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2013.06.12 Wednesday

福音派と聖書 米国の場合 その1

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     お約束をしていながら、気になることが多すぎて、日本語変換したものをあげたいと思いながらも、あげられていなかったので、ちらっと日本語変換したものをあげておこうかと。これは、いつもお世話になっている大和郷にある教会のブログで最近出ていて、気になってたものの、これまで、採録できていなかったもののご紹介。

    元ネタは、こちらの
    ブログから。なお、元ブログには見出しがないので、青字でつけた見出しはミーちゃんはーちゃんが適当に入れました。

    福音派と聖書 Tim Gombis

    学生からの気になる反応
        過去数年にわたって、いろいろな場面で聖書を教えてきたが、福音派の人々からちょっこし変わった反応があるのに気がついた。あまりにしょっちゅう聞くので、パターンと読んでもよいのではないかと思うのだ。最初にそれを聞いた時、気になって気になって仕方がなかった。そんなことを言い出す精神構造がよくわからないのだ。

       この反応を学部の学生をかなり早めのスピードで教えているときに、頻繁にこの種の反応を耳にしはじめたのだ。

        ここ数カ月、このような反応はずっと見られるものとなり始めたので、この背景に何があるのだろうかと考え始めた。十分そのことに思いを巡らせているかどうかは自信がないが、しばらくの記事の中で、そのことを真剣に取り組んでみたい。

        思うに、気になっているコメントは、福音派が聖書について考えていることから出てきている何かを指示しているように思う。

        さて、詳細に入る前に、自分自身のことを少し明らかにしたほうが、この福音派の皆さんからのコメントについて、私がかなり気になるのかの理解してもらえるだろう。


        私は聖書的な家族に育った。私たち家族は、毎朝聖書から何説かを読んでいた。時々夜には、母がポップコーンを作ってくれて、姉と私は聖書に関するムーディーの短編映画を見たものだった。幼いころから様々な暗証聖句大会などにも参加してきた。家族が集まると難解な聖書か所やさまざまな教派伝統の違いに関して、話し合ったものだった。私自身は、その意味で、欽定訳聖書の世界に育ったのだ。


     ほー、ムーディーの短編映画。25分くらいのやつですよね。それ見るのにポップコーンって。それって、やはりアメリカン。日本では、きちっと座って聖書のお勉強、お勉強って感じで、ありがたがるようにして見せられたけど、さすがに60年代に作られた作品だけあって、ミーちゃんはーちゃんが見た80年代ころには、大分、???になっていた。今見たら、爆笑物、あるいはトンデモ映画ともされかねない黒歴史作品もいくつかあるような気がする。

     欽定訳は、日本でいえば、文語訳聖書(大正改訳)ですね。こんな感じ。

    太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。


     いまだに、現役でこの聖書を読んでおられる皆様も日本でもおられるが、北米大陸、英国諸島および連合王国では、これ以外聖書でない、という立場の方もおられる。欽定訳聖書が普通というところから、著者のTimさん、コンサバ系キリスト者のご家庭で育ったことがうかがわれる。欽定訳聖書を使っている教会にNew International Version(これが読みやすかった)持ってった日には、それは聖書ではない、という勢いだったよな。多分、そういう感性なのだと思う。

     ということで、このポストの著者は、かなりコンサバ系の背景を持っているらしい。ということで、Timさんの文章を日本語変換したもののご紹介に戻ろう。

    知らないということを知った大学時代

     大学に入学して間もなく、個人的に信仰を持ち、そして、聖書を学び始めた。聖書を何度も貪欲といってよいほど読み、そして、それに思いを巡らせ、あちこちに印をつけ、そして友人や寮の同室の人と議論をし、聖書理解に役に立つ様々な資料を集め始めた。もちろん、私自身聖書に相当親しんでいることに驚きもしたが、あまりに知らないことも多いことにも驚いたのである。

     私は聖書の背景に関するクラスを大学の4年で取ったが、聖書の聖句はよく知っていることはよくわかったが、古代の文化的背景の中でそれを見直した時、まったく新しい知識のレベルに到達したことが分かったのである。見出すべきことの多さに、圧倒されてしまった。


      なんか、自分自身のことを思うようだ。大学の図書館に行って、ヨセフスの全集もの(なぜかそんなものが図書館にあった。全学の中央図書館であるが)だの FFBruceのヘブル人への手紙の聖書注解だの、池田裕先生のオリエント史(単位はもらった)だの、古典ギリシア語の授業を受けたりしていたころの日々を思いだす。最初は何の事だか、 さっぱりであったが…。今でも、ギリシア語はそれに近い。いやぁ、大学時代に新約聖書、旧約聖書が新鮮に見えたこと見えたこと。それと同じ経験をTim先生もしておられたとは。閑話休題。

