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2013.06.15 Saturday

2013年6月に開かれたライト読書会の記録 その1

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    2013年のリアルでのNTライト読書会に出席してきたので、ご報告をば。今日の記事は相当マニアックなので、内輪受けようでござる。

     なお、濃いグレーは、その時出た話の概要、こちらの紺の字は、ミーちゃんはーちゃんの感想。

     では、どうぞ。

     今回読んだテキストは、こちらPaul in Different Perspectivesです。読書会の主催者のK先生が気になったのは、こちらこちらでご覧いただけます。今日のポストは、オリジナル読んでないとまーったく面白みに欠けると思います。まぁ、それでもできるだけ面白くするようにしてみました。

     K先生からの開会のあいさつで、最初はテキストに沿って、始めましょうか、ということでテキストに沿いながら話がはじまったのでした。

    一音一
    大切にして
    聖書を読むことについて


     今回読んだ講演録は、ずいぶん自己弁護的でPolemical(論争的)な感じがする。アメリカでNTライトさんが、改革派の皆さんから、言われたことがどうも背景にあるみたい、ということでかなり宗教改革にこだわったしゃべりっぷりになっておられたようである。

     そして、ことあるごとに、宗教改革原則を持ち出しておられ、ティンダルの話を出しながら、NTライト先生、一シラブルとて、気を使っている、とおっしゃっておられる。また、聖書原典に忠実でないのはいかがか、とおっしゃっておられるが、英訳聖書でも大変だが、日本語聖書ではなお大変ではある。

     この辺、聖書翻訳に携わったことがないので、何ともいい難いが、まぁ、どう翻訳しても不満は出て来る訳で、それでもあと数ミクロンでも実態に近づけたい、と思って翻訳しておられる方には頭が下がるし、ヘブライ語や、アラム語、ギリシア語で読まなくてすんでいるのは助かるなぁ、と思いはするが、それと同時に失われている部分は多いのだろうなぁ、とは思った。


     その意味で、Kingdom Bibleはよいのだけれども、ある面、意訳しすぎている部分がある。ピレモン書の註解書を読んでいた時、信仰と愛は主イエスキリストと聖徒にかかるとしているようだ。ライト先生は、Kingdom Bibleで語順そのままで訳している部分がある、とのご紹介があった。

     Kingdom Bibleがいいかどうかというのは、一概に言えない部分がある。Kingdom Bibleの想定読者層はは教会に来ている人。NTライト先生の聖書翻訳には2バージョンあり、Kingdom BibleとNew Testiment for Everyoneのシリーズがある(ようです)。

     NTライトさん、個人訳までしているんだ。へぇぇ。と思ってしまった。まぁ、したくなる気持ちもわからないではない。別の訳を他者が使っていて、えぇぇぇぇ、それ、その翻訳の意味を取り違えてません?そんなご無体な・・・、という解釈を拝聴させていただいたりすることもあるし。また、どう読んでも意味がわからん翻訳とか、意味がわかりにくい翻訳とかの場所もあるしね。さて、新改訳の第4版の改定作業中とも聞くので、まぁ、いい訳のが出ると嬉しいなぁ。ミーちゃんはーちゃんはNTライトオタクにはまだなっていないので、いずれも持っていない。

    ユダヤ人と異邦人が一つになることの意味


     この辺から、読書会のテーマの文章に戻るが、文脈から言って、ユダヤ人と異邦人共に一つになるという点に強調がある。つまり、食事を一緒にする仲間、というような強調点がある。ここで、ティンデル訳と欽定訳を相手にしているけれども、現代訳では、ライト先生のような理解が普通に反映されているように思う。


      ここまで書きながら、思い出したのだが、イエスの弟子たちは、パリサイ人から、「おまえ、やくざや不良と付き合って、なめたまねしてんじゃねぇぜ。そんな馬鹿な奴らとつるんでねぇで、ちゃんとした俺さまたちと付き合え。」といちゃもんつけられていたのであった。まぁ、それと似たようなことかもしれない。サマリアのスカルの井戸のところで、女性に水を求めたイエスに対し、サマリアの女性は、『そんな、私どもみたいな人間には、ユダヤ人様には水を汲んで差し上げる資格すらありませんのに』に近い感覚でしゃべっていたわけだから、ユダヤ人にとって、『異邦人と一緒に食事をする』というのは、今の日本人の感覚でいえば、サルと一緒にご飯を食べる、みたいな感覚だと思う。食事規定も厳しいし。


     ここでの信仰者全体としての一体の理解は、福音派の信仰義認、Ordo Salutisではこぼれてしまいやすい面、すなわち、信仰生活の具体的な側面に関しての信仰義認を提示している。救済論ではなくて、具体的な食卓を一緒にする、というポイントを見逃さない方がいいかもしれない。

    神の怒りの拡散波動砲のターゲットは
    十字架上のイエス?

