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2013.07.31 Wednesday

福音派と聖書 米国の場合 その5 最終回

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    これまで、たらたらと書いてきたこのシリーズ、今回が最終回ということで、長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。

     さて、まずは、ゴンビス先生のご発言の趣旨の要約から(最下部に、ゴンビス先生のご主張載せております)ご紹介。

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    福音は自由にしたのでは?

     これまでお示ししてきたように、福音派の人々は、聖書が何と言っているかを他者に語るために聖書を理解してきた傾向があるように思う。このようにお考えの方は、他者との結論のない会話を楽しめるよう、これらの人々を福音が自由にしたということを理解すべきだろう。

     聖書についての破たんした態度の背景には、議論し、自己の理解が優れていることを見せびらかすという動機に突き動かされている可能性がある。

    議論での勝利、他者に対する優位性を
    求める態度って?

     たとえば、エペソ人への手紙5章の中のある聖句が福音派の中でのジェンダーの問題に対する議論の焦点化した状況で私を訪ねてきた方と会話した時、私の考えをや自分の家の中でのその聖句から見たときの対応をざっとご紹介したら、「そんなことじゃなくて、この問題で違う考えをもつ人にどう答えたらいいのか、今日の社会でどう適応したらいいんですか?」と聞きかえされる羽目になった。「そんなとき、私ならなんかちょっと違うことを話すけど」という私の答えたが、その答えに、その方は失望されたようだった。
     私のところに話ししに来た人は、教会内で現在進行中の問題に勝利するための
    私が論拠や対応方法、反論への反論の根拠を与えてくれることを求めてきたようだった。他者を論破し自己正当化する読み方こそ、歪んで破壊的な聖書に対する態度だと思う。聖書の目的は戦うためや我々以外の他の人への優位性を示すためや、論争のためのものではなく、我々が悦びをもって神を愛し仕え、他者を愛し仕えるための知恵を得るためのものではないだろうか。


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    ミーちゃんはーちゃん的感想

    結論を求めない対話について
     ミーちゃんはーちゃんは、だらだらと、時にたらたらと考えることが好きなのである。あーでもない、こーでもないと結論の出ないまま、めんどくさくなった段階でいったん考えるのをやめる習慣がある。また、気になって、たらたらと結論の出ない問題を考えていることもある。そんな話に皆様にお付き合いいただいているのは望外の幸せであるが。

     実は、聖書的結論って、確かにある程度定番商品もあるが、しかし、定番商品による対応だけで済ませられない現実の複雑さがあると思う。人には他人に言えないこと、言わないこと、言いたくないこともあるだろうし、それを根掘り葉掘り、事情聴取のように聞き出して、あーだこうだと言えないことの方がむしろ多い。事情聴取されたいマニアの方は、別として。

     現実の中で悩んでいたり、議論の余地があることについて、それを聖書のことばで一刀両断にするかのような発言のは対話でもなく、決め台詞を言った瞬間対話はそれで終わってしまう。それこそ、水戸黄門の印籠が登場して、表面上問題は解決するけれども、問題の構造は残ったままになるのではないだろうか。結果として、その問題を契機として問題の理解の深まりの進展も、他者による自己の見直しとそれに伴う聖書理解の変容もないと思う。

     先日の内村先生のお話ではないが、他者と自己を含んだ問題の真剣な理解と対話のためには、そして対話(お茶飲み話を含めて)を楽しむためには、他者への尊敬が欠かせないし、対話は正邪を決するための異端審問の場でもないだろう。その辺のアメリカの福音派の理解の問題があるのかもしれない。

    問題は問題か?
    問題は解決しなければならないか?

