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2013.06.19 Wednesday

2013年6月に開かれたライト読書会の参加記 その2

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     前回の続きでござる。今回とこれの後継記事は、完全に内輪ウケ用(あと、読書会に参加できなかった方向け)の記事ですので、ご関心のない方には、何、コレ?のはずです。しかし、ご関心のある方向けに、ミーちゃんはーちゃんが参加した読書会の記録を残しておこうかと。個人用のメモの意味もござるし。

     一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。

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    信徒へのEffective Callについて

     Effective Callについてであるが、人が信じるのは、Effective Callが神からの感じられるかどうかではないだろうか。しかし、この考え方だと、一般の信徒さんの多くはご不満に感じられるのではないだろうか。

     さて、これまでの福音派の場合、政治的なことを言うことをかなり嫌がる側面があり、どうしても、福音の内容を個人の魂とかかわるものととらえがちになる傾向があったように思われる。政治的なものを排除したのは、間違いだったのかもしれないようにもおもわれる。

     同盟の何人かの牧師さん達は東日本大震災以降、特に主張され始めている方はいるし、Missio Dei の概念などもこれとかかわる。その意味で、社会派の福音とのオーバーラップも出てきているように思われる。

     ローザンヌ会議以降、世俗にかかわることの重要性を考え始めており、キリスト者の責任とは、霊的責任プラス社会的責任を考えるべきではないか、という見解が出始めた。

     この部分を聞きながら、ラウシェンブッシュのキリスト教と世界に出てくる評者たちなどが典型的かな・・・と思ってしまった。これまで、ミーちゃんはーちゃんは、キリストを霊的な世界、個人の救いの世界の中だけに閉じ込めてしまっていたような気がする。そして、世間様のこと、社会のことと教会生活の間にものすごく高い塀を立てて、境界線をピシッと線を引いていたような気がする。しかし、おそらくそれではいけないので、社会のことも、教会のことも、それが一貫したものとして考えるべきなのではないか、と迫られている感じがする。


    信仰を持つことが
    政治的宣言であった使徒時代

     救いの条件として、イエスが主(メシア or キリスト)と初代教会の人々は主張したのだが、当時のローマ社会においては、その主張そのものが政治的言明(Political Statement)であったと考えるべきであろう。

     その意味で、ライトの啓蒙主義からの回復を目指していると考えることができよう。

     現代においては、宗教多元主義の問題と対処しないといけないのであるが、そもそも、寛容さをどう考えるのか、ということは考えるべきであるかもしれない。イエスが主であるということは、一種の政治的表明(ポリティカル・メッセージ)でもあることを、もう一度考えた方がよいかもしれない。

     特に、2000年前は、キリストへの信仰をもつことは、相当政治的な決断であったはずである。今はローマ帝国時代と比べ、より世俗主義的なものになっているかもしれない。ガラテヤ書も、そもそもポリティカルな話のコンテキストで考えるべきかもしれない。

     キリスト者であることがポリティカルステートメントであった時代というのか、教理の関係で、ポリティカルステートメントにしちゃったキリスト者がいた時代が、日本でも15年戦争中にあった。もう、15年戦争すら忘れられているので、そういう部分は忘れ去られているけれども。
     まぁ、キリスト者であることが社会における少数者である以上、現在の日本社会でも、一種のポリティカル・ステートメントになっているはずなのだが、現代の日本社会の背景、思想的底流の中に、キリスト教文化を経て生み出されてきた人権思想や民主主義がながれているので、あるいは、その覆いをかけられているので、ポリティカル・ステートメントにはなってないという実情があるように思う。その辺の社会思想や社会システムとキリスト教について、もう少し考えたいと思う。



     なぜ、ガラテヤの非ユダヤ系の人々がユダヤ教の会堂や会衆にひかれたか、という視点で考えた方がよいかもしれない。紀元70年ごろの政治的自由、市民的自由の関係を考えるとき、当時のローマ市民やギリシア人などが戦争などに、引っ張られた。ライトは、ガラテヤで、ユダヤ人が特権をもっていた可能性を指摘している。

