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2013.07.24 Wednesday

福音派と聖書 米国の場合 その4(1)

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     今回も前回同様、ゴンビス先生の文章の日本語要約からご紹介。福音派の人々の聖書に対する姿勢についてゴンビス先生のご意見のご紹介とそれを見ながら思ったことなどについて、ちらちらと書いてみようかと。


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     少し前、聖書に関する福音派の姿勢について再考を促すようなコメントとの関係について書いていた。

     私は聖書に関する不適切な態度やどのようにクリスチャンがほかの人々に対応すべきかという態度が時々聞かされることと関係しているのではないかということもまた考え続けてきた。

    『他の人が・・・ということについてどう思いますか?』

     聖書的ということや神学的概念、例えば、「選び(神が特別の配慮を持って、ある個人に対応されることと解されることが多い)」について、福音派の人々と話していると、「うーん、そうだとすると、ほかの人が・・・といっていることについてどういうお考えをお持ちですか?」という質問が飛んでくることが時にある。

     驚きの原因は、質問そのものではなく、「・・・ということを言っている人についてどう思いますか」という質問の形をとっているなのだ。

    『正しいこと』を教えようとする背景
     私が最初に教え始めたとき、この手の質問には即答し、質問の背景についてあまり考えていなかった。このような質問の背景には、聖書への責任の誤解があるのでは?と疑い始めたのだ。

     生徒たちが(自分の信じる)聖書理解の内容についてほかの人々に認めさせることが、聖書に関するクリスチャンの責務と思っているのではないか、と考え始めた。

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    ミーちゃんはーちゃん的感想

     この文章を読みながら、ふっとミーちゃんはーちゃんが思い出したある大学生との対話がある。今から10数年前のころである。当時神戸市の西部の住宅地域で、連続児童殺人事件が起きて、住民をビビりあがらせた事件があった。事件そのものは陰惨で、今も後味の悪い感じが、その事件を思い出すだけでミーちゃんはーちゃんにも起きる。地震の後、それも間もない時期に起きた神戸の黒歴史の一つである。

    「みんなしてもらっているし」という同調圧力の日本
    「だれかが」という架空の第3者が出る米国

     事件そのものがミーちゃんはーちゃんの生活に直接影響することはその当時ほとんどなかったのだが、ミーちゃんはーちゃんの講義を受講していた塾講師のアルバイトしていた学生が、あまりに何週間も実習系の授業に出てこないし、毎週課しているレポートも出さないもので、どうしたのか、と問い合わせをしたところ、数日してやってきて「アルバイト先の塾の子供たちがおびえているので、そのケアをしていたので授業に出られなかった。ついては、授業の欠席を出席扱いにしてほしい。」と、のたもうた。「え、なんで出席扱いにせにゃならんの?」と聞き出したところ、「これだけの大事件だし、みんなほかの学生たちもほかの先生方に相談して出席扱いにしてもらっているから、みとめてほしい。」

     その学生に対し、こんこんと、「学生であるからこそ、家庭教師のアルバイトの職があるんじゃないの。学生の本分はアルバイトではなく学業なのではないか。などなど」とじっくりと話し合いながら説諭し(学生担当の役まわりでもあったので)、「事情はわかるが、ほかの受講生との関係もあるので、これまでの数週間分のレポートは、すぐには出せないだろうから、数週間猶予は与える。しかし、その期限までに提出すること、それでも、期限内に堕した学生よりは評価は低くなること、今後授業は休んでもよいがそれは親族等のご不幸や本人が病気やけがなどの理由がない限りは出席扱いせずに対応する」旨を説明してお引き取りいただき、まぁ、出席回数もぎりぎりよりは少し残す形で、無事単位取得し、ご卒業いただいた。通年科目だったので、ある程度数週間休んでも被害は軽かったというのもあるけど。

     日本の学生は、「みんなが・・・」と言い集合的な存在で語るが、ゴンビス先生のところの学生は、「だれかが・・・・」と言い、私や私たちではなく架空の非難されるべき第三者という存在を想定して語っているところに文化的な違いがあって面白い。

    近代という時代と平均人
     近代という時代は、啓蒙主義(enlightment)と科学の時代であった。中世を暗黒時代と定義したうえでの「科学」という光で様々なものを照らして「明かりlight で明るくする」ということで、科学万能主義、真実は一つ、あるいは、解決策はひとつ、という少し偏ったものの見方で様々なものが理解され、議論されてきた経緯がある。そして、学問は真理追求という名目のもと、かなりいろんなことを調査・測定し、実態はどうだ、ということを明らかにしてきた。そして、統計学という大量のデータを処理する技術が生まれ、さまざまな統計指標(統計量)と比較の数量的方法が検討されてきた。