     義認論は、ローマ書の3章で語られていることだが教理の土台。異邦人への怒り、ユダヤ人への怒り、これらすべてが十字架のイエスに向けられた、と理解されるが、ガラテヤ人への手紙だと、神にあるものの平和としての義認として、なるほどと理解されやすいが、ローマ書の場合、信仰義認の理解が少し違うように見えてくる。

     なんか、こないだどなたかがツィッターで話しておられたが、義認論では、人類に対する神の怒りが拡散波動砲の用にぶつけられて、それゆえ義とされるという理解があるようである。うーん、スターウォーズ的なコンセプトでいえば、デススターにスーパーレーザー攻撃加えて破壊するようなものであるらしい。まぁ、ジョナサン・エドワーズの説教も、そこに焦点当ててるように聞こえる部分あるなぁ。そりゃ、拡散波動砲撃たれた方はかなわんわ。


     ガラテヤでは、ユダヤ人異邦人問題が明らかになってきて、分裂の問題が生まれたがためにこのような形での信仰義認となるのではないか。しかし、ライト先生としてはローマ書の釈義を再検討する、新しい視点を当てる必要がある、そして、義認をどう考えるのか、を再検討した方がよいかも、と言っているようである。

    キリスト銀行における
    罪のスワップ取引ww

     改革派の皆様がライトを攻撃した背景には、2重転化、キリストの義がクリスチャンに転化、クリスチャンのものがキリストに転化されるという一種の相殺取引のような理解部分と齟齬を起こすからかもしれない。むしろ、キリストの義にともに預かるものになるということをライト先生は強調しているように思われる。改革派の皆さんの理解のUnion of Christの中に二重転化がどこかで入り込んじゃったのかもしれない。

     ここで、罪のキリスト銀行における神に対するスワップ取引みたいな話が出てきたのが面白かった。へぇ、そんな解釈あるのぉ、という感じだった。そりゃ、スワップ取引に失敗したら大損こくから、恐怖で縛られてしまうよね。
     そもそも、罪概念をどう考えるのか、結構重要だと思う。どうしても、キリスト教倫理に反することが罪、みたいな理解の人もいるし。最近だと、これ、話題になってたよーな。多分、完全な誤解だと思う。でも、この手の誤解は、他の人から何回か聞いたし、アメリカ人の高校生がそう言っているのを聞いたのだが…という相談を持ち込まれたこともあるが、もしそれなら、「産めよ、増えよ、地を満たせ」という神の祝福の宣言は無効になるので、多分それは誤解だと思うですけど・・・相手は、クリスチャンとはいえ、高校生ですし…とは答えておいたけれども。


    参加型の信仰、観客型の信仰

     キリストに起きたことは、すべて、キリスト者に起きる、ということをライト先生はお話になられたいようである。同種のことを、リチャード・ヘイズもいっている。本来の、Union of Christが忘れられているのではないか。

     キリストの生き方に参与するというParticipationalist Viewということがかかれているが、これは、 Sandersが言ったことでもあるようにおもう。。

     多分、この参加型の信仰の形態ってのが大事なんだろうと思う。どうしても、牧師先生がやっちゃう文化、牧師先生にしてもらうのが大好きな文化ってのが、歴史的に日本のキリスト教界においては醸成されているようなので(ミーちゃんはーちゃんとこは、例外中の例外らしい)、どうしても、ランボー牧師を求めちゃう教会の姿があるのだろう。無益だから、やめればいいのに。相互に神経すり減らしてどうすんです、と思ってしまっているのだな。

     ユダヤ人もギリシア人も関係ないは、食卓問題とかかわるだろう。信仰とは行いの反対なのだ、信仰の結果救われるのだ、となるとパウロ書簡は読みにくいものになるのではないか。ライト先生が言っているのは、ヤコブ書みたいな感じで言っていると理解する方がよいだろう。行いを一切含まない、ピュアな信仰のことを言っているのではないだろうか。

     あまりに、信仰による義を強調して読んでしまうと、ローマ1−3章で、神の怒りがふれられていて、4章で行いが要らないになって、5章以降はどうもおまけになっちゃうのではないだろうか。

     しかし、なんか特定の個所に重きを置く聖書理解って一体・・・と思うよね。せっかくさ、一生懸命パウロじいさんやら、ペテロじいさんやら、ヨハネじいさんやらルカじいさんが書いているのにさ、おれ、気に入らないから、ってさ、ポイポイのポイって捨てていいんだろうか。ゴキブリホイホイ捨てるんじゃないんだからさ、そんなに簡単にポイポイしてよいのだろうか。


     新約聖書学の伝統の中では、信仰義認の話が出てくるのは、論争的な背景で出てくるのであって、Polemical Doctrineだとライト先生はおっしゃっている。
     
     律法か信仰か、行いか恵みか、当時は、行為義認ではなかったはずだ。Sandersは当時のユダヤ教は、行為義認の宗教でない。と文献学的に示した。(サンダースは、そうはいっていないという説もある、らしい。)