     このガラテヤ書だけよむと、純粋に宗教的な問題に聞こえてしまうかもしれないが、パウロだけでなく、多くの市民がかなりひどい目にあっていたようである。しかし、ユリウス・カエサルのころから、ユダヤ人は一定の特権を持っていたようである。たとえば、その特権の中には、安息日に自由に集まれる。お金を輸送してよいとかの特権があった。それに対するやっかみが起きた。ユダヤ人は皇帝に嘆願して、ユダヤ人としての特権を認めてもらったのではないか、というギリシア人側の意識があったかもしれない。

     この辺のお話を聞きながら、ローマ社会において、生産資源となった農業用土地という資産を持ちえず、また、その生産資源を取得する方法であった、ローマ軍への兵役に就くことをもしなかったユダヤ人は、流浪する中でもビジネスとして成立する、あるいは流浪するがゆえに成立する金融事業、資金決済事業、商業しか生存するビジネスモデルがなかったのだろう。
     まぁ、ローマ帝国領の拡大に伴い、実際の物流、資金流動を担う担い手も必要だったし、ローマ人は民族として、どうもこの種のことがあまり得意ではなかったのかもしれない。この種のことは、フェニキア人とかギリシア人に任せてきていたという側面があったように思う。それは、ローマ人自身が農耕民族として産業の基盤を農業においていた、ということもあるのではないかなぁ、とか思った。



     ガラテヤはこれまで、キリストの分裂と理解されてきたことが多かった。特に、律法遵守型のイエルサレム教会と律法を軽視した異邦人教会という対応で理解されてきた(ジェービス・マーティン)。

     しかし、歴性的背景を考えてみると、ユダヤ教を信じてきて、すぐさま、律法やめようとはならないだろうし、律法は無効だ、律法をまもることで、呪われよ、とパウロは聖書の中で、言いまくっているだろうか。あるいは、律法の奴隷にとどまり続けよ、と言いまくっているのだろうか。

     この辺りを考える際に、NTライトのJesus of Victory of Godは参考になるかもしれない。

     従来の代償刑罰ではなく、補囚の裁きのクライマックスとしての十字架があり、そこで神の裁きをキリストが受けたと理解しているようである。従来理解されてきたような代償刑罰とは違うものと考えたほうがよいのかもしれない。十字架で、イスラエルの捕囚が完全に終わった。そして、新しい福音にかわった、と理解するほうがよいのかもしれない。

     第2コリント5:21を考えるとき、神の義が我々に転化される、と理解したほうがよいのかもしれない。

     この辺の義認論の味わいの違いが、いろんな人から誤解を受けている原因なのかもしれないし、この辺りをこの時の公園でしたかったのかもしれないなぁ、と思った。当時のローマ支配下におけるユダヤの困窮、二重支配(ローマとヘロデ)プラス祭司による宗教的支配などもあり、3重支配を民が受けていて、飼うもののない羊のような状態であったのかなぁ、だから、捕囚(新たな自国における捕囚状態)が続いている、という理解が成立するのかもなどと思った。

    Bare the Image Image of God

     NTライトさんは、Becoming Human や Dehumanizationについてよく触れるように思う。そして、To Become true Humanということの理解があるようである。ローマ5章ー8章のなかで、万物ということが何度も出てきて、また、完璧な人間を見る、という側面で理解しているのではないか。その意味で、完全な創造のころの人(神と人との間に豊かな関係が回復する)になるのが救い、と理解できるだろう。

     うーん、このBecoming Humanという概念は重要なのだと思う。神とともに生きるとならなければ、神を意識し、他者を愛して生きる(まさに、マクナイトの言うJesus Creed)とならなければ、競争社会(ホッブス風にいえば、万人の万人に対する闘争)になってしまうので、意外とこの人間とは何か、という人間論をキリストの発言を考える前に考えたほうがいいのかもしれない、と思った。


     神の創造主Creatorの側面を強調すれば、被造物全体を考えざるをえないのではないだろうか。しかし、罪だと人間のことに強調が置かれる。その意味で、ローマ書では、被造物全体の救いのことが語られているのではないだろうか。

     その意味で、救済をもっと広い意味でとらえるいるように思われる。

     ある面、個人の救済+全被造物の救済として、救済を考えている部分もあり、そういう視点からだと、エコロジーも視野に入ってくるのではないか。クリス・ライトの救済の場合も、エコロジーも含んでいる視点で描いているように思われる。