     1998年ごろ、学生諸氏と一緒に読んだおはなし金融工学のような本として、Against the Godsという本があった。学生諸氏と読み終わる頃に日本語翻訳の本がリスクというタイトルで出た。その本の一つの章の中に、平均的な人間像を求め、人間の様々な部位の計測(アフリカ原住民コイコイ人の臀部の角度などを含む)に関して測定しようとした人々の話が載っていたことが思い出される。しかし、バーンスタインさんが指摘するようにそもそも平均的な人っていないのだ。しかし、その実在しない平均的な人をいまだに追い求める部分が日本人にはあると思う。

    多様性を平均値(みんな、Someone)に
    縮約することの問題
     多様性、違いそのものを味わい、神が与えたまいし違いとして享受せず、「みんなと同じ…」とゲーム論の世界では、Herding(群れの形成)とかバンドワゴン効果とかとしても知られる同一行動への収れんとか同調行動の精神的背景の分析がある。
     同調行動は、日本だけの専売特許ではないし、ドイツでのナチスドイツやイタリアでのファッショで起きたし、古代ローマでも起きたし、アメリカでもマッカーシズムの時に起きたし、ニクソンの時にも似たようなことが起きた。ユダヤでもイエスの十字架刑の時に起きたし、エルサレム入城でも起きた。洋の東西を問わず起きるみたいである。ミーちゃんはーちゃんの友人のお一人は、ハーゲンダッツのフレーバーの再開についての投票やケインズの美人投票のみならず、聖書理解でも起きることをご指摘しておられる。

     多分、日本では、『みんな』と表現され、英語では「Someone」と表現されるのかなぁ、と思う。

    みんながなんと言っているかを尋ねたイエス
    あなたがなんと言っているかも尋ねたイエス
     似たような事例がイエスと弟子との問答でも見られる。「人々は人のことを何だといっていますか」。弟子たちに「ある人や預言者の一人だといい、ある人はエリアだといっています。」

     しかし、イエスは、弟子たちに向かって「ではあなたは何と言いますか」と弟子の意見を問うている。人がどういうかもあるが、それよりもむしろ、弟子個人の理解を問うておられるようである。他の人がどういうかではなく、ほかの人にどういうかでもなく、イエスの弟子であるあなたが(あるいはあなた方が)神と共においてどう考えるのかを人生というプロセスの中で、毎日毎日、そして毎週毎週、毎月毎月、毎年毎年、私たちに問うている(そして再発見する)とおもうのですね。

     ゴンビス先生ご指摘のように、「聖書は他人を説得したり、他人に『正しい、とされていること』を押し付けるため、教えるため」にあるのではなく、我々が「神とは何か、神と共にいるものとは何か、神に聴くため、そしてその宣言をともに確認するため、そして、その宣言を共に味わうため」にあるのだと思う。そも、しょせん人間はかけがある存在である。かけがある存在がいかように言いつのろうとも「正しく」はあり得ないし、聖書を科学の枠の中でとらえること自体、科学という限られたスペクトルの可視光線の中でしか聖書をとらえなくなるのだろうと思う。そして、科学が定義しきれない波長(スペクトル)の部分はすべて抜き落としていくのだろう。

     平均値は、複雑な実体をシンプルにわかりやすくしてくれる便利なものではあるものの、実態をあまり語ったことにならないし、完全に平均的な人間が存在しない。神は、実に残念な存在であ理、かけある存在の私たちをいとおしみつつ、「あなたはどう思う」と聖書を通して語りかけておられるように思うが、違うかなぁ。

    要約前の原文


    Evangelicals & the Bible, Pt. 4
    By timgombis

    今回もゴンビス先生の日本語変換結果から。

    A month or two ago, I wrote about the relationship between a recurring comment and evangelical postures toward the Bible.

    I’ve been struck by something else I’ve occasionally heard.  I wonder if it, too, reflects an inappropriate posture toward Scripture and how Christians ought to relate to other people.
    While discussing biblical or theological concepts with evangelical folks, I occasionally hear a question put in this form: “Well, what would you say to someone who says that . . . ?”

    For example, when teaching on election, I made a case from Scripture that God does indeed set his love upon distinct people from eternity past to pursue them and draw them into his love.  In the midst of my explanation, a student asked, “well, what would you say to someone who thinks that God chooses someone based on his foreknowledge that they will choose to be Christian?”

    What struck me as odd isn’t the question but its form: “What would you say to someone . . . ?”

    When I first began teaching, I would just respond to the question, thinking little about how it was asked.  But I began to suspect that students who framed questions this way were misconstruing their responsibility toward Scripture.

    I wondered if students were imagining that their task with regard to Scripture was to convince others about its content.



    評価:
    Peter L. Bernstein
    Wiley
    ¥ 1,399
    (1998-08-31)
    コメント:金融工学や統計関係の雑学の読み物の本として、面白かった。

    ピーター・L. バーンスタイン
    日本経済新聞社
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    (1998-08)
    コメント:邦訳はこれらしい。読んだことがない。

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