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2013.07.06 Saturday

福音派と聖書 米国の場合 その3(1)

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    さて、福音派と聖書について、ゴンビス先生がお書きになっておられるものの日本語変換を載せながら、少し思うところを書いてみようかと。今回はオリジナルの3つ目の投稿の前半部分から。小見出しは、ミーちゃんはーちゃんが付けました。



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    恨みや苦情のようにして押し寄せる質問
     これまでの数日にわたって、私が福音派の人々から時々聞いてきたコメントについて思ったことを宣べてきた。指摘してきたように、これらのコメントの背景には、様々な角度や様々な態度があり、それらから出てきたもののようだ。表現されるとき、ある時には苦情のようであり、別の時には恨み節(哀歌)の様相を帯びる。

     地元の教会の夜のクラスの後、話しているときに、不満そうなご意見をお伺いすることがある。「えぇぇ、私は、人生のほとんどを福音派の教会で過ごしてきたのですが、こんな話は聞いたことが…」

    知らないことを悪と思っていたある女子学生
     以前、ある女子学生から、教室の中で受肉についていくつもの角度から話し合った後、彼女から私宛に電子メールが届いた。彼女は感謝しつつ、書いていたというものの、その最後のことばは非常に衝撃的なものであった。彼女は、彼女自身救い主をもっとよく知らなかったことを悪いなぁ、と思っていたらしい。彼女自身にとって、聖書がイエスの人間の側面を言っていることに精通していなかったことを後悔していると感じていたのであった。

     彼女に、「自分たちが、熱心な学び手であること、すなわち、我々が常に学ぶ姿であることを神が喜ばれること、我々が知らないことがあっても別に問題がないよ」と返事をしたのだった。

    福音派の聖書理解とそのひずみとその背景
     そして、私自身、このことは、福音派の人々が聖書について思っていることのどこかが、なんかひずんでいるのではないかと思うようになった。

     現代の文化の中での我々の役割についての福音派的なレトリックと、この世界に対する福音派的な態度が、聖書に対する私たちの姿勢を変質させているのではないだろうか、と今思うのだ。

     教会外に外に出るうえで準備(武装)ができているように、そして、世を変える準備のために影響力を与えるようにと教えられてきた。私たち自身が最大限効果を発生するように訓練されているべきとも。

     なぜ、これが関係するのか。できる限りの聖書の知識持っていることが求められ、情報をうまく活用でき、すべてのことを知り、様々な挑戦的な疑問に対して、聖書から正しい答えをすることができるように求められているのだ。

    知らないことは悪いことではないかもね
     私に聖書を読むように計画を立ててくれるように頼まれるとき、その依頼が聖書を効果的かつ効率的に聖書を知ろうとする思いから来ていることがわかる。

     私たちはそれまで知らなかった何かに出会ったときや、聖書の中で慣れ親しんでいないことに出会った時、この種の衝動とそれに伴うレトリックは、我々を不安にし、落ち着かない気持ちにする。知っているべきことについて知らないことについて、まずいことをしてしまったように感じるかもしれない。実際、私は、つい最近、ほとんど嘆願に近い哀願として「新しいことを学ぶことは、不公正だ」というかのようなコメントを聞いたのである。そして、「わかってらっしゃるとは思いますが、私は真剣に努力してきたのです。実際に一生懸命だったんです。」

     こういう人たちは、ちょっと落ち着く必要がある。


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    ミーちゃんはーちゃんの感想
     日本語変換結果を書きながら、福音派の人々が聖書とその理解に非常に熱心である、ということは間違いないことだとは思う。「聖書66巻」の部分と「その理解」に熱心なあまり、本来見落としている部分がある、ということに気付かないほど、熱心なのでだと思うし、それだけに「自分たちは聖書を熟知している」と思い込んでいるのだろうと思う。聖書を熟知している、それは間違いではない。しかし、その前に、『自分たちの理解に沿った方法で』聖書を熟知している、のではないか、と最近は思うのだ。

    福音派の人々の熱心さとひずみの背景
     福音派の人々の熱心さというのは、本当に敬服すべきものがある。まぁ、その片隅に隠棲するものがいうのも何だが。しかし、それと同時に、聖書のある言葉も思い浮かんだのだ。「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」という表現である。つまり、福音派的な聖書理解への熱心さが、聖書本文を食い尽くしてしまって、神の領分まで気がつかないうちに踏み込んでしまったのかもしれない。ミーちゃんはーちゃんにもその黒歴史があるので、この辺の感覚はよくわかる。

    何でも聖書から持ち出せばよいという厨2病設定
     もう少しいうと、何かすべてのことについて、聖書からの一家言を持たなければならないような気になっている人々や、聖書からすべてのことが対応できるという究極のハンディマニュアルとして聖書を理解したり、あたかも聖書があれば人間が全知全能であるかのごとくふるまうその振る舞いをしてはいないだろうか。もう、こうなれば完全無敵の厨2病設定である。

     まぁ、究極のハンディ軍事マニュアルとして聖書を使う人々に関しては、以下を参照。


    聖書は人間の自分自身に対する取り扱いマニュアルであって、自動車のマニュアルでもなければ、科学の教科書でもなく、Corei7プロセッサのテクニカルマニュアルやシスコのネットワーク機器のマニュアルでないと思うのだな。Raidサーバーがダウンした時にサーバーのマニュアルやらテクニカルノートではなく、黒革金文字の本を取り出して、その本から解決策が導かれるのを待つ技術者がいたら、困るのではないだろうか。

