものにも、大きく影響を与えるので、このことは意外と大事なような気がする。しかし、わからんことはわからんので、当面ほっておくしかないかなぁ、という感じ。

     それよりむしろ、今、ここで、「なりふり構わず動く私と、なりふり構わず共にいたもう神」という神とのぐずぐずの生き方をもう少しちまちまと味わうことにいたそうかと。


     次回のNTライトセミナーは、10月9日の実施予定で、みんなで盛り上げよう。講演者とリプライをつける形にする予定だそうで。楽しみ。

     あまり、ご関係のない皆様には、誠に申し訳ござらん、とお詫び申し上げます。 m(_ _)m
     


    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 2,415
    (2008-04-30)

    評価:
    ヘンリ・J.M. ナウエン
    聖公会出版
    ---
    (2001-03)
    コメント:衝撃を受けた1冊。聖餐式の認識が変わった。

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