     アメリカ社会で割とよくみられる傾向(日本でも最近そうかとも思うが)、問題があればそれを明らかにし、それに何らかの対応すべきだ、という考え方もある。それは一つの見識である。そして、それに対して安易にあるいは表面的に対応する側面があると思う。
     アメリカでの典型的な事例はペインキラーである。割とアメリカでは頭痛や腰痛などに頭痛薬(ペインキラー)がかんたんに処方されるし、一般薬でも買うことができる。現実対応としてのクイックフィックス(弥縫策)として有効ではある。しかし、これ、耐性や習慣性の問題があり、飲み続けると最悪麻酔が効かないとか、薬物依存になるなどの問題がある。対処療法として痛みの問題はペインキラーで解決がつくのだが、それがとんでもない副作用をのちにもたらすことも多いように思う。
     必ずしも、すべからく問題を解決しないといけないわけでもない。むしろ、問題と取り組む中で、その問題を様々の人々とともに味わうということもこれまた楽しいのではないだろうか。それが、ゴンビス先生の言う結論のない対話がキリスト者にもたらすことなのではないだろうか。そこに、決定版解決策をもってきた瞬間に、その味が失われるように思うのだが。

    焦点化することで過大認識されること
     ある対立点が焦点化すると、対立点が過大評価され、本来のその対立点の意味合いよりも過大に認識されることがある。対立が発生することで、本来スルー可能なはずの問題までも巻き込んで、焦点となる対立点が巨大な対立点になってしまうのである。本来は誤差の範囲のはずなのに。
     そのことに意識が集中するあまり、対立点と認識する関係者間で、そのことが過大に評価されてしまい、結果的にあとから見ていたら、どうでもよかったかも、と思えることが、意識されているときには重大問題になってしまって、余計に議論というのか対話がとげとげしいものになり、「ネ申」になってしまい、売りことばに買いことば、になっちゃうあたりが人間としての「かけ」なのだろうなぁ、と思う。ミーちゃんはーちゃんの黒歴史を振り返りながらそう思う。

     その意味で、落ち着いて、ちょっと引いた視点から、もう一度見直し、ゆっくりと考えながら対話することが大切なんだろうと思う。ちょっと別のことを話題にして、いったん冷静になることをゴンビス先生はお勧めなのだろう。

     それもこれも、「福音派の皆様には、まじめで熱心な方が多いから」であるからなのかもしれないけど、と「真面目にふまじめ一直線」を地で行っているミーちゃんはーちゃんは思う。ということで、怪傑ゾロリの歌でもどうぞ。

     こちらから。
      
    ---------------- オリジナル ----------------
     Evangelicals & the Bible, Pt. 5
    By timgombis



    Yesterday I cited a comment I’ve heard occasionally that indicates how some evangelical Christians regard the Bible.  They seek to understand the Bible primarily so that they can tell others what it says.

    Those with this sort of anxiety need to understand that the gospel sets them free to enjoy open-ended conversations with others.  They can be fully genuine and even receive others’ questions as invitations to examine Scripture more closely for themselves.
    This corrupted posture toward Scripture can also be driven by a desire to argue and demonstrate the superiority of one’s understanding.


    I once had a conversation in which someone asked me how I regarded a certain passage in Ephesians 5 that stands at the center of controversies over gender among evangelicals.  I gave him a succinct summary of how I thought about it.

    He then asked, “well, what are the implications of that sort of reading of the text and for an evangelical understanding of Scripture?”  I knew he wanted me to speak to a conflict in which he was involved, supplying him with ammunition for his next engagement.

    I told him that I could only speak to how our family appropriates this text, how it works out in our home.

    That didn’t satisfy him, and then he asked the magic question: “No, what I mean is, what would you say to someone who has a different understanding of this issue and how it should be applied today?”

    I told him I would find something else to talk about.

    I think he was disappointed.  He wanted me to supply him with arguments, responses, and counter-responses so that he could triumph in an ongoing conflict with some folks at his church.

    That’s a perverted and destructive posture toward Scripture.

    We don’t have the Bible for the purpose of fighting and squabbling, strategizing so that “our side” might dominate “their side.”  God gave his word to his people that we might gain a heart of wisdom, that we might love and serve God, loving and serving one another with gladness and singleness of heart.
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