     人間の役割と創世記の最初の3章に示される人間の理解をどう考えるのか、それを古代的なコンテキストだけでなく、現代的コンテキストにおいてどのように考えるのか、ということが問われているのだと思う。それに関して、現実の社会でのキリスト者として生きるということについて、マーシャルさんは、「わが故郷、天にあらず」という書籍の中で、生き方について触れておられたように思う。この辺、おそらく、Gorden T. Smith のBegining Well何かとつながってくると思う。

     Participationist View(さまざまなことに主体的に関与していくキリスト者像)と義認論をうまく結び合わせるのが難しい。契約に対する従順さが義認論の背景にあるのではないか。

     Faithfulness Rightous とは全く失敗がない人であり、契約に忠実な人だといえよう。旧約聖書において、失敗にはAtonementというリカバリーのためのシステムがある。ところで、Dikaioのなかには、Covenant Membershipという概念はないのではないだろうか。

     Rightous(正しい・義)という概念については、 契約概念なしには理解できないだろう。従来は、イデア的な人間をRightousとしてきた。しかし、契約に忠実な人間に対して、Rightous概念が向けられているように思われる。

     Rightousは悔い改めのなかで、達成可能と理解できるだろう。例えば、ノアは、欠けがないとされた。神との契約に忠実に歩むそんざいであった。旧約聖書は、イスラエルと神との関係でRightousが語られており、集合的な意味で、議論しているのではないか。

     この辺りの議論を聞きながら思ったのだが、この辺、ユダヤ社会における贖罪の儀式や贖罪のいけにえの理解、あるいは、ヨベルということの理解、さらにイエスの『「わたしは憐れみを好むが、いけにえを好まない」ということの意味を行って学んで来い(心に刻んでこい)』という当たりの発言の理解と関係しているのではないかなぁ、と思う。


     一方、人間一人一人をみれば、完璧な人がいないので、義とされない。確かに、イスラエルは失敗したが、贖いの手段があった。それにより義とされた。義(ディカイオー)は、みんなから突っ込まれやすいポイントではある。

     では、神の栄光と神の義がどうつながっているか?ローマ3:24を見れば、神の怒りがつみあがって、それが十字架上で、爆発して、神の義を満足した、と考える人々もいるが、必ずしも、ルターはそうじゃないといっているように思われる。

     ルターは、義に関して、神が人間に無償に与えるステータスだ、といっている。神の義が転化される読み方ではないとしているようだ。神が約束を守る。神の忠実さが、義であるということではないか。

     神をストーリーの中心に置くのはわかるのだが、神の栄光は、神の義が(人間側に)受け取られることで、神は栄光をうけられる、と考えるべきであろう。
     
     旧約的な世界の中で、ユダヤ人が十分、神との関係を守れず、本来の祝福された立場を貶めているのであるが、それが、全人類にとってキリストの関係ゆえにもどる、という点での理解があるように思われる。

     NTライトが律法について、どういっているか、を考えてみることが重要かもしれない。ライトは、パウロが言うような律法をどうとらえているか、を考えることの重要性を指摘している。

     エレミアみたいな形で、心に書かれる律法、聖霊によって実現する律法を指摘しているところがNTライトとしては、重要だと思っているのだろうし、その辺が特徴といってよいだろう。

     必ずしも、モーセの律法とは矛盾しないものであり、エレミアが言う律法は文字ではない。自分の生き方自体が律法の成就であると考えているのではないか。パウロが律法を守らなくてよい、とりわけ、食物規定を守らくてよいという理解に関しては、NTライトの理解とダンの聖書理解も類似性がある。異邦人とユダヤ人を分けないような律法はモーセの律法と矛盾しない。

     律法の行いは、救われるためにやっているわけではないという意味でも、NTライトとダンとの間に一定の類似性がある。パウロが否定しているのは、教会の一致を妨げるものを批判している。このような主張は、サンダースの主張とも似ている。