    律法・旧約聖書をどう見るか

     これまで、信仰だけを純粋に取り出そうと、従来はしていたのではないか。ライト先生がカリカルチャ的に書いているのは、律法はダメ、ハードルが高い。だから律法ではだめだ。人間はろくでもないから、だから信じるだけ、と新しい信仰義認というシステムが出てきた、とこれまで理解されていた。

     そして、旧約聖書を守ることが不可能なことを旧約聖書が示した。簡単な方法を示したのが新しいものに変わった。歴史的にはそういう傾向が出てきた。

     しかし、この傾向って、「イエスの言葉を読んでないんですかい。ダンナ、困りますぜ」だよなぁ。どう考えても。だって、「イエスは、この天地がほろびることなんか、律法がほろびることに比べたら、プッ、ゲラだぜ」(ここまでお下品ではないが)って言っているような気がするなぁ(ルカ 16:17)。

    信仰と行い

     カルバンは、信仰だけでは救われないと言っている。聖歌と行いが必要だといっている。今みたいな、信じたら、はい、あなたは天国です、というような安直な方法論に堕している。
     そういう部分が改革派の中にあるものだから、ライトさんに対して、改革派が過剰に反発しているのではないか。これまで、信仰と行いは、一種の対立軸でとらえられ、受け取られてきた。

     しかし、一つの神の民として考えると、信仰義認は、神の前に個人が義とされるかではなく、異邦人とユダヤ人が神において一つにされることと関係しているとライトは主張しているのではないか。信仰義認は、神の民が一つにされる。という理解が適切なのかもしれない。

     ライトは、教会論主張しているのであってて、救済論を捨ててしまったと批判される場合がある。あるいは、ライトは神の怒りを軽く見ている。神の怒りが言 及されない。と批判する人もいる。また、神の罪に対する怒りが爆発してないのはおかしい。神というのは、100点でないと満足しない神なので、キリストが 100点であり、キリストの転化があってはじめて神の怒りが満足されるという理解が薄いのではないか。

     といっても、まぁ、どうも今回のレクチャーの記録(ライトの講演記録のテキスト)を見ている限り、かなり、改革派の一部の方からのうっとうしい論争を挑まれ、どうも、それが一段落して、のころらしいので、かなり改革派の一部の皆さんに気を使ってしゃべっているようだ。別に改革派を否定するとかはしてない感じがしたんだけど、まぁ、誰にでも行きすぎはあるんで、せっかくいいものをお持ちなんだったら、もうちょっと冷静になられたら、って感じではないかなぁ、と読みながら思った。


    宣言としての福音


     No Other Lordの部分では、福音の定義を考える上で、euangelionが皇帝の就任宣言を意識させるというのは、新約聖書学者では常識になっている。このあたりが、一般の信徒レベルの福音理解とはかけ離れていて、『福音』が独り歩きしている感じがする。新約聖書では、宣言ととらえるべきであるのだけれども、いつの間にか、救いの教理を語るのが福音と誤解されている。一種、福音とは、(神による救いという)裏側を持った宣言であるが、説教ではそういう話をしている人は少ないのではないか。

     ライトは、従来型の福音も、否定はしていない。しかし、その後ろ側に、こういう意味や視点もあるのではないか。ライトは決して、救済論やこれまでの福音の内容を否定しているわけではなく、どちらかというと、再定義しているといえるのではないだろうか。

     そうか、新約学では、最近、euangelionが宣言と理解するのが一般的なのか。この種の話をミーちゃんはーちゃんが最初に知ったのが、「福音の発見」である。まぁ、この辺りのある程度詳しい議論は、福音の発見福音の発見ぜひお読みくだされ、と選挙が近いこともあるので、ちょっと連呼しておこう(ステマである)。

     ガラテヤ3:8での「異邦人が救われる」とは意味が違うかもしれない。異邦人の聴衆には、宣言という形でのeuangelionであれば、「あぁ、なるほど」とわかる(メイク・センス)するという部分があるのではないか。もちろん、救済は背景としてついてくるが、宣言する、の強調点が外れたのでは福音としては、神の側の主権が外れるので、あまり、意味がないのではないか。ある面、一方的な宣言(アナウンスメント)だけだと理解すべきなのではないだろうか。

     神の側の主権、これが意外と重要なのだが、それが抜けると、どうしても自分が何した、かにしたということが重視され、いつのまにか、自分が中心になり、神の位置づけが軽くなり、「神の座に人間があれ、座ってません?」ということにもなるのかもしれない、と思った次第。

     ということで、次回、次次回へと続く。あータイミングが悪い。ボーカム先生の講演記録もあるしねぇ。ひょっとしたらボウカム先生を優先するかもしれません。その際はご容赦賜りたく。

    評価:
    晴佐久 昌英
    カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
    ¥ 1,470
    (2010-01-20)

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