    聖書研究、面白いはずなのに・・・
        その後聖書について学び、学ぶことに対する愛情を持って神学校に行った。神学校を卒業し、博士課程での研究を始めたとき、聖書理解のさまざまな部分を読み解く、新しい観念的な世界が広がり、衝撃を受けた。

        この基本的な延々と続く聖書理解についての新しい発見が面白くってしょうがないということは、ずーっと続いている。そして、この面白く感じることに対する、この数年見聞きし始めた、ある発言が気になり始め、「え、なんで?」という気持ちになってきたのであった。

        私が、福音派的な背景を持つ学部生を教え始めて、間もなく、「そんな話は聞いたことがない」という反応が出ているのに気付いたのだ。そして、その反応に対して、「そうだろうとも、いっぱい面白いことがあるよね」とは答えていたのだ。

        そうこうするうちに、「こんな話は聞いたことがない。先生の言うことは、聖書的ではない」と返ってくるようになった。

        そして、もっと詳しく説明してくれるように頼んだ。その学生が言うには、「えーっと、こんな聖句があったような・・・」と若者向けの讃美歌の一説と聖書の3つの聖書の節をチャンポンにしたようなことをいいだした。


     あー、こういう人、いますよね。聖書本文じゃなくって、適当に聖書の箇所を引き継いで、繋いでる人とか。聖歌とか、賛美歌集を聖書注解代わりに使っている人とか。こまるんですよね。全面否定するわけにもいかないし、本人は、まっとうな聖書理解だと思っているから、♪さぁ大変、変な解釈飛び出して、坊ちゃん一緒にあしょびましょう♪(どんぐりコロコロのメロディで)って、よくあるんですよ。本人たちは大まじめなだけに、その誤解を解くのが大変なんですね。特に、子供向け讃美歌、Youth向けのPraiseソング(はい、ヒ○ソングなんか)の影響は大変。英語だと、結構言い切りの歌詞が多いから、感覚はわかるけどさぁ、ちょっとそれ、行き過ぎでない、という歌詞もないわけではない。それと聖句をチャンポンにして、シェークした神学って、聞きたくないかも。

    繰り返される「そんな話は聞いたことがない」


     この種のことは、若者故の傲慢さゆえに生まれていると理解はしたが、しかし次第に、このことがかなりの頻度で起きることに気づき始めた。セミナーに入って3週目になると、生徒の一人が手を挙げて、「先生、こんな話は聞いたことがありません。」と言い出すのであった。

     こういう反応にたびたび接するようになってからは、「あ、そうですか。よかったね。あなたとあなたのご両親は、あなたが知らないことに何千ドルも私に払ってんだから。それこそ”教育”ってもんだよね。そういってもらえるってことはさ、僕がさ、ちゃんと仕事してるってことだよね。」と返すことにし始めた。

     あー、Gombis先生、なんてサキャスティック!確かに学生のめんどうみていると、こうも言いたくなること多いけど。いや、実はミーちゃんはーちゃんも学校の先生もしている身からすると、こういう、ちょっと知ってます的な生徒さん、一番教えにくいんだよね。勝手に何でもやっちゃって、挙句の果てにできなくなって、ソフトウェアや開発環境にブチ切れ始める。いやぁ、聞かずにやるあなたの問題ですから、あなたがプログラムしたとおりに開発キットは動いてますから、あなたのプログラムがまずいんですから、といってもお怒りが収まらない。開発キットが、ワードやエクセル風の装いをし始めたから、そういう誤解がうまれやすい、というご指摘には反論しようがないが、どこにでもいるんすね。こういう方。あーめんどくさい。

    挙句の果てに「聖書的でない」
     次第に分かり始めたことは、福音派の文化の中に、学生たちがなれ親しんでいないことについて、「それは聖書的でない」といわせる何かがあることに気付いた。

    Tim先生。正解。

    さらに繰り返される「聖書的でない」発言


        ここ数年の間、ほかの場面で、同じような反応を別の福音派の人々から聞くようになった。それは、挑みかかるような姿勢で語られることが滅多になく、一種の裏切りのような語感が言葉に含まれるような感じであった。私に悲しみを帯びた口調で最近ある人が言ったことがある。「私はこんなことをこれまで聞いたことがない。私自身、これまでの半生、福音派の中で過ごしてきたが、こんな話は聞いたことがない。」

        いま、私自身は福音派的でないところでの講義を担当しているが、私が今感じる反応は、少し違っていて、『この話、面白いですね。」とか「お話、とっても楽しくて、学ぶことができました。ありがとうございます」というものである。

        たった一人だけ、私に「こんなことは聞いたことがない」と言ってきた人がいる。あなたが想像する通り、福音派の人であった。

     あー、こういう人、いるんですよ。自分が聞いてきたこと、自分自身の考えが中心になっていて、それ以外のものを受け入れない人々。メガネをかけてしまっていて、そのメガネをはずすことができない人、あるいは、自分で自分の殻に閉じこもってしまっていて、そこから出られない知的引きこもりの人。まぁ、日本は、自宅警備員の方もすくなくないんで、納得的ではあるけれども、アメリカでもそうなんだ。

     「聞いたことがない」というだけなら、自分は勉強不足です、というのと同じことだからよいのだけども、それを聖書的でないっていい切れる精神性って、ある意味すごい、という感じがするなぁ。

    聖書理解に歪んでません? 