     キリストに参与することで律法を成就することになるのだろう。キリストによって律法は成就すると考えられる。律法というのは、モーセ律法の内実がキリストの十字架において成就したという理解は重要であるだろう。ローマ書のなかの、信仰の原理による、という表記があるが、その表記は、信仰の律法によると、少なくとも脚注で表記する必要はあるし、英語系の聖書ではそのような対応がなされている。信仰の律法によって、と表記することで意味を持つ。その意味で、エレミアのビジョンが今ここに実現している。

     律法とは、あなたの心に書き付けるものであり、パウロは律法を細かく書くことは否定しているようである。


     この辺、イエスもパウロ先生も心に刻むということを何回かご指摘のようなので、この辺りもう少し、意識しながら新約聖書と、旧約聖書(申命記あたり)を合わせて読まないといかんのかなぁ、と反省している。


     ローマ書の翻訳として、「信仰の原理」を「信仰の律法」とした翻訳を広く受け入れられるかについては、聖書理解を大きく変える可能性があるので、かなり厳しいかもしれない。特に、脚注ではなく本文で入れてしまうと、一般の読者の側が、ついていけないかもしれないが、少なくとも、脚注に入れる必要はあるだろう。NRSVは脚注に入れることを採用している。

     この辺は、京都の宇治で開かれたセミナーでも言われていることなので、より詳細については、以下をご覧いただきたく。


    第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (1)

    第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (2)

    第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (3)最終回

    コメント
    >人権思想や民主主義がながれている

     今回はコメントでなく、小生が感じている(と認識している)傾向に関してです。

     歴史・文化的背景が異なると、人権や民主主義と呼ぶ記号も、その示す意味は全く異なるものになっているのではと思います。特にプロテスタントと旧カトとの紛争によって磨き上げられてきた「人権や民主主義」の精神と、新たに教育や押しつけによって移植された「人権や民主主義」は根本的に異なる気がしてなりません。
     ただ異なっても、どちらに正義があるとか、間違っているとかのお話しでなく、いわば捻れの位置のように互いに交わることのない考え方のような気がします。
     資本主義も同様、カトの国や東洋の資本主義は、プロテスタントの国の資本主義と根本的に異なるのではと・・・ですから、カトではありませんが、それに類似した正教の国ではマルクスが分析したような実験が失敗するのは当然かと・・・
    • ひかる
    • 2013.06.20 Thursday 04:54
    ひかるさま
     いつもコメントありがとうございます。

     ご指摘のとおり、

    >歴史・文化的背景が異なると、人権や民主主義と呼ぶ
    >記号も、その示す意味は全く異なるものになっている
    >のではと思います。

     そうですね、シニフェとしての人権とか民主主義と、シニフィアンとして発せられる人権とか民主主義は、時代およびそれが発語される地理的環境によって違うと存じております。だからうっとうしいのですが。(あ、ここでは操作概念としてシニフェとか勝手に使ってます。すみません)

     アメリカ人が言う民主主義とか人権と、ポスト・アウシュビッツのヨーロッパ人の言う民主主義とか人権とかはかなり味わひが違いますし、アジア諸国のそれとも違います。それらが並存する考えだろうとは思います。そして、みんなでわかったような顔をして、お互いに「おい、俺たち、民主主義だよな」といっているような感じがして、もうシュールなコメディ。特にG2*とか・・・。

     お隣かご近所に、民主主義共和国を標榜される国がいくつかございますが、「え、これも民主主義ですか」「まぢで共和制ですか」といいたくなることも数知れず。でも、一応近代国家の装いというのか振りをしなければならないというもので、標榜するのは民主主義、共和制だけど、基本皆さんの生活の基盤概念は、あまり清朝末期と変わらないというところもあり、ある意味でのプラグマティストが治めてらっしゃる国家だけに、政治のアルテとしての技術は巧みでいらっしゃるようにお見受けしております。もたらす結果は善ではないものの、政治の技術というか政治のリアリティのうえでのアルテでは、かなり見事だと思います。

     ま、ロシア人のほうが、中国人よりまじめだったのか、指導者層に原理原則に忠実な石頭族が多かったので、失敗したような気がするなぁ。ロシアを中国人(モンゴル族)が支配してたら、今頃ロシアは別の国になっていたのでは、と妄想して遊びたくなりますよね。www
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.06.22 Saturday 09:42
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