    福音派の背景
     福音派自体が、アメリカ文化というか、科学最重要視されてきた20世紀のアメリカ文化・文明の中で形成されてきた歴史背景のなかで考えるとき、文化や文明に対して敵対的な態度をとり、護教あるいは自己正当化のため必死になって、対抗してきた部分があるように思う。その意味で、福音派は、起こられることを覚悟で言うならば、そもそもアメリカ文化の中ではサブカルチャーの一種であったといえよう。(福音派すべてがおかしいということを意味していないことを読者はよく読み取るように)その結果として、アメリカでは一応1980年ごろまでは社会の共通用語というか概念としての聖書のことばを元に対話をしようとしているうちに、聖書のことばが武器として用いられるようになったのだろうと思う。

    サブカルチャーとしての日本でのキリスト教
    日本でのキリスト教の中のサブカルチャーとしての福音派 
     現実問題として、そもそも、日本の文化の中では、キリスト教界自体がサブカルでしかないとは思う。だって、人口の1%以下でしょう。そのうえに、日本における福音派は、日本社会におけるサブカルであるキリスト教界の中で、その一部をなすという意味で、サブカルでしかないのではないだろうか。それが自分自身を必死になって聖書から理解したことを開示しようとしている、とはいえ、その行動や聖書理解を正当化するということは、社会全体からみてみれば、「ふふ〜〜ん」と鼻で笑われても仕方がない存在なのではないか。いや、「ふふ〜〜ん」と笑われるからといって、「イエスを語る(宣言する、イワンゲロー)のをやめたらいい」とは、ミーちゃんはーちゃんもキリスト教界の片隅で隠棲させてもらっている身なので、言わない。「自分はこう思う」というだけしか所詮できないのだ。

     大体、初代教会は、サブカルもサブカル、いい加減ローマ帝国もそれも超辺境扱いされたユダヤというローマの属国の中で生まれた新興宗教のサブカル集団だったのだ。

     しかし、初代教会の人々は、それでもサブカルの道を歩み、自らが目撃したイエスの十字架上での死と復活を述べ伝え続けたのだから、それは、神と共に生きる民として我々も見習うべきだと思う。しかし、それは、彼らが神の民として武闘派的にギリシア人やローマ人を論破したからでないことについても認知しておくべきであろう。

    神のことばの宣言に力があるんじゃね
     時間はかかる。気が遠くなるほどの時間がかかる。しかし、それでもローマ帝国にかなり変な形の様々なグループも形成しながらではあったけれども、まぁ定着したし、また、定着していく中で繰り返し繰り返し規模の大小は別として聖書に立ち戻ろう、聖書に帰ろうという運動がなされてきた。そして、神のことばの宣言(イワンゲリオン:福音)を語り続けてきたのである。それが最初のころの目撃者の語った文脈から多少ひずんでいたり、外れていたとしても。

    聖書の中の知らなかった人たち
     知らないことに驚く必要はない。そもそも、イザヤ書1章の中で、「来たれともに語り合おう」といったのが神ご自身であるし、ヨブ記の38章あたりで、ヨブにあなたはどこまで知っているのか、と問いかけられ、「ヨブ、あんたなんも知らないから、プッゲラ」とはされなかったのが神ではないだろうか。

    完璧な人間という不幸な想定
     ただ、困るのはねぇ。知らないことについて、知っている振りする人なんだよねぇ。知らないものは、知らないと素直に言えばいいのにさ、とミーちゃんはーちゃんは思うのだな。無理に聖書的知識を持ち出したりせず、無理な論理展開せずにさぁ。
     この背景には、近代が持っていた完璧な人間という想定があるのだと思う。そもそも、人間は完璧ではない。だから神がいるのだけどさ。完璧なら、その人間は神になるのではないかとおもう。しかし、人間には欠けがある存在、贖いのイエスを常に必要とし続ける存在という理解が大切だと思うのだ。

     ゴンビス先生に一票。こういう人たちは落ち着く必要がある。「どうどう」

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     Evangelicals & the Bible, Pt. 3
    By timgombis
    Over the last few days, I’ve been reflecting on an occasional comment I’ve heard from evangelical people.  I indicated that it comes from different angles, with different attitudes.  Sometimes it’s a complaint or something of a lament.

    Talking with people after an evening class in a local church, I’ve heard the wistful comment, “Wow, I’ve been in an evangelical church my whole life and never heard this before . . .”

    I once received an email from a student after discussing several aspects of the incarnation in class.  She wrote with gratitude but shocked me with her closing comment.  She said she felt badly about not knowing her Savior better―that she wasn’t more conversant with what the Bible said about Jesus’ humanity.

    I wrote her that we please God when we are diligent students, which implies that we are always learning and that it’s okay (and normal) that there are things we don’t know!

    Again, I think this indicates something warped about how evangelicals regard the Bible.

    I wonder if much of our evangelical rhetoric about our role in culture and an evangelical posture toward the world perverts our posture toward the Bible.

    We’re told to “get equipped” to get out there and “make an impact,” to be prepared to change the world.  We need to get trained so we can be maximally effective.

    And what does this involve?   Well, we need to get all the Bible knowledge we can, master the information, know all the facts, and be prepared to respond to various challenges with all the right answers.

    When I’ve been asked about developing a plan to get to know the Bible, I can tell that it’s often coming from an anxiety to master the Bible efficiently and effectively.

    This sort of impulse, and its accompanying rhetoric, can make us very anxious and uneasy when we find out there’s something we don’t know, or when we encounter unfamiliar material in the Bible.  We may feel guilty for not knowing what we should know.  In fact, I recently heard the comment as a lament or almost as a plea, as if learning something new was unfair.  “Look, I really am making the effort, you know!  I’m really trying!”

    Such folks need to relax.

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