        奇妙なこととして私自身が驚いていることは、私がまさに教えようとしてきたことが、福音派をイライラさせているということだ。私自身は聖書の学びそのものに関与してき、そして、発見とその喜びを含めて経験した。それを教えようとしたのだけれども。
        私が先にも述べたとおり、福音派が聖書をどう見ているのか、ということに関して、何か歪んでいるような感じがするのだ。

     そう、この発見する喜び、というのは、自分自身の聖書理解を見直す、反省してみる、批判的に考え直す、という営みであるので、確かにしんどいことは間違いない。ある面でいうと、自分が考えてきたものを否定することなので、自己否定でもあるから、厳しいように思うのだ。

     しかし、モーセの顔覆いではないけれども、勝手に覆いかけてどうするんです?パウロもそうだが、ヨハネもそうだし、イエスご自身もうそうであるが、神に近づけ、とおっしゃっておられるように思うのだが。それなのに、自分で覆いをかけて、その隙間からしか見ないってのもねぇ。これに関しては、また別途ご紹介する予定。

    これから、いくつかの記事で、このことについての説明といくつか考えていることをご紹介したい。

    ということで、Gombis先生、予告しておられるので、続きは、次回か次次回くらいにご紹介の予定。チャンネルはそのまま、しばしお待ちいただきたく。

    コメント
    ・・・暫くぶりに安全に触れられる部分がありましたので・・・突っ込み入れさせていただきます。
     ふっふっふ。( -_-)←意味深な笑い?

    >コンサバ系

     原語(英語)なら意味間違いなく通りますが・・・この形で使うと日本語で・・・最近の福音ルーテルや聖公会のお話しを思い出して吹き出しそうになりました。・・・ィエ、ユリトカその同類が嫌いとかのお話しではありませんから誤解されないように・・・
     ・・・どちらかと申せば、白粉でなく石鹸の香りがするお姉様が大好きです。



    全くお話し飛びますが、池田裕先生の教え子、お歳を考えると・・・原野にぽつんと浮かぶようだった頃ですね。さぞご不便だったでしょう。学ぶには良かったのかしら・・・


    • ひかる
    • 2013.06.12 Wednesday 12:34
    >コンサバ系

    > 原語(英語)なら意味間違いなく通りますが・・・
    >この形で使うと日本語で・・・最近の福音ルーテルや
    >聖公会のお話しを思い出して吹き出しそうになりまし
    >た。・・・ィエ、ユリトカその同類が嫌いとかのお話しで
    >はありませんから誤解されないように・・・

    確かに、コンサバ系だと、Elleとか25ans、Oggiなんてのが、浮かんでくるかも・・・

    女性向けファッション雑誌を何冊も持てる体力って、一体・・・ 大体1冊で、ウルトラブック1台並でしょ・・・

    いやぁ、荒野にポツン、ではなかったですね。珍来なんかはありましたし。住まいいたしたのは、一ノ矢でござるし。津村先生が抜けた後で、池田先生が非常勤で来たたころ、ってwwww年がばれますね。コスモ星丸が話題になってたころですよ。しかし、考えてみれば、このネーミングって、どうなんだろう。コスモ星丸・・・
    • ミーちゃんはーチャン AKA かわむかい
    • 2013.06.12 Wednesday 13:34
     (ー'`ー;)う〜ん・・・・続けるか迷いがあったのですが

     言語のお話しで、改めてルターにしろカルビンにしろ何故現地語聖書を採用したのか・・・むか〜〜〜し上智のラテン語の先生が非ラテン語諸国の人がラテン語学ぶのはたいへんですと言っていた意味を勘違いしていたのだな〜〜〜と改めて・・・
     その筋で考えると、モハメッドがクルーンの翻訳を禁じたのは、改めて頭が良かったのだなと思ったり・・・
     アラム語やへブル語からコイネーの段階で我々日本人では気がつけない断層も結構あるのではと・・・
    • ひかる
    • 2013.06.13 Thursday 21:55
    ひかる様

    コメントどうもでした。

    多分、外国語翻訳の際には落ちてしまうものがあるように思います。完全な翻訳は確かに厳しい。さらに、年齢や様々な社会的属性によって、同一現地語の使用者の中でも、違いがあるわけですし。また、鈴木典久さんだったかが、聖書日本語の中でも、なんか面白いことを言ってたような。

    なかなか、翻訳というのは難しいものだと、今回も、本の出版の黒幕wwしながら、思いました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.06.14 Friday 04:25
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